三国志 お


区景  張津を殺す


区景(おうけい)字は不明
荊州長沙の人(??~??)

後漢の臣?
交州刺史の張津(ちょうしん)に仕えていたが、荊州の劉表(りゅうひょう)と争い、勝ち目もないのにたびたび出兵する張津に反発し、ついに反乱し殺してしまった。
以後の事績は不明である。

「古今図書集成」には長沙の人で蒼梧太守と記されているそうで、単なる一兵卒の反乱くらいに思っていたが、太守による刺史の謀殺という一大事になって驚いた。

それとも張津の暗殺と前後して蒼梧太守の史璜(しこう)が没し、劉表が刺史と太守の後任を勝手に派遣しており、それに対抗し朝廷が正式な太守として、張津の兵を受け継いでいただろう区景を指名した、という流れも考えられるか。

また長沙の区氏といえば、孫堅に187年に討伐された区星(おうせい)がおり、珍しい姓なのでまず間違いなく区景と同族であろう。
区星は孫堅に瞬殺されたが1万もの兵を率いており、それなりの名家であったことは確かである。



王偉


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王彧


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王彧


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王贇


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王惲  王粛の長男


王惲(おううん)字は不明
徐州東海郡郯の人(??~??)

魏の臣。
王粛(おうしゅく)の子で、王朗(おうろう)の孫。

256年、父が没すると後を継いだが、早逝し跡継ぎもなかったため家名が断絶してしまった。
263年、王粛と王朗の功績を惜しみ、勅命で次男の王恂(おうじゅん)が後を継いだ。



王営


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王越


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王延


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王衍


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王琰  高幹を討ち取る


王琰(おうえん)字は不明
司隷左馮翊の人(??~??)

魏の臣。
同時代に王琰という人物は二ヶ所に見え、記述は少ないが同一人物としても差し支えないので、事績をまとめる。

206年、曹操に反乱するも敗れた高幹(こうかん)は、荊州へ落ち延びる途上で上洛都尉の王琰に首を獲られた。
これにより王琰は列侯されたが、一報を聞いた妻は、富貴を得た夫は妾を取り自分を捨てるだろうと考え、泣き叫んだと伝わる。

「常林伝」の注に引く「魏略」に曰く、護羌校尉の王琰は左馮翊の人で、清廉潔白ではないが各地の太守を歴任したという。
また子の王嘉(おうか)は県令を歴任し、同郷の吉茂(きつぼう)を「人品は立派だが容姿は劣る。徳に優れるが能に乏しい」と評した。
吉茂は「私はお前たち父子のように権威を笠に着ない」と言い返している。

二人の王琰が同一人物だとすれば、彼は清廉潔白ではなく、皮肉られる程度には地位を笠に着る人物であり、妻が危惧した通りに妾を取ったことは想像に難くない。



王翁  王基の叔父


王翁(おうおう)字は不明
青州東莱郡曲城県の人(??~??)

魏の臣。
王基(おうき)の叔父。

王基は早くに孤児となったため、叔父の王翁に養育された。王翁は非常に慈しみ、王基も父のように仕え孝行を称賛された。

255年、反乱した毌丘倹(かんきゅうけん)の討伐に大功のあった王基は鎮南将軍・都督に昇進し列侯されるなど激賞された。
王基は叔父の恩に報いるため、王翁の子の王喬(おうきょう)に所領を200戸分け与え、関内侯に封じるよう願い出て、許可された。(『王基伝』)



王嘉  吉茂を酷評した王琰の子


王嘉(おうか)字は不明
司隷左馮翊の人(??~??)

魏の臣。
高幹(こうかん)を討ち取った王琰(おうえん)の子。

各地の県令を歴任し、世故に長けた人物と評された。
220年、九品官人法が制定されると、王嘉は散騎侍郎から中正に上り、郡内の人物に等級を付けた。吉茂(きつぼう)を「人品は上級に当たるが容姿は劣る。徳に優れるが能に乏しい」と評した。
吉茂は「私はお前たち父子のように権威を笠に着ない」と言い返している。



王乂


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王悝


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王海


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王凱  王弼の祖父


王凱(おうがい)字は不明
兗州山陽郡の人(??~??)

