三国志 新規
7/4~8/3


屈晃  二宮の変に猛抗議


屈晃(くつこう)字は不明
豫州汝南郡の人(??~??)

呉の臣。

250年、二宮の変の末に孫和(そんか)が太子から廃され幽閉されると、朱拠(しゅきょ)と尚書僕射の屈晃は、顔に泥を塗り自らを縛って、宮門の前で孫権へ考え直すよう訴えた。
孫権はそれを酷く不快に思い、軽率な真似をするなと戒めたが彼らは諫言をやめず、孫権はいよいよ激昂し、諫言する陳正(ちんせい)、陳象(ちんしょう)、張純(ちょうじゅん)らを処刑し、朱拠と屈晃を殿中に引きずり込ませた。
屈晃の気迫はいささかも衰えず「太子(孫和)が仁愛にして聡明なことは誰もが知っています。三国鼎立した今、太子を変えて人心に疑惑や動揺を与えるようなことは決してなさらないでください。そうしていただければ私は死んでも何も思い残すことはありません」と直接諌めたが、孫権は聞き入れず、百叩きさせ、追放し郷里に帰らせた。(『孫和伝』)
朱拠も左遷され、詔勅を偽造した孫弘(そんこう)によって殺された。(『朱拠伝』)

264年、孫和の子の孫皓が即位すると「屈晃は社稷を正そうと真心から諫言したゆえに身を滅ぼした」と賞し、子の屈緒(くつしょ)を列侯し、弟の屈幹(くつかん)、屈恭(くつきょう)らを任官させた。
屈緒は父と同じ尚書僕射にまで上った。

同郷の胡沖(こちゅう)は「問答」を著し、その中に屈晃の事績が見えるという。(『孫和伝』)



陳正  二宮の変に抗議し処刑された無難督


陳正(ちんせい)字は不明
出身地不明(??~250)

呉の臣。

250年、二宮の変の末に孫和(そんか)が太子から廃され幽閉されると、朱拠(しゅきょ)と屈晃(くつこう)は孫権へ考え直すよう訴えた。
それに無難督の陳正や陳象(ちんしょう)らも加わると、孫権は酷く立腹し、陳正・陳象を一族皆殺しにし、朱拠・屈晃を追放した。(『孫和伝』)

陳正・陳象の関係は記されないが同族だろうか。



陳象  二宮の変に抗議し処刑された五営督


陳象(ちんしょう)字は不明
出身地不明(??~250)

呉の臣。

250年、二宮の変の末に孫和(そんか)が太子から廃され幽閉されると、朱拠(しゅきょ)と屈晃(くつこう)は孫権へ考え直すよう訴えた。
それに五営督の陳象や陳正(ちんせい)らも加わると、孫権は酷く立腹し、陳象・陳正を一族皆殺しにし、朱拠・屈晃を追放した。(『孫和伝』)

陳象・陳正の関係は記されないが同族だろうか。



屈緒  屈晃の子


屈緒(くつしょ)字は不明
豫州汝南郡の人(??~??)

呉の臣。
屈晃(くつこう)の子。

250年、二宮の変の末に孫和(そんか)が太子から廃され幽閉されると、朱拠(しゅきょ)と屈晃は、顔に泥を塗り自らを縛って、宮門の前で孫権へ考え直すよう訴えた。
孫権はそれを酷く不快に思い、軽率な真似をするなと戒めたが彼らは諫言をやめず、孫権はいよいよ激昂し、屈晃を百叩きの上追放し郷里に帰らせた。

264年、孫和の子の孫皓が即位すると「屈晃は社稷を正そうと真心から諫言したゆえに身を滅ぼした」と賞し、子の屈緒を東陽亭侯に封じ、弟の屈幹(くつかん)、屈恭(くつきょう)らを任官させた。
屈緒は父と同じ尚書僕射にまで上った。(『孫和伝』)



屈幹  屈晃の弟A


屈幹(くつかん)字は不明
豫州汝南郡の人(??~??)

呉の臣。
屈晃(くつこう)の弟。

250年、二宮の変の末に孫和(そんか)が太子から廃され幽閉されると、朱拠(しゅきょ)と屈晃は、顔に泥を塗り自らを縛って、宮門の前で孫権へ考え直すよう訴えた。
孫権はそれを酷く不快に思い、軽率な真似をするなと戒めたが彼らは諫言をやめず、孫権はいよいよ激昂し、屈晃を百叩きの上追放し郷里に帰らせた。

264年、孫和の子の孫皓が即位すると「屈晃は社稷を正そうと真心から諫言したゆえに身を滅ぼした」と賞し、子の屈緒(くつしょ)を列侯し、弟の屈幹、屈恭(くつきょう)らを立義都尉に任じた。(『孫和伝』)



屈恭  屈晃の弟B


屈恭(くつきょう)字は不明
豫州汝南郡の人(??~??)

呉の臣。
屈晃(くつこう)の弟。

250年、二宮の変の末に孫和(そんか)が太子から廃され幽閉されると、朱拠(しゅきょ)と屈晃は、顔に泥を塗り自らを縛って、宮門の前で孫権へ考え直すよう訴えた。
孫権はそれを酷く不快に思い、軽率な真似をするなと戒めたが彼らは諫言をやめず、孫権はいよいよ激昂し、屈晃を百叩きの上追放し郷里に帰らせた。

264年、孫和の子の孫皓が即位すると「屈晃は社稷を正そうと真心から諫言したゆえに身を滅ぼした」と賞し、子の屈緒(くつしょ)を列侯し、弟の屈幹(くつかん)、屈恭らを立義都尉に任じた。(『孫和伝』)



丁沖  丁儀・丁廙の父


丁沖(ていちゅう)字は不明
豫州沛国の人(??~??)

