三国志 お


王遷


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王祚


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王則


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王族


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王沢


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王旦


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王湛


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王稚  新附督

王稚(おうち)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。
呉から魏へ寝返った。

264年4月、新附督(呉から魏へ寝返った者たちで編成された部隊の長)の王稚が、海路から句章へ侵攻し、長官を捕虜にし財貨と民衆200余人を略奪した。
呉の孫越(そんえつ)はそれを迎撃し、船1隻を拿捕し30人の捕虜を得た。(『孫休伝』)



王沖


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王忠


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王著


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王昶  毒舌都督


王昶(おうちょう)字は文舒(ぶんじょ)
并州太原郡晋陽の人(??~259)

魏の臣。
同郷の王淩(おうりょう)と並び称され、年上の王淩を兄のように敬った。
法律や兵法に明るく、古代の法制度は苛酷に過ぎて現代にはそぐわないと、改正を唱え「治論」を、孫子の兵法に基づき「兵書」を著した。一族には温情深く、子や甥には名や字に謙虚を意味するものを選んでやった。
だが本人は毒舌で、子弟に与えた訓戒の中で旧友の人となりを悪い例として列挙し痛烈に非難している。

曹丕の太子の頃からの側近で、帝位につくと開墾事業で治績を上げた王昶を兗州刺史に抜擢した。
236年、司馬懿に推挙され、やがて都督として荊州方面の全権を任された。当時、荊州の役所は宛にあったが前線から遠かったため、王昶は新野に移し、得意の開墾事業で兵糧を蓄えた。

250年、二宮の変に揺れる呉を討伐する好機と、州泰(しゅうたい)、王基(おうき)とともに三方から呉に侵攻した。
迎え撃つ朱績(しゅせき)を挑発や伏兵を駆使して破り、江陵まで撤退させたが、城を落とすことはできなかった。
陸凱(りくがい)の援軍が現れると反撃され、危ういところだったが朱績と不仲の諸葛融(しょかつゆう)が兵を出さなかったため難を逃れた。

252年、孫権の死に乗じて再び呉を三方から攻めたが、別働隊の諸葛誕が丁奉の奇襲攻撃で敗走したため撤退した。

その後の毌丘倹(かんきゅうけん)や諸葛誕の反乱討伐にも貢献し、武官ながら三公(司空)の位に上った。
259年に没し、穆公と諡された。
子の王渾(おうこん)は呉討伐に大功あり、一族は三国統一の元勲として晋で栄華を極めていく。



王暢


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王澄


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王直  晋宗に殺される


王直(おうちょく)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

223年、戯口を守っていた晋宗(しんそう)は、同僚の王直を殺し、部下を引き連れ魏へ寝返った。
魏は晋宗を蘄春太守に任じ、国境を荒らさせた。
孫権は賀斉(がせい)・糜芳(びほう)・劉邵(りゅうしょう)らに命じ蘄春を攻撃させ、晋宗を生け捕りにした。(『呉主伝』)



王定


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王図


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王同  司馬芝に徴兵される


王同(おうどう)字は不明
荊州済南郡の人?(??~??)

魏の臣。
荊州済南郡の郡主簿の劉節(りゅうせつ)の子分。

劉節は古い家柄で役所を私物化し、千余家の子分を持ち、郡の外では強盗を働かせていた。
曹操が荊州を制圧すると司馬芝(しばし)は済南郡菅の県長として登用された。
司馬芝は劉節の配下の王同を徴兵しようとしたが、劉節を恐れて県の役人は反対した。
劉節は王同をかくまい、逆に司馬芝を徴兵失敗のかどで訴えた。県の役人は自分が王同の代わりに徴兵されようと言ったが、司馬芝は郡太守の郝光(かくこう)に事情を訴えると、かねてから司馬芝を信頼していた郝光は、即座に劉節を徴発した。
「司馬芝は郡主簿を兵卒にした」と州にまでその名は轟いた。



王同


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王当


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王徳弥


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王惇


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王買


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王蕃  俺の酒が飲めず殺される


王蕃(おうばん)字は永元(えいげん)
揚州廬江の人(228~266)

呉の臣。
博学で天文と数学に通じた。1年を365日と145/589日、円周率を3.155と計算したという。

孫休(そんきゅう)が即位すると王蕃ら4人を抜擢し、慧眼と讃えられた。蜀に使者として渡り高評価され、帰国すると最前線の夏口の都監軍を任された。

孫皓(そんこう)の代に都に呼ばれると、佞臣の万彧(ばんいく)は王蕃が内心で自分を軽んじているだろうと思い讒言した。
孫皓も直言をはばからない王蕃を次第に憎むようになった。

266年、丁忠(ていちゅう)が晋への遣いから帰国し宴が催された時、王蕃は酔い潰れて寝てしまい、退室させられた。目覚めた王蕃は宴会場へ戻ったが全く酔った素振りを見せなかったため、俺の酒を飲みたくないから嘘をついたと思い孫皓は激怒し処刑を命じた。留平(りゅうへい)らが取りなしたが聞き入れられず殺された。
「江表伝」には山に死体を投げ捨て、配下に狼の真似をさせて食わせた。そのため王蕃の頭蓋骨は砕けたと記されるが、裴松之は時系列の矛盾を指摘しているし、人間の歯はそんなに丈夫ではない。