荊州牧の劉表(りゅうひょう)の娘婿。

族弟の王粲(おうさん)とともに荊州へ避難した時、王粲の聡明さを聞いた劉表は、娘婿に迎えようとした。
だが引見すると容貌が醜く、性格も軽率だったため、容姿の優れた王凱を娘婿にした。

その後、王粲は魏の重臣となったが、没後に二人の息子が魏諷(ぎふう)の反乱に加担したため処刑された。
家が絶えるのを惜しみ、曹丕は王凱の子の王業(おうぎょう)に後を継がせた。

王業も高位に上り、その子の王弼(おうひつ)は玄学の始祖に挙げられる。(『鍾会伝』)



王愷


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王悝


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王楷  許汜の相方


王楷(おうかい)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操、後に呂布に仕えた。

はじめは曹操に仕えたが194年、曹操が徐州に遠征した隙に陳宮(ちんきゅう)、張邈(ちょうばく)、許汜(きょし)らと共謀し、呂布を迎え入れ反乱した。
一時は兗州の大半を制圧したが、反転してきた曹操に撃破され、以降、陳宮・許汜・王楷は呂布に仕えた。

198年、呂布は下邳城を曹操に包囲されると、袁術(えんじゅつ)のもとに許汜・王楷らを送り救援要請した。
渋る袁術を「呂布が滅びれば次はお前の番」と説き伏せ、呂布の娘を袁術の息子とめあわせる条件で承諾を得たが、包囲された城から娘を脱出させるのは難しく、援軍は送られず、呂布は滅亡した。

その後、許汜は荊州の劉表(りゅうひょう)のもとへ落ち延びたが、王楷の消息は不明である。(『呂布伝』)

「演義」には許汜ともども袁術への救援要請の場面にしか登場しない。



王咸


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王簡


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王観


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王岐


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王起


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王寄


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王貴人


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王貴人  劉禅の長男を生む


王貴人(おうきじん)名は不明
出身地不明(??~??)

劉禅の側室。

もともと正室の敬哀皇后(けいあい)の侍女だったが劉禅に手を付けられ、長男の劉璿(りゅうせん)を224年に生んだ。
劉璿は皇太子に立てられたが武芸と遊興を好み、たびたび諫言されたという。

彼女について事績はほとんど残っていないが、敬哀皇后が立后されたのは223年のことで、その翌年に事もあろうに長男を生んだ彼女への風当たりは想像するだに恐ろしい。
敬哀皇后の没後の238年にはその妹が立后されており、風当たりは少しも変わらなかったことであろう。



王頎


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王頎  張政を倭に送る


王頎(おうき)字は孔碩(こうせき)
青州東莱郡の人(??~??)

魏の臣。
各地の太守を歴任した。

245年、玄菟太守の王頎は毌丘倹(かんきゅうけん)の高句麗討伐に従い、夫余に兵糧を供出させ、千里以上にわたり追撃し位宮(いきゅう)を撃破した。
その際に地元の老人に東方に島があるか尋ね、女ヶ島と腕長族とうなじにも顔がある民族が住んでいると教えられた。

247年、帯方太守の王頎のもとに卑弥呼が救援を求めたため、張政(ちょうせい)を送り、卑弥弓呼(ひみここ)との争いを仲裁させた。

263年、天水太守の王頎は鄧艾の蜀征伐に従い、牽弘(けんこう)・楊欣(ようきん)とともに三方から姜維を攻め、戦果を上げた。
その後は名前が出てこないが、牽弘・楊欣は引き続き蜀征伐に登場しており、王頎も従軍していたと思われる。

ちなみに孫の王弥(おうび)は前趙の初代皇帝・劉淵(りゅうえん)の片腕として活躍した、晋にとっての大逆賊である。
また「王弥伝」には王頎は汝南太守と記されており、辺境専門ではないらしい。



王儀


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王徽


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王夔  王皇后(曹芳)の両親


王夔(おうき)字は不明
出身地不明(??~??)

