三国志 え


栄邵


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盈  伏皇后の母


盈(えい)姓は不明
出身地不明(??~??)

伏完(ふくかん)の側室。

195年、娘の伏寿(ふくじゅ)が献帝の皇后に立てられた。

209年に伏完は没し、214年に伏寿が生前の父へ曹操の非道さを訴えた手紙が明るみに出たため、伏寿と一族の百余人が処刑された。

赦されたのは母の盈ら19人に過ぎず、いずれも幽州涿郡に追放された。(『後漢書 后紀』)



衛温


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衛開


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衛楷


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衛瓘  鍾会の乱と八王の乱


衛瓘(えいかん)字は伯玉(はくぎょく)
司隷河東郡安邑の人(220~291)

魏・晋の臣。衛覬(えいき)の長男。
父は「魏書」に列伝された名臣だが11歳の時に亡くし、母の陳氏(ちんし)へ孝行を尽くした。物静かで公平な人柄は、名声に実態が伴っていると評された。

240年、尚書郎に任じられたが、当時の魏は法が厳しく母が心配したため、通事郎へ転属を願い出て、後に中書郎へ移った。
曹爽(そうそう)が専制を極めていたが衛瓘は近づかず、傅嘏(ふか)ら心ある人々に称賛された。10年の長きに渡り中書郎として活躍した。
260年、曹奐(そうかん)の代になると侍中に上り、やがて廷尉になり司法をあずかると、事件の大小に関わらず熱心に職務に励んだ。

263年、蜀征伐の軍を監督した。首尾よく蜀を滅亡させたが、成都を陥落させた鄧艾は増長し、配下に勝手に官位を与えたりと独断専行が目に余った。
謀叛を企む鍾会はこの機とばかりに鄧艾を非難し、衛瓘も同意し都に処罰を願い出た。
鄧艾逮捕の詔勅が下ったが、専用の檻車が遠く成都にまで届くには時間が掛かり、鄧艾が察知することを恐れた鍾会は、先に逮捕するよう衛瓘に命じた。兵の少ない衛瓘が失敗して殺されれば、さらに罪をかぶせる狙いだったが、衛瓘は夜中のうちに成都に入り、鄧艾の配下に逮捕を宣告し、反対すれば処刑すると脅して従わせ、眠っていた鄧艾を捕らえた。

翌264年、鍾会が反乱し、胡烈(これつ)ら諸将を投獄した。
鍾会は鄧艾の逮捕に協力した衛瓘を味方と思い込み善後策を相談した。衛瓘は厠に行くと称して外に出ると、胡烈の昔の配下に事情を話し、成都外の兵に鍾会の反乱を伝えさせた。
衛瓘は鎮圧の兵が集まるまで時間を稼ぎ、城外の騒ぎに気づいた鍾会が様子を見に行くよう命じると、自分で行くよう勧めるなど警戒心を解く工作をした。
衛瓘が出掛けると鍾会はようやく不審を抱き、追っ手を差し向けた。衛瓘は仮病を使い、大量に塩を入れた白湯を飲んで吐いたり、側近の医者に重病と診断させたりして信じ込ませ、まんまと城外へ抜け出すと翌朝に兵を招き入れ、鍾会を誅殺した。

この頃、洛陽へ護送されていた鄧艾はすでに配下によって救出されていたが、衛瓘は彼が生きていると投獄したことへの報復を受けると考え、蜀征伐の際に鄧艾に処刑されかかった田続(でんしょく)を焚き付け殺させてしまった。
混乱を収めた衛瓘に朝廷は恩賞を贈ろうとしたが、勝手に自滅しただけだと全てを固辞した。
その後、関中、ついで徐州の都督として全権を預かり、列侯された。

晋の代になると司馬炎に絶大な信頼を受け、青州を統治し治績を上げた。
271年には幽州に移り、分割し平州を立てるよう上表し、認められると幽・平2州を任された。
当時、幽州では烏桓と鮮卑が国境を荒らしており、衛瓘は両者が相争うようけしかけ、烏桓を晋に帰順させることに成功した。

