三国志 新規
9/5~10/3

7/4~8/3  8/4~8/19  8/20~9/4


陳諶  陳羣の叔父の大徳


陳諶(ちんしん)字は季方(きほう)
豫州潁川郡許昌の人(??~??)

陳寔(ちんしょく)の子。四男か。
陳紀(ちんき)の弟。陳羣(ちんぐん)は甥にあたる。

6人の子の中で陳紀、陳諶が最も賢く、名声高かった。
兄弟はみな徳高く孝養で、後進の者は誰もがその気風を慕った。(『後漢書 陳寔伝』)

世間では陳寔・陳紀・陳諶を合わせて「三君」と呼び、大臣から招聘が掛かる時はほとんど三人同時で、礼物と使者がひっきりなしに行き来した。

189年、霊帝が没すると大将軍の何進(かしん)は天下の名士を招き、陳諶も司空掾となったが早くに亡くなった。

その後、陳紀・陳羣の子孫は衰えていったが、陳諶の孫の陳佐(ちんさ)が州刺史に上るなど、陳諶の子孫が最も栄えた。(『陳羣伝』)



張奉  王脩に看病される


張奉(ちょうほう)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

庶民?

王脩(おうしゅう)は20歳の時、荊州南陽郡に遊学し、張奉の家に宿を借りた。ところが張奉の一家が揃って病に倒れてしまい、王脩は彼らが治るまで介抱した。(『王脩伝』)



孫氏  王脩に屈服した親分


孫氏(そんし)名は不明
青州北海郡高密の人(??~??)

庶民。

王脩(おうしゅう)は初平年間(190~193)に北海太守の孔融(こうゆう)に主簿に招かれ、高密県令を代行した。当地の顔役の孫氏は勢力が強く、子分や食客が罪を犯しても処罰できなかった。王脩は役人と住民を引き連れ彼の家を包囲した。役人らが気後れすると、王脩は攻めなければ同罪だと叱咤し、おじけづいた孫氏は罪人を差し出した。これ以来、顔役たちは服従するようになった。(『王脩伝』)



公沙盧  王脩に斬られた兄弟


公沙盧(こうさろ)字が沙盧か
青州北海郡膠東の人(??~??)

庶民。

北海太守の孔融(こうゆう)は膠東県が乱れていたため王脩(おうしゅう)に県令を代行させた。
王脩は有力豪族で私兵を雇い、陣営を築いて納税に応じない公沙盧兄弟を数人で訪ね、度肝を抜かれた彼らを斬り捨てた。
これにより当地で乱暴は少し減った。(『王脩伝』)



劉献  王脩を罵り王脩に救われる


劉献(りゅうけん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁譚(えんたん)の臣。

王脩(おうしゅう)は青州刺史の袁譚に治中従事に招かれた。別駕の劉献は王脩を目の敵にし欠点をあげつらったが、罪を犯し死刑になると、劉献を弁護してやり、人々を感心させた。(『王脩伝』)



劉詢  袁譚に反乱し漯陰で挙兵


劉詢(りゅうじゅん)字は不明
青州平原郡漯陰の人?(??~??)

袁譚(えんたん)の臣。

202年、袁紹が没すると袁譚は弟の袁尚(えんしょう)と後継者争いを起こし、武勇に優れた袁尚に連敗した。
劉詢は漯陰で反乱し、諸城も全て呼応した。袁譚は自分の不徳のせいで州を上げて背かれたのだろうかと嘆いたが、王脩(おうしゅう)は「管統(かんとう)はきっと来ます」と言った。
10日後、管統は妻子を捨てて駆けつけた。(『王脩伝』)



管統  袁譚の忠臣


管統(かんとう)字は不明
出身地不明(??~??)

袁譚(えんたん)の臣。

東莱太守を務めた。
202年、袁紹が没すると袁譚は弟の袁尚(えんしょう)と後継者争いを起こし、武勇に優れた袁尚に連敗した。
劉詢(りゅうじゅん)は漯陰で反乱し、諸城も全て呼応した。袁譚は自分の不徳のせいで州を上げて背かれたのだろうかと嘆いたが、王脩(おうしゅう)は「管統(かんとう)は背きません。きっと来ます」と言った。
10日余り後、管統は妻子を捨てて駆けつけた。袁譚は改めて楽安太守に任じたが、残された妻子は反乱軍に殺害された。