後漢の臣。
丁儀(ていぎ)・丁廙(ていよく)の父

董卓残党により長安を占拠されるなか、丁沖は以前から親交のあった同郷の曹操へ「あなたは政治を正し補佐したいといつも願っていたが、今がその時ですぞ」と手紙を書いた。
これが張楊(ちょうよう)を通じて曹操のもとへ届くと、曹操は挙兵して長安を制圧し、献帝を迎え入れた。丁沖はこの功により司隷校尉に任じられた。
だが酒好きの丁沖は諸将の間を飲み歩き、ついに腸をただれさせて没した。

曹操は丁沖への感謝を忘れず、子の丁儀を引見もせずに娘婿に迎えようとした。
だが曹丕が「丁儀は隻眼で姉上にはふさわしくない」と反対し取りやめられた。
丁儀はこれを恨み、曹植(そうしょく)を担ぎ後継者争いを引き起こした。

数多くの重臣を讒言で陥れたが、結局は曹丕が太子に決まり、220年に曹操の後を継いだ彼によって丁儀・丁廙は処刑された。(『陳思王植伝』)



丁廙  丁儀の弟


丁廙(ていよく)字は敬礼(けいれい)
豫州沛国の人(??~220)

魏の臣。

父の丁沖(ていちゅう)は曹操とは同郷で、厚遇された。

兄の丁儀(ていぎ)は隻眼で容貌に優れなかったが、丁廙は容姿端麗で、広い学識と見聞があった。
建安年間(196~220)に黄門侍郎となり、曹植(そうしょく)の才を絶賛し太子にするよう勧め、曹操の心を大きく動かした。
(※先に丁儀は隻眼を理由に、曹丕によって曹操の娘との婚姻を潰され、曹丕への恨みから曹植を守り立てており、丁廙の進言はその援護射撃であろう)

丁儀らは曹丕派や有力者の切り崩しのため、裏工作を進め多くの重臣を陥れたが、結局は曹丕が太子に決まり、220年に王位につくと、曹植を追放し、丁儀兄弟は難癖つけられ一族もろとも処刑された。(『陳思王植伝』)

陳寿は丁儀・丁廙・楊脩(ようしゅう)ら七人を、建安七子には及ばないが、当時の優れた文学的才能の持ち主と列挙した。(『王粲伝』)

曹植はかつて、丁廙に作品の修飾を頼まれたが、自分の才能はあなたに及ばないと断った。丁廙は「後世の誰もあなたが関わったとわからないのに、なぜ拒まれるのですか」と訝しみ、曹植はその悟りきった態度に感心した。(『陳思王植伝』)

その後、陳寿が丁儀の子孫に魏書への立伝を持ちかけ賄賂を要求したが断られたため立伝されなかったというが、そもそも丁儀の一族は処刑されており、疑わしい話である。

「演義」での丁儀兄弟は曹操の葬儀に参列しなかったかどで処刑されており、普通に馬鹿だと思う。



徐奕  曹操に留守を任された男


徐奕(じょえき)字は季才(きさい)
徐州東莞郡の人(??~219?)

魏の臣。

戦乱を避けて江東に移住したが、孫策に招聘されたため姓名を変えて変装し帰郷した。
196年、曹操に招聘され司空掾となり以後は魏に仕えた。

211年、馬超の征伐に従軍し、戦後は丞相長史として関中に残りインフラ整備や残党討伐で治績を挙げ威厳と誠実さを讃えられた。
雍州刺史も務め、都に戻ると丞相府の属官となった。(『徐奕伝』)

213年、曹操が魏公になると尚書に上った。(『武帝紀』)

当時、丁儀(ていぎ)が曹植(そうしょく)を担ぎ後継者争いを起こし、重臣へ讒言を繰り返しており、ある人が「丁儀は身分も名声も高く頭を下げるべきだ」と勧めたが、徐奕は「曹公(曹操)は聡明で、丁儀はいつまでも虚名を保てない。不正をもって主君に仕える者は私に何もできない」と意に介さなかった。(『徐奕伝』)

徐奕と毛玠(もうかい)はたびたび丁儀に讒言されたが、剛直で仲間が少なかったため、桓階(かんかい)が弁護して安全を保ってやった。(『桓階伝』)

一方で傅玄(ふげん)は「丁儀によって徐奕は官位を失った」と記すが、「魏書」には官位を失った記述が見当たらない。

魏郡太守に転じたが(※これが左遷ということだろうか?)、孫権の討伐にあたり曹操は徐奕を留府長史とし「君の忠誠は古人も及ばないが、いささか厳しすぎる。柔弱をもって剛強をおさめることを期待している。君に留守を任せれば後顧の憂いはない」と言った。

216年、魏が建国されると再び尚書になり、官吏選抜を任され尚書令に上った。

219年、魏諷(ぎふう)が反乱し、楊俊(ようしゅん)が責任を取り辞職すると、曹操は「反乱を招いたのは、私の爪・牙となるべき臣に、悪事を留め企みを防ぐ者がいなかったからだ。諸葛豊(前漢の名臣)のような人材はいないだろうか」と後悔した。
桓階は「徐奕こそその人です」と推薦し、後任の中尉となった。
だが在職から数ヶ月で重病を患い、辞職して諫議大夫となり、病没した。(『徐奕伝』)

曹丕は朝臣と話すたびに徐奕の人柄を思い出し、220年、子が無かったため甥の徐統(じょとう)を郎中に取り立て後を継がせた。(『徐奕伝』・『文帝紀』)

陳寿は何夔(かき)・邢顒(けいぎょう)とともに「厳格さを尊重し、その時代の名士となった」と評した。

「演義」には登場しない。



何夔  殴られたら服毒死


何夔(かき)字は叔龍(しゅくりゅう)
豫州陳郡陽夏の人(??~??)