275年、烏桓の大人(王)の息子である拓跋沙漠汗(たくばつさばくかん)が朝貢に来ると、衛瓘は彼を都に留めさせ、その隙に烏桓に離間工作を仕掛けた。
2年後、拓跋沙漠汗が帰国すると、衛瓘に調略された大人らは彼を讒言し、ついに父の拓跋力微(たくばつりょくび)によって殺された。
拓跋力微が間もなく病に倒れると、大人の庫賢(こけん)に軍権を委ねた。だが庫賢にもすでに衛瓘の魔の手が及んでおり、庫賢は「晋は拓跋沙漠汗を殺した罪で、大人たちの長男を殺すよう命じた」と告げ、驚愕した大人は離散し、烏桓の勢力は著しく弱体化した。
朝廷は衛瓘を讃え、子を列侯しようとしたが、子ではなく弟に譲るよう請い、子らも同意したため称賛された。

278年、都に上ると法のもとに厳粛に政務に当たった。
衛瓘は政治だけではなく文学・筆にも長じ、草書にかけては索靖(さくせい)と並び称され「一台二妙」と呼ばれた。また後漢末に「草聖」と呼ばれた張芝(ちょうし)字は伯英(はくえい)を引き合いに、「衛瓘は伯英の筋を得て、索靖は伯英の肉を得た」と評したという。

283年には司空に上り、四男の衛宣(えいせん)の妻に司馬炎の娘を迎え皇族に連なった。
一方で皇太子の司馬衷(しばちゅう)が暗愚なのを案じ、内心では廃嫡を考えていた。ある時、酔った勢いで司馬炎の足元に取りすがると、玉座を撫でて「この座は惜しまれるべきです」と言った。
司馬炎は廃嫡のことだと察したがあえて気づかないふりをし「衛瓘は泥酔したようだ」とごまかした。司馬衷の妃の賈南風(かなんぷう)はこの一件から衛瓘を恨むようになった。

当時、皇后の父である楊駿(ようしゅん)の一族が権勢をふるっており、衛瓘を煙たく感じていた。
290年、楊駿は酒にだらしない衛宣を宦官とともに讒言し、離婚に追い込んだ。
衛瓘は身の危険を察知し、老齢を理由に引退を願い出た。司馬炎は名誉職に栄転させ、莫大な恩賞を与えた上で引退を認めた。
後に衛宣への讒言を知ると復縁も考えたが、その前に失意から病を得た衛宣は没してしまった。

291年、司馬衷の代になり、傀儡政権を敷いていた楊駿が、司馬瑋(しばい)と結託した賈南風によって誅殺された。
衛瓘は楊駿によって追放された司馬亮(しばりょう)とともに朝政に復帰した。
衛瓘と司馬亮は、横暴で残忍な司馬瑋を憎み、裴楷(はいかい)に兵権を譲らせ、帰国させようとした。司馬瑋は激怒し、恐れた裴楷はすぐさま辞退した。

司馬瑋の配下の岐盛(きせい)はもともと楊駿の側近だったが、裏切って誅殺に加担したため、衛瓘は節操の無さを嫌い処罰しようと考えていた。
岐盛は先手を打ち、司馬瑋からの密告と偽り、衛瓘と司馬亮が皇帝廃立を企んでいると賈南風に訴えた。
かねてから衛瓘を憎む賈南風は、すぐさまこれを採り上げ、諸王に衛瓘・司馬亮の捕縛を命じた。

衛瓘は抵抗せず清河王の司馬遐(しばか)の軍に捕らわれた。
この時、衛瓘が司空の頃に罪を犯し、追放された栄晦(えいかい)が軍中におり、彼は司馬遐の制止を無視して衛瓘と子や孫ら9人を殺してしまった。
司馬亮も誅殺された。

その後、賈南風は「詔勅を偽造し衛瓘・司馬亮を殺した」と罪を着せ、司馬瑋を誅殺し晋の実権を握った。これを好機と衛瓘の娘らが名誉回復と栄晦の処罰を訴え、ともに認められ栄晦は一族もろとも処刑された。

衛瓘・司馬亮の死は、楊駿の誅殺に端を発する、いわゆる「八王の乱」の2つ目の事件である。



衛覬  関中のインフラを整える


衛覬(えいき)字は伯儒(はくじゅ)
司隷河東郡安邑の人(??~230)