205年、袁譚は曹操に敗れて戦死し、王脩ら残党はこぞって降伏したが、管統だけは楽安に籠城した。曹操は首を持ってくるよう命じたが、王脩は彼は亡国の忠臣であると応じず、説得して出頭させた。曹操は上機嫌で赦免した。(『王脩伝』)



華彦  袁譚の佞臣A


華彦(かげん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁譚(えんたん)の臣。

「袁紹伝」の注に引く「九州春秋」にのみ登場。
「袁譚は華彦、孔順(こうじゅん)ら邪悪な小人を信頼して腹心とし、王脩(おうしゅう)らは顧みられずただ官位についているだけだった」と記される。(『袁紹伝』)

ただ「王脩伝」を見る限りそこまで冷遇されてはいない。



孔順  袁譚の佞臣B


孔順(こうじゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁譚(えんたん)の臣。

「袁紹伝」の注に引く「九州春秋」にのみ登場。
「袁譚は華彦(かげん)、孔順ら邪悪な小人を信頼して腹心とし、王脩(おうしゅう)らは顧みられずただ官位についているだけだった」と記される。(『袁紹伝』)

ただ「王脩伝」を見る限りそこまで冷遇されてはいない。



厳才  王脩を引き立てる反乱


厳才(げんさい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣?

都で数十人で反乱を起こした。王脩(おうしゅう)は変事を聞き車馬を用意させたが、待ち切れず徒歩で宮門に駆けつけた。曹操は遠くからそれを見て「あれは王脩に違いない」と言った。
鍾繇(しょうよう)は「しきたりでは宮城に変事があれば九卿は役所にいることになっている」と苦言を呈したが、王脩は「しきたりは危難に駆けつける道義に反します」と意に介さなかった。(『王脩伝』)

他に記述がなく反乱の顛末は不明だがおそらく処刑されただろう。



王忠  王脩の子


王忠(おうちゅう)字は不明
青州北海郡営陵の人(??~??)

魏の臣。
王脩(おうしゅう)の子。

長じると東莱太守、散騎常侍まで上った。

兄弟の王儀(おうぎ)は司馬昭に諫言し殺された。(『王脩伝』)

220年、帝位についた曹丕は「忠直で仁愛と道義を旨としたが子孫が衰微している」と、王脩の子らを郎中に取り立てさせた。(※これが王忠のことだろうか?)(『文帝紀』)



王儀  司馬昭に理不尽に殺された王脩の子


王儀(おうぎ)字は朱表(しゅひょう)
青州北海郡営陵の人(??~252)

魏の臣。
王脩(おうしゅう)の子。

気品があり明るく誠実な人物だった。
安東将軍の司馬昭の司馬を務めていたが252年、東関の戦いで呉軍に敗れると、司馬昭に「誰が責任を負うべきか」と聞かれ、「責任は軍の統帥にあります」と答えたところ「罪を私に押し付けるのか」と殺害された。

子の王襃(おうほう)は父の死を嘆いて隠遁し、終生誰にも仕えなかった。(『王脩伝』)



管彦  王襃に息子の結婚を反故にされる


管彦(かんげん)字は不明
青州北海郡営陵の人(??~??)

晋の臣。

王襃(おうほう)は同郷の管彦が若く無名のうちから評価し、娘と管彦の息子を結婚させる約束をした。
管彦は西夷校尉まで上ったが没し、王襃は娘を別の相手に嫁がせた。
管彦の弟の管馥(かんふく)が約束が違うと問いただすと、王襃は「私のわずかな念願は自然の中で暮らすことです。姉妹は遠くに嫁ぎ冠婚葬祭も途絶えています。ところが管彦の子は彼を洛陽に葬りました。洛陽の人には嫁がせられません」と答えた。
管馥は「兄嫁は故郷に帰るでしょう」と言ったが「父を洛陽に葬り、母が帰ることがありえましょうか」と王襃は納得しなかった。(『王脩伝』)



管馥  王襃に猛抗議


管馥(かんふく)字は不明
青州北海郡営陵の人(??~??)