魏の臣。

8尺3寸の長身で、慎み深く威厳のある容貌だった。
早くに父を亡くしたが母・兄と仲睦まじさを称賛された。

曽祖父は名臣だったが、従父の何衡(かこう)が宦官に陥れられて官を失い、何夔は慨嘆し首長の任命に応じなかった。
戦乱を避けて淮南に移住すると、袁術に招聘されたが断った。しかし袁術は何夔を引き止め、陳郡蘄陽を攻めると、同郡出身の何夔を脅して降伏勧告させようとした。
何夔は謀臣の李業(りぎょう)へ故事を引いて皮肉を吐くと逃亡した。
袁術は何夔が縁戚にあたるため(※何夔の叔母が袁術と同族の袁遺(えんい)の母)恨みはしたが危害は加えず、計画を取りやめた。

197年、何夔は袁術の追跡を恐れて慎重に帰郷し、曹操に招かれて司空掾となった。
その頃、袁術軍が混乱に陥っているという情報が届き、曹操に意見を求められると「天が助ける者は順、人が助ける者は信です。袁術は順も信も無いのに天と人の助けを望んでいます。道義に背いた主君は親戚にも見捨てられます。ましてや臣下はなおさらです。混乱するのは必定です」と答えた。
曹操も「賢者を逃せば国は滅びる。袁術は君を用いられなかったのだから当然だ」と同意した。

司空掾は職務でミスを犯すと曹操に杖で殴られることがたびたびあった。何夔は恥辱を受けまいと、殴られたら服毒死しようと常に毒薬を携帯していたため殴られなかった。
(※後世の孫盛は臣下に礼を持たずに殴る曹操と、小さな恥辱を恐れて毒薬で牽制する何夔をともに非難している)

当時、劉備に連動して東南の諸県が不穏な動きを見せたため、曹操は名家の出の何夔や陳羣(ちんぐん)を県令に任じて鎮撫した。
何夔は城父県令から長広太守に上った。
長広郡は豪族の力が強く、袁譚(えんたん)は彼らに官位を与えて援助していた。
管承(かんしょう)は3千軒を率いて暴れまわり、誰もが討伐を願い出たが何夔は「彼らは生まれつき混乱を楽しんでいるのではなく、道徳を知らないから善に戻れないだけだ。討伐すれば全滅を恐れて激しく抵抗し、勝っても大きな被害を受ける。恩愛道徳を教えて自ら反省させれば、兵を用いる必要はない」と言い、黄珍(こうちん)を派遣し利害を説かせると、管承は降伏した。
また成弘(せいこう)を校尉に任じて彼らを率いさせると、反抗していた県丞らも降った。
何夔はなおも従わず数千人を率いる従銭(じゅうせん)を張遼とともに討伐し、3千軒を上げて反乱した王営(おうえい)には、王欽(おうきん)に計略を授けて対処させ、わずか10ヶ月で全てを平定した。

その頃、曹操は新たに条例を制定し州郡を取り締まろうとした。何夔は平定したばかりで飢饉もあったため、急に法で縛れば反乱されると考え、3年ほどの猶予を見るよう訴え、認められた。
中央へ召し返され丞相府で軍事に参与したが、海賊の郭祖(かくそ)が楽安郡へ侵攻すると、曹操は何夔が長広郡を治めた手腕を思い出し、楽安太守に赴任させた。数ヶ月で平定された。

何夔は都に戻り丞相東曹掾になると、公正な人事登用法を考案し認められた。(『徐奕伝』)
213年、曹操が魏公になると尚書に上った。(『武帝紀』)
216年、魏が建国されると尚書僕射になった。(『徐奕伝』)
大司農の袁覇(えんは)は同郷の何夔とともに評判高かった。(『袁渙伝』)

当時、丁儀(ていぎ)が曹植(そうしょく)を担ぎ後継者争いを繰り広げていた。
何夔は丁儀と不仲だったため、傅巽(ふそん)は「あなたの友人の毛玠(もうかい)も既に陥れられました。丁儀を少し立ててやりなさい」と忠告したが「道義に外れた行いをすれば我が身を損なうだけで、他人を損なうことはできない。そのうえ邪な心を抱いて高位にいれば長くはない」と何夔は聞き入れなかった。

217年、曹操は涼茂(りょうぼう)を太傅、何夔を少傅に任じ、太子に立てられた曹丕や諸侯の属官を選ばせた。涼茂が没すると何夔が後任となった。
太傅として毎月一日に参内すると、曹丕は正装に着替えて出迎え礼を尽くした。
何夔が太僕に昇進すると、曹丕は送別会に招いたが法を盾に固辞した。
何夔の正道を歩む様はこのようだったが、一方で節倹の世の中で最も贅沢を好んでいたという。