王蕃の遺族は広州に強制移住させられた。弟2人も声望高かったが、反乱に加わることを断ったため殺された。

陳寿は「器量が大きく博学だった。政治が乱れた時代に高官となり非業の死を遂げたのは仕方ない」と同情を寄せている。



王毖


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王秘


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王秘


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王飛梟


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王弼  玄学の始祖


王弼(おうひつ)字は輔嗣(ほし)
兗州山陽郡の人(226~249)

魏の臣。

祖父の王凱(おうがい)は名士かつ優れた容貌で、荊州牧の劉表に娘婿に迎えられた。
父の王業(おうぎょう)は219年に魏諷(ぎふう)の乱に連座して、王粲(おうさん)の子が処刑されると、その蔵書1万巻(大学者の蔡邕(さいよう)の蔵書も含まれる)を受け継いだ人物である。

王弼も幼少からそれら書物に親しんだのか、十代で「老子」を語れるほど学識を深め、傅嘏(ふか)や裴徽(はいき)ら年長者とも親しく付き合い、鍾会とは並び称され、親交も厚かった。
浅薄で酒好きだが温厚で、投壺(当時のダーツ)が得意だった。しかし得意分野では他人を嘲笑する癖があり恨みを買った。

正始年間(240~249)の始め頃、黄門侍郎に欠員が生じ、王弼を高く評価する何晏(かあん)は登用しようとしたが、何晏と対立する丁謐(ていひつ)が王黎(おうれい)を推薦したため尚書郎に任じられるに留まった。
その際、王弼は時の権力者の曹爽(そうそう)に面会を願ったが、ただ道家の話をしただけで、曹爽を不快にさせ、昇進レースから外された。

後に清談・玄学の始祖となる荀粲(じゅんさん)、何晏らとは時に衝突しながらも議論を交わした。
道家の学説では何晏に及ばないが、王弼が勝る面も多かった。後世で王弼は玄学の始祖に挙げられ、彼の著した「老子」や「易」の注釈は現存し、高評価されている。
一方で出世に興味がなく、人の心の機微がわからず、学問を離れれば人望はなかった。

249年、司馬懿が専横をきわめる曹爽一派を処刑すると、何晏・丁謐らも連座し、王弼は処刑こそされなかったが免職となり、同年のうちにハンセン病を患い、24歳の若さで没した。
司馬師はその才を惜しみ、何日も嘆息し続けたという。

「幽明録」には王弼の死にまつわる逸話が描かれる。
王弼は常々、先人の大学者である鄭玄(じょうげん)の学説をこき下ろしていた。ある晩、何者かが彼のもとを訪れ鄭玄と名乗り、厳しく問責した。王弼は恐れおののき、間もなく病を発し死に至ったという。



王夫人(大懿)  孫和の母


王夫人(おうふじん)名は不明
徐州琅邪郡の人(??~??)

孫権の側室。
王盧九(おうろきゅう)の娘。
側室に王夫人が二人いるため、皇后としての名の大懿(たいい)で呼ばれることも多い。

孫権の寵愛ぶりは歩夫人(練師)に次ぎ、三男の孫和(そんか)を生んだ。
242年、孫和を太子に立てると、孫権は彼女を皇后にしようとした。
しかし歩夫人の娘の孫魯班(そんろはん)は母が立后されないまま亡くなった恨みから王夫人を讒言した。孫権が重病に掛かった時「王夫人はうれしそうな顔をしています」と吹き込まれ、孫権は彼女に酷く当たるようになり、王夫人は心痛から没してしまった。(『孫権王夫人伝』)

また同時期に袁夫人(えんふじん)が立后を打診されたが、子供が無いことを理由に固辞したとも記される。(『孫権潘夫人伝』)

264年、孫皓は4代皇帝に即位すると、祖母の王夫人に大懿皇后を追贈し、その三人の弟を列侯した。(『孫権王夫人伝』)



王夫人(敬懐)  孫休の母


王夫人(おうふじん)名は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

孫権の側室。
側室に王夫人が二人いるため、皇后としての名の敬懐(けいかい)で呼ばれることも多い。

235年、孫権の六男の孫休を生んだ。
242年、同姓の王夫人(大懿(たいい)皇后)が生んだ三男の孫和(そんか)が太子に立てられると、他の側室らはみな地方に遠ざけられた。
王夫人(敬懐)も荊州公安に移住させられ、同地で没し葬られた。

258年、孫休が3代皇帝に即位すると、母を敬懐皇后と諡し敬陵へ改葬した。実家には跡継ぎがいなかったため、母の同母弟の王文雍(おうぶんよう)が亭侯に封じられた。(『孫権王夫人伝』)

余談だが二人の王夫人はどちらも列伝されているが「孫権王夫人伝」と同じ名前で紛らわしい。



王布


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王普


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王誧


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王文儀


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王文雍  王夫人(敬懐)の弟


王文雍(おうぶんよう)字が文雍か
荊州南陽郡の人(??~??)

孫休の母の王夫人(おうふじん)の同母弟。

242年、孫和(そんか)が太子に立てられると、その母を除く他の側室らはみな地方に遠ざけられた。
王夫人も荊州公安に移住させられ、同地で没し葬られた。

258年、孫休が3代皇帝に即位すると、母を敬懐皇后と諡し敬陵へ改葬した。実家には跡継ぎがいなかったため、母の弟の王文雍が亭侯に封じられた。(『孫権王夫人伝』)



王芬


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王模


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王方平


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王豹


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王訪


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王髦


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王謀


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王襃


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王摩


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王明山


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王黙


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王門


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王約


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王邑


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