晋の臣?
管彦(かんげん)の弟。

王襃(おうほう)は同郷の管彦が若く無名のうちから評価し、娘と管彦の息子を結婚させる約束をした。
管彦は西夷校尉まで上ったが没し、王襃は娘を別の相手に嫁がせた。
弟の管馥が約束が違うと問いただすと、王襃は「私のわずかな念願は自然の中で暮らすことです。姉妹は遠くに嫁ぎ冠婚葬祭も途絶えています。ところが管彦の子は彼を洛陽に葬りました。洛陽の人には嫁がせられません」と答えた。
管馥は「兄嫁は故郷に帰るでしょう」と言ったが「父を洛陽に葬り、母が帰ることがありえましょうか」と王襃は納得しなかった。(『王脩伝』)



韓宣  曹植を論破する


韓宣(かんせん)字は景然(けいぜん)
冀州渤海郡の人(??~??)

魏の臣。

小柄な体格だった。
建安年間(196~220)に曹操に召されて丞相軍謀掾となるが、仕事が無く鄴にいた。
ある時、道で曹植(そうしょく)の馬車と行き合った。道を譲ろうとしたが雨上がりで大きな水たまりがあって身動きできず、扇で顔を隠してじっとしていた。
曹植はどかない上に礼も取らない彼に腹を立て、素性を尋ね「諸侯の邪魔をしていいと思っているのか」と怒った。
韓宣は「王の直臣は諸侯の上に位置します。丞相の属官が田舎の諸侯に礼を取るとは聞いたこともありません」と反論した。
曹植がさらに「たとえそうでも私の父に仕えているのだから、息子に礼はするべきじゃないか」と言うと、韓宣は「礼においては臣と子は同等です。それに私のほうが年上です」と言い返した。
曹植は言い負かせないと悟るとその場を去り、兄の曹丕へ弁舌の立つ奴がいると話した。

黄初年間(220~226)に尚書郎となったが、罪を犯し杖打ちを受けることになった。
そこへ皇帝となった曹丕が通りかかり、側近に素性を尋ねた。
名を聞くと「こいつが曹植の言っていた韓宣か」と思い出し、赦免してやった。
杖打ちされるため下着姿だった韓宣はそのまま走り去り、曹丕は「(曹植の話と違い)従順でものわかりのいい奴だ」と笑った。

後に清河・東郡太守を歴任し、曹叡の代に尚書大鴻臚となった。
有能でも無能でもなかったが自分を律し寛大で、前任の大鴻臚の韓曁(かんき)とともに人々は称え「大鴻臚と小鴻臚(※小柄だからだろう)、前後の治績がなんと似ていることよ」という言葉が流行した。

数年後に没した。

「魏略」では正史に列伝された張既(ちょうき)・梁習(りょうしゅう)・趙儼(ちょうげん)・裴潜(はいせん)とともに同じ巻で列伝され、「世語」でも名臣に数えられるが、正史には登場せず、裴松之の注で紹介されている。(『裴潜伝』)



韓肇  韓曁の子


韓肇(かんちょう)字は不明
荊州南陽郡堵陽の人(??~??)

魏の臣。
韓曁(かんき)の子。

238年、父が没すると後を継いだ。

韓肇も没すると子の韓邦(かんほう)が後を継いだ。

弟の韓繇(かんよう)が高陽太守になるなど韓曁の子孫は慎み深く、重職を歴任したが、司馬倫(しばりん)の反乱に巻き込まれ一族は滅びた。(『韓曁伝』)



張陟  崔林を抜擢させた并州刺史


張陟(ちょうちょく)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣?

壺関に遠征(※206年?)した際、曹操は付近の県令・県長の中で最も仁徳ある政治をする者は誰か問い、并州刺史の張陟は崔林(さいりん)と答えた。
崔林は抜擢され、魏書に列伝されるほどの人物となった。(『崔林伝』)

もともと壺関を居城にしていた高幹(こうかん)が并州刺史を務めていたが206年に戦死(『袁紹伝』)しており、張陟はその後任の刺史だろう。



王雄  軻比能を暗殺した王戎の祖父


王雄(おうゆう)字は元伯(げんはく)
徐州瑯邪郡臨沂県の人(??~??)