220年、曹丕は帝位につくと何夔を成陽亭侯に封じ、300戸を与えた。
何夔は重病にかかると辞職を願い出たが、曹丕は「君には勲功も美徳もあり、神は必ず助けるだろう」と慰留した。
しかし逝去し、靖侯と諡された。

子の何曾(かそう)が後を継ぎ、晋の司徒にまで上った。(『徐奕伝』)
また何曾は同郷で父とともに評判を取った袁覇の子の袁亮(えんりょう)と並び称され、親友でもあった。(『袁渙伝』)

陳寿は徐奕(じょえき)・邢顒(けいぎょう)とともに「厳格さを尊重し、その時代の名士となった」と評した。

「演義」には登場しない。



毛玠  清廉過ぎた人事担当


毛玠(もうかい)字は孝先(こうせん)
兗州陳留郡平丘の人(??~216)

魏の臣。

若い頃は県の役人を務め清潔公正さで評判を取った。
戦乱を避けて荊州へ移ろうとしたが、荊州牧の劉表(りゅうひょう)の統治がいいかげんだと聞き、南陽郡魯陽に留まった。兗州へ勢力を伸ばした曹操に招かれ治中従事となった。
毛玠は「一年を超える蓄えが無く、人民は動揺し長く持ちこたえられません。袁紹・劉表は強大な力を持つが将来を見通す思慮は無く、基礎も固めていません。そもそも戦争は道義があるほうが勝つもので、現状維持するには財力を用います。献帝を擁し、農耕に励み軍需物資を蓄えれば、天下統一も達成できるでしょう」と進言し、感心した曹操は功曹に抜擢した。

208年、東曹掾として崔琰(さいえん)とともに官吏選抜を担当した。清潔公正さを重んじ、評判高くても心根が潔白でなければ昇進させず、毛玠自身も模範となるべく、衣食は粗末で、みなし子の甥を慈しみ、貧しい者に施し財産を残さず努力したため、人々は襟を正し清廉さを競い合うようになった。高官も節制するようになり、曹操は「人を起用するにあたりこのようにすれば、天下の人々は自ずと身を整える。私は何もする必要がなくなった」と絶賛した。
一方で曹丕の直々の斡旋すら断るなど、清廉すぎる彼を煙たがる者も多く、東曹の廃止が叫ばれた。だが事情を知る曹操は逆に西曹を廃止した。

右軍師を経て216年、魏が建国されると尚書僕射になり(※「武帝紀」の注には尚書と記される)再び人事を担った。曹丕と曹植(そうしょく)の間で後継者争いが起こると、袁紹の滅亡を例に上げ、曹操を諌めた。

しかし同年、崔琰が処刑されると毛玠は曹操を恨み、非難の言葉を吐いたと密告され、投獄された。(『毛玠伝』)
陥れた者の名は本伝に記されていないが、「何夔伝」によると曹植の腹心の丁儀(ていぎ)だったと思われる。(『何夔伝』)

鍾繇(しょうよう)に事細かにねちねちと詰問されたが、毛玠は故事を引き滔々と反論した。(『毛玠伝』)
和洽(かこう)は毛玠らの官吏選抜を「節倹を偽る者も多く、中庸を重んじるべきだ」と批判していたが、この時は「毛玠は忠義公正であり、事実を調べるべきだ」と強く諫言した。(『和洽伝』)
曹丕の腹心の桓階(かんかい)も弁護に回り、免職だけで許された。

無官のまま没し、曹操は葬儀の準備を整えてやり、子の毛機(もうき)を郎中に取り立てた。(『毛玠伝』)
(※「文帝紀」には220年、曹丕によって毛玠の子が郎中に取り立てられたとある)

陳寿は「清廉で私心なく質素を守った」と評した。

「演義」では水軍を率いたりと軍人としてあちこちに顔を出す。
「蒼天航路」では妖怪のような風貌で、屯田の専門家として登場した。



衛臻  父に続き魏を支える


衛臻(えいしん)字は公振(こうしん)
兗州陳留郡襄邑の人(??~??)

魏の臣。
父の衛茲(えいじ)は曹操の旗揚げに協力したが、董卓と戦い討ち死にした。

夏侯惇が陳留太守になると計吏に推挙されたが、酒宴に妻を招くよう命じられたのを拒絶したため一時捕縛された。

後漢の黄門侍郎の時、反乱を企てる朱越(しゅえつ)に招かれたが、曹操は「衛臻の父には助けられたから、朱越の言葉など信じなかった。荀彧(じゅんいく)も弁護し、忠誠は明らかになった」と謀叛を疑わなかった。
後に朝廷の使者として訪ねた時、曹操は身柄をもらい受け丞相府で軍事に参与させ、父の功績を採り上げ関内侯に封じた。

戸曹掾を経て220年、魏王に即位した曹丕のもとで散騎常侍に、帝位につくと安国亭侯に上った。
群臣が魏を讃え、後漢を貶める中、衛臻は後漢が魏へ禅譲したことを一人讃えた。曹丕はそれを評価し、廃位後の献帝と同等の処遇を衛臻に与えるよう命じ、尚書・侍中吏部尚書に転じた。
中領軍を代行し、曹休(そうきゅう)が孫権が濡須に駐屯しているという情報を得ると、偽りだと見抜いた。