曹芳(そうほう)の三番目の皇后の王皇后(おうこうごう)の父。

251年、曹芳は甄皇后(しん)を亡くすと、寵愛する王貴人を立后しようとしたが、郭太后(かく)の反対により、やむなく翌年に張皇后(ちょう)を立てた。

だが254年、張皇后の父の張緝(ちょうしゅう)が同郷の親友の李豊(りほう)と、魏の重鎮の夏侯玄(かこうげん)とともに司馬師の暗殺を企むも、計画は露見し一網打尽にされた。
張皇后は廃位され、代わって王貴人が皇后に立てられた。

王夔は広明郷侯、(張緝が務めていた)光禄大夫、特進に、妻の田氏(でんし)は宣陽郷君に任じられた。
しかし同年、曹芳は司馬師によって廃位された。
王皇后と両親のその後は不明である。



王九真


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王休


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王休


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王喬  王基の従兄弟


王喬(おうきょう)字は不明
青州東莱郡曲城県の人(??~??)

魏の臣。
王翁(おうおう)の子。

王基(おうき)は早くに孤児となったため、叔父の王翁に養育された。王喬とも兄弟同然に育ったと思われる。(『王基伝』)

234年、曹幹(そうかん)のもとに曹簒(そうさん)と王喬が訪れたが、時節を間違えたため、勝手に賓客と交際する罪を犯したと上奏された。
だが曹叡は詔書を送り戒めるだけに留め、処罰しなかった。(『趙王幹伝』)

255年、反乱した毌丘倹(かんきゅうけん)の討伐に大功のあった王基は鎮南将軍・都督に昇進し列侯されるなど激賞された。
王基は叔父の恩に報いるため、王喬に所領を200戸分け与え、関内侯に封じるよう願い出て、許可された。(『王基伝』)



王業  王弼の父


王業(おうぎょう)字は長緒(ちょうしょ)
兗州山陽郡の人(??~??)

魏の臣。
父は王凱(おうがい)、母は劉表(りゅうひょう)の娘。

父の王凱が族弟の王粲(おうさん)とともに荊州へ避難した時、王粲の聡明さを聞いた劉表は、娘婿に迎えようとした。
だが引見すると容貌が醜く、性格も軽率だったため、容姿の優れた王凱を娘婿にした。

その後、王粲は魏の重臣となったが、没後の219年、二人の息子が魏諷(ぎふう)の反乱に加担したため処刑された。
家が絶えるのを惜しみ、曹丕は王業に後を継がせた。同時に王粲が大学者の蔡邕(さいよう)から譲り受けていた、1万巻もの蔵書も受け継いだ。
景初年間(237~239)頃?、尚書郎を務め、謁者僕射まで上った。

上の子の王宏(おうこう)も司隷校尉に上り、下の子の王弼(おうひつ)は玄学の始祖に挙げられる。(『鍾会伝』)



王業


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王金


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王金虎


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王欽


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王訓


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王恵陽


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王経


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王虔


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王謙


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王元姫  才色兼備


王元姫(おうげんき)字は不明
徐州東海郡郯の人(217~268)

王粛(おうしゅく)の娘で、司馬昭の妻。
西晋の初代皇帝・司馬炎を生んだ。

魏の重臣・王朗(おうろう)の孫として生まれる。
幼い頃から才知にあふれ、詩論を暗誦し、徳行も優れていたため、王朗には男として生まれなかったことを惜しまれた。
成人するとすぐに司馬昭に嫁いだ。義父母に尽くし、目下の者にもへりくだって接し、誰からも敬意を払われた。

鍾会が重用されるようになると、その人物を見て「彼は自分の利益だけを見て義を忘れ、なにかと事を起こすのを好みます。重用すればいずれ国に災いをもたらすでしょう」と司馬昭に忠告した。
はたして鍾会は蜀を征伐すると、反乱を起こすも失敗して殺された。
司馬昭は蜀の征伐を命じる前から鍾会の反乱を予期していたが、裏には王元姫の進言があったのである。

265年、司馬昭が亡くなり、跡を継いだ司馬炎はすぐに帝位禅譲を受け晋を建国した。
王元姫は皇太后となったが、振る舞いはそれまでと変わらず、質素倹約を重んじ、自分の仕事に励んだ。
その言葉は必ず道理に沿い、礼儀を外れることはなかったという。

ゲーム「三国無双6」ではツンデレ・クール・巨乳・金髪という時代を無視した様々な武装を施され、登場するやいなや人気ナンバーワンを勝ち取ったという。



王護留


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