魏の臣。
竹林の七賢の王戎(おうじゅう)の祖父。

220年、崔林(さいりん)は幽州刺史に赴任した。
河北の軍権は呉質(ごしつ)が握っていたが、崔林はご機嫌伺いをしなかったため、涿郡太守の王雄は心配し、挨拶に出向くよう助言した。
しかし崔林は「私は刺史を辞めさせられることを、履物を脱ぎ捨てる程度にしか思っていない。異民族への対処が気掛かりだから留まっているのだ」と意に介さなかった。
任期の間、異民族の侵略を防いだが、呉質に恨まれ河間太守に左遷され、清潔な人々に惜しまれた。

一方で「魏名臣奏」には「尚書令の桓階(かんかい)は、崔林が尚書の才を持たないと判断し河間太守にした」と記されている。

孟達(もうたつ)は「王雄は西部従事の時に同僚でした。天性善良そのもので、果敢な上に智慧があります。3つの県を見事に統治し、今は涿郡太守を務めていますが彼には役不足です」と推挙した。
曹叡は「王雄が文武両道なのは承知している。散騎常侍として側近に置き、意向を理解させよう。天下の人士はまず散騎常侍を経てから州や郡を統治させたい」と詔勅を下した。
王雄は後に幽州刺史に上った。(『崔林伝』)

配下の者が王雄を烏丸校尉に据えようと考え、同職にある田豫(でんよ)を讒言して汝南太守へ左遷させた。

232年、遼東で公孫淵(こうそんえん)が反乱すると、楊曁(ようき)は田豫を推挙した。田豫は汝南太守のまま青州の諸軍を率い、遼東軍の進路を読んで撃破した。(『田豫伝』)

「戦略」に異聞がある。
232年、曹叡は幽州刺史の王雄に陸路から、平州刺史の田豫に海路から遼東を攻めさせた。
蔣済(しょうせい)は「敵対国でもないのに討伐しては逆効果で、遼東は制圧しても益はありません」と反対したが聞き入れられず、討伐も失敗した。(『蔣済伝』)

王雄は烏丸校尉を兼任し、恩賞と信義で鮮卑をなつかせた。鮮卑の大人(長)の軻比能(かひのう)も役所を訪ねては献上物をささげた。
ところが233年、軻比能は反乱した。

235年、王雄の進言により、曹叡は軻比能へ刺客の韓龍(かんりょう)を送り暗殺した。(『烏丸伝』・『鮮卑伝』)

子の王渾(おうこん ※呉討伐で活躍した王渾とは別人)は涼州刺史に、下の子の王乂(おうがい)は平北将軍に上った。
王渾の子の王戎は司徒に上り、また竹林の七賢に名を連ねた。(『崔林伝』)



王経  母子ともに死に場所を得る


王経(おうけい)字は彦緯(げんい)
冀州清河郡の人(??~260)

魏の臣。

崔林(さいりん)は王経を平民から抜擢し称賛された。(『崔林伝』)

許允(きょいん)とともに冀州の名士とうたわれた。
やがて太守に上ると、母は「お前は農家の身から太守にまでなりました。物事が上手く行き過ぎるのは不吉です。(出世は)このあたりでやめておきなさい」と忠告したが、王経は聞き入れず2州の刺史と司隷校尉を歴任した。(『夏侯玄伝』)

官を辞して帰郷した時、占術師の管輅(かんろ)が訪ねてきた。王経は怪事があったので占って欲しいと頼み、管輅は「夜に小鳥のような光が現れてあなたの懐に入り、ゴロゴロと鳴りましたね。あなたは上着を脱いでご夫人方を呼び、光を探させたでしょう」と的中させ、吉兆であり昇進すると見立てた。
王経はほどなく江夏太守になった。

「管輅別伝」に曰く、王経ははじめ占いを信じず、でたらめだと言った。管輅は笑って「あなたは物に通じる方として知られているのにお心が狭い。道を明らかにするためなら聖者や賢人も自分の意見を曲げません。ましてや私は下賤の身だから反論します」と言い、故事を引いて滔々と卜占の意義を論じた。
王経は冗談だったと謝り、いつも「管輅は真理に通じている。まぐれ当たりなどではない」と言った。(『管輅伝』)

江夏太守の時、大将軍の曹爽(そうそう)が絹を渡し呉との交易を命じたところ、王経は文書を開きもせず、官を辞して帰郷した。
母は職務放棄に激怒し、刑吏のもとへ送り50回杖打ちさせた。曹爽はそれを聞き処罰しなかった。(『夏侯玄伝』)

255年(『高貴郷公紀』)、姜維が挙兵すると、蜀方面の司令官を務める陳泰(ちんたい)へ、雍州刺史の王経は「姜維は三路から進軍しています。我々も三手に分かれて迎撃しましょう」と進言した。だが陳泰は戦力分散を危ぶみ、王経を狄道に駐屯させ連携しようとした。
しかし進軍中に王経は蜀軍と出くわし、大敗して狄道に逃げ込み、包囲された。(『陳泰伝』)