以前、衛臻は曹丕と後継者争いをする曹植(そうしょく)派の丁儀(ていぎ)から誘いを掛けられたが、大義を盾に拒否した。
曹丕が追放した曹植の様子を尋ねると、徳性を褒め称えたが、曹丕の寵愛する曹霖(そうりん)については触れなかった。(『衛臻伝』)

226年、曹丕に恨まれる鮑勛(ほうくん)が処刑を命じられると助命嘆願したが認められなかった。(『鮑勛伝』)

曹叡が即位すると康郷侯に上り、侍中・尚書僕射として官吏選抜を担った。
蔣済(しょうせい)は平民や下僕からも優秀な者は登用すべきだと意見したが、衛臻は「それは乱世の作法であり、治世でそれを行えばかえって争いを起こす」と反対した。(『衛臻伝』)

曹叡に祖先のどこまでに尊号を与えるべきか議論を命じられると、劉曄(りゅうよう)は故事を引き高祖父の曹騰(そうとう)までが妥当と言い、衛臻も同意したため法制化された。(『劉曄伝』)

諸葛亮が北伐の兵を起こすと糧道を断つよう献策し、自らも征蜀将軍・仮節督諸軍事として出撃したが、長安に到着すると蜀軍は撤退した。帰還して旧職に復し、光禄大夫を加えられた。

当時、曹叡が盛んに宮殿を造営すると厳しく諫言し、担当者の越権行為を、曹叡の干渉をはねつけて公正に裁いた。

諸葛亮が再び出兵し、呉軍がそれに連動して出撃すると、衛臻は朱然(しゅぜん)の動きを陽動と見抜いた。
曹叡が親征しようとすると、呉は蜀への義理で兵を出しただけで、すぐに撤退するから戦費の無駄だと反対した。結局、曹叡は親征したが前線にたどり着く前に呉軍は撤退した。

毌丘倹(かんきゅうけん)が遼東の公孫淵(こうそんえん)討伐を願い出たが、衛臻は失敗を予測し、的中させた。(『衛臻伝』)

官位は237年に司空、238年に司徒に上り詰め(『明帝紀』)、曹芳の代には長垣侯に爵位も上り、1千戸を領し、一子が列侯された。
実権を握る曹爽(そうそう)は尚書令を兼務させ、弟の嫁に衛臻の娘を求めたが、いずれも拒否し、引退を願い出た。(『衛臻伝』)
248年、孫資(そんし)、劉放(りゅうほう)らに続き官を辞した。(『斉王紀』)
ちなみに孫資・劉放・衛臻の子らは三豫と並び称されており、三家の交友が垣間見える。(『諸葛誕伝』)
衛臻は大邸宅と特進を与えられ、三公と同じ恩給を賜った。

逝去すると三公の残り一つの太尉を追贈され、敬侯と諡された。
子の衛烈(えいれつ)が後を継ぎ、魏末期に光禄勲となり、他に2人の子が太守に上った。(『衛臻伝』)

陳寿は盧毓(ろいく)とともに「長い間その官位におり、帝に対する諫戒と清潔な事務処理でその職を汚さなかった」と評した。

「演義」には登場せず、父も別名だが似た事績の架空の人物にされている。



徐統  徐奕の甥


徐統(じょとう)字は不明
徐州東莞郡の人(??~??)

魏の臣。
徐奕(じょえき)の甥。

219年頃、父は病没した。
曹丕は朝臣と話すたびに徐奕の剛直な人柄を思い出し、220年に即位すると、徐奕に子が無かったため甥の徐統を郎中に取り立て後を継がせた。(『徐奕伝』・『文帝紀』)



邢顒  曹植に仕えた曹丕派


邢顒(けいぎょう)字は子昂(しこう)
冀州河間郡鄚の人(??~223)

魏の臣。

孝廉に推挙され、司徒から招聘されたが応じなかった。姓と字を変えて右北平に移住し、避難民を集め中立勢力を保っていた田疇(でんちゅう)を頼った。
5年後、曹操が冀州を制圧すると、邢顒は彼こそ乱世を収める人物だと言い、率先して協力を願い出た。
冀州従事となり人々は「徳行堂々たる邢子昂」と讃えた。

だが広宗県長の時、旧主の喪に服すため官を棄てた。告発されたが曹操は「旧主に細やかな感情を持ち、終始変わらぬ節義を抱いている」と問題にしなかった。
改めて司空掾に招かれ、行唐県令として治績を上げ、丞相門下督から左馮翊の長官になったが、病気でまた官を辞した。

当時、曹操の子らは属官を選ぶにあたり「邢顒のような法を深く理解する人物を登用せよ」と命じていた。
邢顒は曹植(そうしょく)の家丞として復帰したが、礼を持って取り締まり言いなりにならなかったため、不仲だった。
劉楨(りゅうてい)は曹植へ「邢顒と比べれば私は同僚になる価値すらありません。ところがあなたは劉楨の春の花の如き華やかさを採り上げ、邢顒の秋の実りの如き誠実さを忘れています」と邢顒を重用するよう諌めた。

曹丕と曹植の間で後継者争いが起こっていた時、曹操に意見を求められると、暗に曹丕を勧めた。
曹植のもとを離れ丞相府で軍事に参与し、東曹掾を経て太子少傅、太子太傅として曹丕に仕えた。

220年、曹丕が即位すると侍中・尚書僕射となり関内侯に封じられた。司隷校尉、太常を歴任し223年に没し、子の邢友(けいゆう)が後を継いだ。
曾孫の邢喬(けいきょう)も晋の司隷校尉に上った。(『邢顒伝』)

陳寿は徐奕(じょえき)・何夔(かき)とともに「厳格さを尊重し、その時代の名士となった」と評した。



何衡  何夔の従父


何衡(かこう)字は不明
豫州陳郡陽夏の人(??~??)