魏の臣。

能書家・名文家として名高く、若くして頭角を現し、曹操に仕えた。
200年、官渡の戦いに際し、曹操は荊州の劉表(りゅうひょう)を牽制するため、益州の劉璋(りゅうしょう)に兵を出させようと考え、衛覬を使者に出した。
しかし長安まで進んだところで交通が遮断されているのを知り、関中に留まった。衛覬は関中が荒廃していることに気づき、荀彧(じゅんいく)に復興するよう進言し、インフラ整備に尽力した。
しかし関中の全権を任された鍾繇(しょうよう)は軍事的な平定を旨としており、両者はしばしば対立した。
ちなみに鍾繇は名を冠した「鍾繇体」で知られる楷書の始祖であり、衛覬にとっては二重の意味でライバルである。

211年、曹操は張魯(ちょうろ)の治める漢中制圧を考え、関中軍閥について意見を求めた。鍾繇は「関中軍閥の馬超らから人質を取る」と強硬策を勧め、衛覬は「下手に刺激せず官位を与えて手なずける」と逆の献策をした。曹操は鍾繇の策を容れたが、馬超らの一斉蜂起を招いてしまった。

その後、都に召還されると朝廷の古い儀礼に詳しい衛覬は、王粲(おうさん)とともに魏国の制度確立のために働き、曹丕の帝位禅譲にも大きく貢献した。
列侯され、曹叡の代にも重きを置かれ、230年に没し子の衛瓘(えいかん)が後を継いだ。



衛京


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衛継


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衛権


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衛固


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衛恒


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衛茲


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衛恂  楊俊に抜擢される


衛恂(えいじゅん)字は不明
兗州陳留郡の人(??~??)

魏の臣。

審固(しんこ)と同じく兵士の身分から楊俊(ようしゅん)に抜擢された。
審固は郡太守を歴任し、衛恂は御史・県令に上った。



衛慎


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衛臻


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衛旌


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衛宣  衛瓘の飲んだくれの四男


衛宣(えいせん)字は不明
司隷河東郡安邑の人(??~290)

魏・晋の重臣の衛瓘(えいかん)の四男。

283年、父は司空に上り、衛宣は司馬炎の娘の繁昌公主(はんしょう)を妻に迎え皇族に連なった。
当時、皇后の父である楊駿(ようしゅん)の一族が権勢をふるっており、衛瓘を煙たく感じていた。
290年、楊駿は酒にだらしない衛宣を宦官とともに讒言し、離婚に追い込んだ。
衛瓘は身の危険を察知し、老齢を理由に引退した。
司馬炎は衛宣への讒言を知ると復縁も考えたが、その前に失意から病を得た衛宣は没してしまった。



衛弥


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衛文経


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衛烈


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爰翰


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爰邵


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爰敞


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爰津  袁渙の裁決


爰津(えんしん)字は不明
出身地不明(??~??)

隠者。

袁渙(えんかん)が梁国相の時、穀熟県長の呂岐(りょき)は親しく付き合っていた朱淵(しゅえん)と爰津を留学先から帰郷させ、朱淵を師友祭酒に、爰津を決疑祭酒に任命したが、二人とも応じなかったため逮捕したうえ殴り殺した。
その処置を非難する者が多かったが、袁渙は弾劾しなかった。

主簿の孫徽(そんき)は「朱淵らの罪は死刑に相当せず、県長は死刑を独断で決められません。それに朱淵を師友祭酒に任命しながら、師友に対する処置とは思えません」と反対した。
袁渙は「独断で死刑にしたのは確かに罪である。だが君主が家臣を師友に任命するのは敬意を示すためで、罪があれば罰を加えるべきだ。任命を無視した罪を議論せずに、弟子が師を殺したと非難するのは見当外れだ。近頃の世は乱れ、下位の者が上位の者を侮っている。世の中の欠陥を助長するのは誤りである」と言い、やはり弾劾しなかった。(『袁渙伝』)



爰靚


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爰倩


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爰兪


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苑御


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苑康


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袁胤  袁術の従弟


袁胤(えんいん)字は不明
豫州汝南郡汝陽の人(??~??)