王経軍の戦死者は数万に及んだ。(『姜維伝』)
王経軍の戦死者は5桁に上った。(『張翼伝』)

鄧艾らは「蜀軍は士気高く、(狄道を捨てて)いったん兵を引き態勢を立て直すべきだ」と主張したが、陳泰は「雍州の兵は心を一つにし、容易に城は落ちない。蜀軍は城を囲んで停滞し、むしろ士気は落ちている。兵糧も尽きかけており今こそ攻め時だ」と攻撃を命じた。
陳泰は姜維の伏兵も看破し、蜀軍を撤退させた。王経は「あと10日で城の兵糧は尽き、狄道はおろか雍州も落ちたでしょう」と嘆息し、陳泰の判断を称えた。(『陳泰伝』)

鄧艾は陳泰・王経の後任として対蜀方面を任された。人々は蜀軍に余力はなく遠征は行われないと考えたが、鄧艾は「王経の敗戦は小さな被害ではない。将兵は失われ、兵糧は尽き、住民は流浪した。蜀軍はそれに乗じる」と反論し、必ずまた兵を挙げると予測し的中させた。(『鄧艾伝』)

王経は後に司隷校尉に上ると向雄(しょうゆう)を都官従事に抜擢した。
甘露年間(256~260)に尚書となった。(『夏侯玄伝』)

260年、曹髦は魏の実権を握る司馬昭を討つため、王経、王沈(おうちん)、王業(おうぎょう)を呼び寄せ計画を告げた。王経は「司馬氏の専横は今に始まったことではなく、朝廷も天下も牛耳られています。兵はおろか武器も足りないのに成功するわけがありません」と無謀さを諌めたが、曹髦は聞き入れなかった。
王沈・王業はすかさず司馬昭へ注進した。王経は誘われたが固辞した。
曹髦は返り討ちにあって刺殺され、王経も(注進しなかった罪で)捕らえられ一族皆殺しを命じられた。

王経の母も処刑された。母は顔色一つ変えず「あの時お前を(出世をやめるよう)引き止めたのは、死に場所を得られないことを心配したからです。こうして(帝に忠義を貫き)死ねるなら、何を恨むことがありましょうか」と言った。

かつて抜擢された向雄は(身の危険を顧みず)刑場で慟哭し人々を感動させた。
雍州刺史の時の部下の皇甫晏(こうほあん)は家財を売り払って遺体を引き取り、埋葬した。

265年、司馬炎は「王経は法により処刑されたとはいえ、志操を貫き通したのは評価すべきだ。残った一族を不憫に思っていた」と孫に郎中の位を与えた。(『夏侯玄伝』)



孟康  七光から評価一変


孟康(もうこう)字は公休(こうきゅう)
司隸安平郡の人(??~??)

魏の臣。

黄初年間(220~226)、曹丕が帝位につくと郭皇后(かくこうごう)の姉の親戚だったため、九親(親族)の待遇を受け散騎侍郎となった。(『杜恕伝』)

郭皇后の姉の郭昱(かくいく)の子に同姓の孟武(もうぶ)がおり、その一族だろう。(『文徳郭皇后伝』)

当時、散騎侍郎は秀才か高名な儒者で占められ、孟康だけが縁故採用だったため人々に軽視され、字や姓名ではなく阿九(あきゅう ※親戚ちゃん、くらいの意味か)と呼ばれた。
だが頭の切れる孟康は閑職にあることを利用して勉学に励み、後に文章の才を見せ、評価を改めさせた。(『杜恕伝』)

237年、司徒・司空が空席になると孟康の推挙により、崔林(さいりん)が司空に上った。(『崔林伝』)

正始年間(240~249)、杜恕(とじょ)の後任で弘農太守となり、典農校尉を務めた。
清廉で住民には善悪問わず恩情を与え、部下は正月には家に帰し、常に4分の1は休ませた。
巡察に出る際にはあらかじめ準備を整えさせ、無理に敬意を示さないようにと命じ、十数人の部下しか連れず、馬の飼い葉も自分達で刈り、野宿した。
弘農郡は街道の要地で賓客が多く通過したが、公費外のものは支給せず、旧知の者が訪ねてきた時も自腹を切った。
はじめ人々は孟康の才を認めながらも経験が無かったため太守が務まるか半信半疑だったが、その統治を称え歌にするほどだった。