後漢の臣。
何夔(かき)の従父。

尚書を務め率直な発言をした。
そのため宦官に恨まれ、党錮の禁で官位を奪われた。
それを聞いた何夔は故事を引き「天地は閉ざされ、賢人は隠れた」と嘆き、首長の任命を断った。(『何夔伝』)



李業  何夔に皮肉られる


李業(りぎょう)字は不明
出身地不明(??~??)

袁術の臣。

袁術は陳郡蘄陽を攻めると、同郡出身で縁戚の何夔(かき)を脅して降伏勧告させようとした。
何夔は謀臣の李業へ「春秋時代の柳下恵は国を討つ計画を聞かされた時、そんなことは仁者には相談しないものだと驚いたそうです」と皮肉を吐いて逃亡した。
袁術は彼が縁戚のため、恨みはしたが危害は加えず、計画を取りやめた。(『何夔伝』)



管承  長広の海賊


管承(かんしょう)字は不明
青州長広郡長広の人(??~??)

賊徒。

長広郡は豪族の力が強く、袁譚(えんたん)は彼らに官位を与えて援助していた。
管承は3千軒を率いて暴れまわり、誰もが討伐を願い出たが、太守の何夔(かき)は「彼らは生まれつき混乱を楽しんでいるのではなく、道徳を知らないから善に戻れないだけだ。討伐すれば全滅を恐れて激しく抵抗し、勝っても大きな被害を受ける。恩愛道徳を教えて自ら反省させれば、兵を用いる必要はない」と言い、黄珍(こうちん)を派遣し利害を説かせると、管承は降伏した。(『何夔伝』)

しかしその後、再び反乱し海賊として荒らし回った。
206年、曹操は楽進(がくしん)、李典(『武帝紀』)、張郃(『張郃伝』)を派遣し撃破させた。
管承は海中の島へ逃げ込み、その後の消息は不明である。(『武帝紀』)



黄珍  長広郡の郡丞


黄珍(こうちん)字は不明
青州長広郡の人?(??~??)

曹操の臣。

長広郡は豪族の力が強く、袁譚(えんたん)は彼らに官位を与えて援助していた。
管承(かんしょう)は3千軒を率いて暴れまわり、誰もが討伐を願い出たが、太守の何夔(かき)は「彼らは生まれつき混乱を楽しんでいるのではなく、道徳を知らないから善に戻れないだけだ。討伐すれば全滅を恐れて激しく抵抗し、勝っても大きな被害を受ける。恩愛道徳を教えて自ら反省させれば、兵を用いる必要はない」と言い、郡丞の黄珍を派遣し利害を説かせると、管承は降伏した。(『何夔伝』)



成弘  何夔配下の校尉


成弘(せいこう)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

長広郡は豪族の力が強く、袁譚(えんたん)は彼らに官位を与えて援助していた。
管承(かんしょう)は3千軒を率いて暴れまわり、誰もが討伐を願い出たが、太守の何夔(かき)は「彼らは生まれつき混乱を楽しんでいるのではなく、道徳を知らないから善に戻れないだけだ。討伐すれば全滅を恐れて激しく抵抗し、勝っても大きな被害を受ける。恩愛道徳を教えて自ら反省させれば、兵を用いる必要はない」と言い、黄珍(こうちん)を派遣し利害を説かせると、管承は降伏した。
また官吏の成弘を校尉に任じて彼らを率いさせると、反抗していた県丞らも降った。(『何夔伝』)



従銭  牟平の賊徒


従銭(じゅうせん)字は不明
青州東莱郡牟平の人(??~??)

賊徒。

数千の仲間を集めて暴れまわっていたが、何夔(かき)と張遼に討伐された。(『何夔伝』)



王営  東牟の賊徒


王営(おうえい)字は不明
青州東莱郡東牟の人(??~??)

賊徒。

3千軒あまりを率いて昌陽県を脅し反乱したが、何夔(かき)に計略を授けられた王欽(おうきん)によって離散させられた。(『何夔伝』)



王欽  何夔に計略を授けられる


王欽(おうきん)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

王営(おうえい)が3千軒あまりを率いて昌陽県を脅し反乱した時、官吏の王欽は何夔(かき)に授けられた計略で彼らを離散させた。(『何夔伝』)



袁覇  袁亮の父


袁覇(えんは)字は不明
豫州陳郡扶楽県の人(??~??)

魏の臣。
袁渙(えんかん)の従弟。

公正謹厳な人柄で事務能力に長けた。(『袁渙伝』)

曹操へ魏王即位を勧める人物の中に、長史として名が見える。(『武帝紀』)

216年、魏が建国されると大司農になり、同郷の何夔(かき)とともに評判高かった。
彼らの子の袁亮(えんりょう)、何曾(かそう)も並び称され、親友でもあった。
また弟の袁徽(えんき)、袁敏(えんびん)もやはり高く評価された。(『袁渙伝』)



涼茂  公孫康を脅し返す


涼茂(りょうぼう)字は伯方(はくほう)
兗州山陽郡昌邑の人(??~??)