袁術(えんじゅつ)の従弟で腹心。
字は仲績(ちゅうせき)とwikiに記されるが出典がわからなかった。

194年、孫策が劉繇(りゅうよう)を破り江東を制圧すると、袁術は丹陽太守に袁胤を任じた。
ところが孫策の従兄弟の徐琨(じょこん)に追放されてしまい、袁術は祖郎(そろう)に山越を扇動させ報復したが、祖郎は捕縛された上に降伏し、失敗に終わった。

199年、袁術が没すると、その娘婿の黄猗(こうい)とともに袁術の妻子を連れ、かつて袁術に仕えた劉勲(りゅうくん)に身を寄せた。
だが劉勲が遠征した隙に城を孫策に攻め落とされ、妻子と残党を奪われた。

その後、袁術の息子は孫権に仕え、娘は側室となったが袁胤・黄猗の消息は不明である。

「演義」では袁術の甥にマイナーチェンジ。ハチミツを所望する断末魔を聞き、逃亡中に殺され玉璽を奪われた。

SLG「三國志シリーズ」では脳筋だらけの袁術軍で貴重な内政担当である。



袁㝢


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袁奥


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袁侃  袁渙の長男


袁侃(えんかん)字は公然(こうぜん)
豫州陳国扶楽の人(??~??)

魏の臣。
袁渙(えんかん)の長男。

議論に優れ、柔和だが威厳があり、保身を考えなかったため多くの人に慕われた。
司馬懿は若い頃の彼と、荀彧の子の荀顗(じゅんぎ)を引見しともに「彼らの息子なだけはある」と評価した。

曹叡の代に許允(きょいん)とともに尚書選曹郎となったが、揃って罪を犯しどちらかが処刑される見通しとなった。
許允は「私は確実に死罪だが、あなたは功臣の袁渙の子だから殺されはしないだろう」と頼み込み、袁侃が主犯を引き受けた。
予測通りに死罪は免じられ、やがて二人とも高位に返り咲いた。

尚書にまで上ったが早逝したと記される。没年は不明だが248年頃に杜恕(とじょ)に忠告を与えており、その頃までは存命である。
三人の弟も有能で、一族は裴松之の時代(430年頃)にも名家として続いている。



袁毅  晋の汚職官吏


袁毅(えんき)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

袁毅は鬲県令の頃、王恂(おうじゅん)に駿馬を贈ったが、貪欲な彼のことだから裏があると考え、王恂は受け取らなかった。(『王粛伝』)

275年、袁毅の汚職が発覚した。
何劭(かしょう)も兄の何遵(かじゅん)とともに収賄で逮捕されたが、司馬炎は何劭と同い年で親密だったため「袁毅と何劭の家は何世代にもわたり付き合いがある。ただの贈り物だ」と弁護したため処罰されなかった。(『晋書 何劭伝』)

華暠(かこう)は以前、袁毅に命じて食客を記録させていたが、袁毅は「賄賂を払わなければ奴僕として記録する」と食客を脅していた。
荀勗(じゅんきょく)はかつて華暠に娘の嫁入りを断られたことから恨んでおり、司馬炎へ「華暠と袁毅は親族です。実は華暠が首謀者です」と讒言したため、華暠は罷免された。
何遵は(自分も疑われたので矛先をそらそうとしたのか?)華暠の爵位を剥奪するべきだと主張したが、却下された。(『晋書 華暠伝』)

朝臣の多くが処罰されたが、鄭黙(ていもく)ら兄弟だけが清廉潔白で、関わっていなかった。(『晋書 鄭黙伝』)



袁徽


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袁元長


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袁粲


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袁氏


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袁嗣


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袁春卿


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袁準


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袁叙


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袁信


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袁綏


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袁成


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袁忠


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袁綝


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袁迪  袁曄の祖父


袁迪(えんてき)字は不明
徐州広陵郡の人(??~??)

呉の臣?

戦乱を避けて同郷の張紘(ちょうこう)とともに江東に移住した。

陸瑁(りくぼう)は若い頃から義に厚く、家の後ろ盾を捨て、陳融(ちんゆう)、濮陽逸(ぼくよういつ)、蒋纂(しょうさん)、袁迪ら清貧の士を招き彼らと苦楽をともにした。

孫の袁曄(えんよう)は「献帝春秋」を著した。(『陸瑁伝』)



袁霸


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