渤海太守に転じ、254年に都に戻り中書令、後に中書監となった。(『杜恕伝』)

252年、司馬師が大将軍となった。当時は鍾会・夏侯玄(かこうげん)・王粛(おうしゅく)・陳本(ちんほん)・孟康・趙鄷(ちょうほう)・張緝(ちょうしゅう)らが朝議をあずかった。(『晋書 景帝紀』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に中書令として連名した。(『斉王紀』)

「廬江何氏伝」に曰く。
曹叡の代に譙郡の人で胡康(ここう)という者がいた。神童と呼ばれ貧しい身分から出世したが、何禎(かてい)は「才能はあるが性質がまっすぐではない。失敗するに違いない」と言い的中させた。

この胡康を裴松之は孟康のことではないかと推測するが、孟康は出身地も違えば皇后の親族で貧しい身分とも言えず、失脚してもおらず、ちょっと何言ってるかわからない。(『杜摯伝』)



傅祗  傅嘏の末子


傅祗(ふし)字は子荘(しそう)
涼州北地郡泥陽の人(??~??)

魏の臣。
魏書に列伝される傅嘏(ふか)の末子。

魯の大臣(不詳)が孔子を神として祀るよう上奏し、曹叡は議論させた。
博士の傅祗は賛成したが、崔林(さいりん)は「他の聖人を祀らず孔子だけを国を上げて祀るのはおかしい。孔子はすでに礼も義も別格の扱いを受けており、子孫が祀っていれば充分だ」と反対した。
(※裴松之は「ヨモギのような卑小な心で明白な道義を抑えつけた身の程知らず」と崔林を激しく非難している)(『崔林伝』)

(※崔林は244年没、傅嘏は47歳で255年に没した。傅祗はこの議論の時にまだ十代と思われる。あるいは同姓同名の別人か)

255年、父が没すると後を継いだ。

咸熙年間(264~265)に五階級の爵位制度が立てられると、傅嘏の功績が改めて採り上げられ、傅祗は涇原子に取り立てられた。

永寧年間(301~302)に司空に上った。

子の傅宣(ふせん)は御史中丞、傅暢(ふちょう)は秘書丞まで上った。傅暢の著した「晋諸公賛」は裴松之の注にも多く引かれている。(『傅嘏伝』)



崔述  崔林の子


崔述(さいじゅつ)字は不明
冀州清河郡東武城の人(??~??)

魏の臣。
崔林(さいりん)の子。

244年、父が没すると後を継いだ。

弟の崔随(さいずい)は晋の尚書僕射に上ったが、司馬倫(しばりん)の帝位簒奪に関与し、司馬倫の死後に官位を剥奪された。(『崔林伝』)



韓邦  法と司馬炎の逆鱗に触れた韓曁の孫


韓邦(かんほう)字は長林(ちょうりん)
荊州南陽郡堵陽の人(??~??)

魏の臣。
韓肇(かんちょう)の子。
魏書に列伝される韓曁(かんき)の孫。

若い頃から才能・学問があった。
父が没すると後を継いだ。

司馬炎の代に野王令を務め評判と業績を上げた。
だが新城太守に転じると、野王令の時の部下を官吏に取り立てたことで法に触れ、激怒した司馬炎に処刑された。

韓曁の子孫は慎み深く、重職を歴任したが、司馬倫(しばりん)の反乱に巻き込まれ一族は滅びた。(『韓曁伝』)



韓繇  韓曁の次男


韓繇(かんよう)字は不明
荊州南陽郡堵陽の人(??~??)

魏の臣。
魏書に列伝される韓曁(かんき)の次男。

父が没すると兄の韓肇(かんちょう)が後を継いだ。

韓繇は高陽太守に上った。
子の韓洪(かんこう)が侍御史に、孫の韓寿(かんじゅ)が河南尹となり死後に驃騎将軍を追贈され、曾孫の韓謐(かんひつ)が賈充(かじゅう)の後を継ぐなど子孫は重職を歴任したが、司馬倫(しばりん)の反乱に巻き込まれ一族は滅びた。(『韓曁伝』)



楊曁  学者ながらに軍事に参与


楊曁(ようき)字は休先(きゅうせん)
司隸滎陽郡の人(??~??)