魏の臣。

学問を好み、議論に際しては常に経典を根拠として価値判断を下した。
曹操に司空掾に招かれて実績を上げ、侍御史に推挙された。
多くの賊徒がはびこる泰山太守に赴任すると、10ヶ月で平定し、千家以上が移住してきた。

楽浪太守に転任となるも、移動中に遼東の公孫康(こうそんこう)に引き止められ「曹操は遠征し、本拠地は空だ。私には4万の兵があり誰も防げない」と脅されたが、涼茂は大義は曹操にあり、蜂起すればたちまち滅ぼされると脅し返した。諸将は震え上がったが、公孫康は非を認め思いとどまった。

後漢により魏郡太守、甘陵国相に次々と任じられいずれも治績を上げた。
曹丕に招かれ長史、左軍師に転任し216年、魏が建国されると尚書僕射、中尉・奉常と昇進していった。
曹丕が太子となると太子太傅を務め、敬意と礼遇を受けた。(『涼茂伝』)

少傅の何夔(かき)とともに、曹丕や諸侯の属官を選んだが、在職のまま没し、何夔が後任を務めた。(『涼茂伝』・『何夔伝』)

220年、曹丕は魏王に即位すると改めて功績を採り上げ、子を郎中に取り立てさせた。(『文帝紀』)

なお「英雄記」に記される曹丕の八友の一人に名を連ねている。(『涼茂伝』)

陳寿は同伝に記した袁渙(えんかん)・邴原(へいげん)・張範(ちょうはん)には及ばないが、国淵(こくえん)とともに「彼らに次ぐ人物である」と評した。

「演義」には登場しない。



袁亮  袁覇の子


袁亮(えんりょう)字は不明
豫州陳郡扶楽県の人(??~??)

魏の臣。
袁覇(えんは)の子。

心正しく堅固で、学問品行に優れた。
父は同郷の何夔(かき)とともに評判高く、彼らの子の袁亮、何曾(かそう)も並び称され、親友でもあった。

名声を博していた何晏(かあん)、鄧颺(とうよう)らの人柄を憎悪し、論説を書いて激しく批判した。(『袁渙伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に長合郷侯として連名した。
曹髦の即位が決まると尚書の袁亮らが迎えに行った。(『斉王紀』)

256年、曹髦に宴会に招かれ礼法制度や古代の帝王の優劣について議論した。袁亮は荀顗(じゅんぎ)とともに少康は高祖より優れていると意見した。(『高貴郷公紀』)

河南尹、尚書にまで上った。
子の袁粲(えんさん)も博学で、同じく尚書に上った。(『袁渙伝』)



和洽  確かな判断力


和洽(かこう)字は陽士(ようし)
豫州汝南郡西平の人(??~??)

魏の臣。

孝廉に推挙され大将軍の何進(かしん)に招聘されたが応じなかった。袁紹が汝南の士大夫を招くと、冀州の地形や周辺の情勢から危険を感じ、一族を連れ荊州へ移り住んだ。荊州牧の劉表(りゅうひょう)は厚遇したが、彼を暗愚だと見立て、和洽は南に下り武陵に落ち着いた。

208年、荊州を制圧した曹操に招かれ丞相掾となった。
当時、崔琰(さいえん)と毛玠(もうかい)が人事を掌握し、節倹さに重きを置きすぎていることを批判した。

215年、漢中を制圧すると、和洽は放棄して住民だけを移すよう進言したが、曹操は却下した。
しかし219年、劉備の侵攻に耐えきれず漢中は放棄され、結局は和洽の言う通りになった。(『和洽伝』)

216年、魏が建国されると侍中となった。
同時に杜襲(としゅう)、王粲(おうさん)も侍中となった。王粲は記憶力に優れ見聞が広かったため、曹操はたびたび車に同乗させるほど厚遇したが、和洽・杜襲のほうが尊敬されていた。(『杜襲伝』)

同年、崔琰が曹操の怒りを買い処刑され、毛玠も誹謗の罪で投獄された。
和洽は「毛玠は剛直にして忠義公正で、とても信じられない」と再三にわたり調査を訴えた。曹操は聞き入れなかったが、毛玠は処刑されず免職に留められた。

郎中令を経て220年、曹丕が帝位につくと光禄勲となり、安城亭侯に封じられた。
226年、曹叡が即位すると西陵郷侯に上り200戸の領邑を得た。
太和年間(227~233)、高堂隆(こうどうりゅう)が異常気象は役人の職務怠慢が原因だと訴えると、和洽も同意し節倹を勧め、曹叡が血道を上げていた宮殿造営も遠回しに批判した。(『和洽伝』)

234年、先の献帝が没すると、曹叡は葬儀を催し、和洽にその霊を祀らせた。(『明帝紀』)

官位は太常に上ったが清貧を重んじたため、田畑や宅地を売って生計を立てるほどで、それを聞いた曹叡は余分に恩賞を与えた。
没年は不明だが逝去すると簡侯と諡され、子の和离(かり)が後を継いだ。

下の子の和逌(かゆう)が有能で廷尉に上り、その子の和嶠(かきょう)は「晋書」に列伝される名臣となった。(『和洽伝』)

陳寿は「清廉と和合を旨として仕事に当たった」と評したがひょっとしてダジャレだろうか。



毛機  毛玠の子


毛機(もうき)字は不明
兗州陳留郡平丘の人(??~??)

魏の臣。
毛玠(もうかい)の子。

父は誹謗の罪で曹操の怒りを買って免職され、無官のまま没した。
曹操は葬儀の準備を整えてやり、子の毛機を郎中に取り立てた。(『毛玠伝』)
(※「文帝紀」には220年、曹丕によって毛玠の子が郎中に取り立てられたとある)



衛茲  曹操の挙兵を助ける


衛茲(えいじ)字は子許(しきょ)
兗州陳留郡襄邑の人(??~??)

張邈(ちょうばく)の臣。
衛臻(えいしん)の父。

ことさら人目につこうとせず、名声も求めなかったが明晰な思慮は底深く、遠大なはかりごとを秘めていた。
20歳の頃、同郷の圏文生(けんぶんせい)とともに盛徳を称えられた。
郭泰(かくたい)が二人と市場に行った時、衛茲は商品を値段通りに買い、圏文生はケチを付けて値切らせた。
郭泰は「この二人は兄弟というよりも親子だ」と語り、後に圏文生は金銭欲で名声を損ない、衛茲は節義によって名を残した。

車騎将軍の何苗(かびょう)、司徒の楊彪(ようひょう)に招聘されたが応じなかったが(『衛臻伝』)孝廉に推挙され、陳留太守となった張邈には仕官した。(『武帝紀』)

曹操が初めて陳留を訪れた時に出会い、衛茲は「天下を平定するのはこの人に違いない」と見込み、曹操も彼を優れた人物と認め、重大事を相談し合った。
当時は董卓が都を牛耳っており、衛茲は「動乱が起こってから久しく、事は武力でしか収められません。挙兵する者が現れるでしょう」と曹操にも挙兵を勧めた。

190年、兵3千を集め曹操は挙兵した。(『衛臻伝』)
「世語」には衛茲が家財を提供し兵5千を集めたとある。(『武帝紀』)

滎陽を攻め、一日中力戦したが徐栄(じょえい)に敗れ、張邈の命で随行していた衛茲は戦死した。
曹操は馬を失い、曹洪(そうこう)に乗騎を譲られ辛くも逃げ延びた。(『衛臻伝』・『武帝紀』)

その後、曹操は郡を通過するたびに使者を送り、衛茲の霊を祀らせた。
子の衛臻が謀叛の嫌疑をかけられた時も曹操は「衛臻の父には助けられたから、そんな話は信じない」と謀叛を疑わなかった。
衛臻は魏三代に仕え、司空・司徒にまで上り「魏書」に列伝されるほどの名臣となった。(『衛臻伝』)

「演義」には登場しないが、孝廉に推挙されたが応じなかった陳留郡の富豪の衛弘(えいこう)なるオリキャラが曹操に資金援助しており、明らかに衛茲がモデルである。



朱越  衛臻を巻き込み反乱


朱越(しゅえつ)字は不明
兗州東郡の人(??~??)

賊徒?

反乱を企てて衛臻(えいしん)を招き入れたが、曹操は「衛臻の父には助けられたから、朱越の言葉など信じなかった。荀彧(じゅんいく)も弁護し、忠誠は明らかになった」と謀叛を疑わなかった。(『衛臻伝』)

記述はそれだけで、謀叛の行方もその後の消息も不明である。



曹霖  曹丕の子のトウカイテイオー


曹霖(そうりん)字は不明
豫州沛国譙の人(??~249?)

曹丕と仇昭儀(きゅうしょうぎ)の子。
曹髦の父。

曹丕に寵愛されたが粗暴な性格で、後宮の女官や側妾を痛めつけたり、殺すことがたびたびあった。(『東海定王霖伝』)

220年、帝位についた曹丕は、衛臻(えいしん)に追放した曹植(そうしょく)の様子を尋ねた。衛臻はその徳性を褒め称えたが、曹丕の寵愛する曹霖については触れなかった。(『衛臻伝』)

222年、河東王に立てられた。
225年、館陶県王に改封された。
226年、曹叡が即位すると、曹丕の遺言で他の諸王より厚遇された。
232年、東海王に改封された。

249年に没し、子の曹啓(そうけい)が後を継いだ。(『東海定王霖伝』)
「明帝紀」には250年12月27日逝去と記される。(『明帝紀』)

254年、曹芳が廃位されると、曹叡の正室の郭太后(かくたいこう)の意向で、曹霖の子で曹叡の甥にあたる曹髦が帝位についた。(『斉王紀』)

余談だがwikiには嘉平2年12月15日(251年1月24日))没と記され典拠が全くわからない。



衛烈  衛臻の子の(自称)三豫


衛烈(えいれつ)字は不明
兗州陳留郡襄邑の人(??~??)

魏の臣。
衛臻(えいしん)の子。

曹叡の代に名家の子弟の諸葛誕、夏侯玄(かこうげん)ら12人は自らを「四聡八達」と呼び合った。
衛烈、劉煕(りゅうき)、孫密(そんみつ)ら3人は彼らに及ばなかったが、父の威光もあり「三豫」と呼ばれた。
曹叡は彼ら15人を「軽薄な風潮を助長する」と酷く嫌い、全員を免職にした。(『諸葛誕伝』)

ちなみに衛烈・劉煕・孫密の父の衛臻、劉放(りゅうほう)、孫資(そんし)は曹爽(そうそう)が専横を極めると揃って官を辞しており、三家の交友が垣間見える。

父が没すると後を継ぎ、咸熙年間(264~265)に光禄勲となった。
弟の衛京(えいけい)、衛楷(えいかい)は太守に上った。(『衛臻伝』)