魏の臣。

215年、魏は漢中を攻めたが苦戦した。
楊曁の上表に曰く「武帝(曹操)は自ら十万の軍勢を率い、張衛(ちょうえい)の守備など問題にならないと考えていた。ところが漢中は天然の要害で、いくら精鋭や勇猛な将がいても手の打ちようがなかった。対峙すること3日間、ついに「挙兵して30年になるが、初めて人に(勝利を)くれてやるのはどうかな」と弱音を吐き撤退を決めたが、天運が味方し、張魯(ちょうろ)が自壊した隙をつき漢中を平定しました」(『張魯伝』)

228年、曹休(そうきゅう)は石亭の戦いで大敗した。曹休が謝罪すると、曹叡は屯騎校尉の楊曁を使者に立てて彼を慰撫し、以前に増した待遇を与えたが(敗戦の悔恨から)急病を発し逝去した。(『曹休伝』)

232年、遼東で公孫淵(こうそんえん)が反乱すると、中領軍の楊曁は田豫(でんよ)を推挙した。田豫は汝南太守のまま青州の諸軍を率い、遼東軍の進路を読んで撃破した。(『田豫伝』)

「傅子」に曰く。
劉曄(りゅうよう)は曹叡に重用された。曹叡が蜀征伐を考えると内々で彼も賛成したが、公の朝臣との討議では反対に回った。
楊曁は反対派の中でも最も堅固に主張し、劉曄とも議論を重ねていた。楊曁が曹叡にも反対を伝えると「学者の君に軍事のことがわかるのか」と皮肉られた。
楊曁は「私は儒者の端くれですが、陛下が中領軍に任じられたからには言葉を尽くします。それに劉曄も反対しています」と返した。
曹叡は劉曄も内々では賛成していると言い、改めて呼び出し問いただすと「国の討伐は重大な計画です。私は夢の中でさえ漏らさないよう気を付けているのに、決まってもいない計画をなぜ吹聴するのですか。口に出せば蜀に伝わる危険があります」と劉曄は諌めた。
劉曄はさらに楊曁へ「釣り師は魚が針にかかると、まず魚の動きに任せ、制御できるようになってから釣り上げる。君主は大魚どころではない。あなたは率直な臣下だが策略は取るに足らない。熟考すべきだ」と苦言を呈した。
曹叡も楊曁も謝ったが、劉曄は後に讒言により失脚し、発狂して死んだ。英知と策謀はあったが道義と誠実さが無かったからである。(※裴松之が注に引いた異聞であり正史の記述ではない)(『劉曄伝』)

子の楊肇(ようちょう)は晋代に荊州刺史に上った。(『田豫伝』)



韓龍  軻比能を暗殺した刺客


韓龍(かんりょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

233年、鮮卑の大人(長)の軻比能(かひのう)が反乱した。

235年、幽州刺史の王雄(おうゆう)の進言により、曹叡は軻比能へ勇猛な刺客の韓龍を送り暗殺した。
代わって軻比能の弟が王に立てられた。(『烏丸伝』・『鮮卑伝』)



王渾  王戎の父


王渾(おうこん)字は不明
徐州瑯邪郡臨沂県の人(??~??)

魏の臣。
王雄(おうゆう)の子。
呉討伐で活躍した王渾とは別人。

涼州刺史・貞陵亭侯にまで上った。

子の王戎(おうじゅう)が15歳の時、友人の阮籍(げんせき)に会わせると20歳差をものともせず二人は交友を深めた。
阮籍は王渾とは短時間しか話さず、王戎とは長時間話し込み「王戎は清賞で王渾は倫直ではない。王戎と話すほうが楽しい」と言った。
後に阮籍と王戎は竹林の七賢に名を連ねた。

任地の涼州で没した。爵位を継いだ王戎は数百万の香典を断り名を上げた。(『晋書 王戎伝』)

父はかつて幽州刺史を務め、反乱した鮮卑の大人(王)の軻比能(かひのう)へ刺客を送り暗殺した。
弟の王乂(おうがい)は平北将軍に上った。
王戎は司徒に上った。(『崔林伝』)



王乂  王衍の父


王乂(おうがい)字は不明
徐州瑯邪郡臨沂県の人(??~??)

魏の臣。
王雄(おうゆう)の次子。

平北将軍に上った。

後に晋の名将となる祖逖(そてき)は早くに父を亡くし、兄の祖訥(そとつ)は母と弟らへの孝行で知られていた。
王乂は祖訥に目を掛け、二人の女召使いを与えた。
ある人が祖訥を「男奴隷(祖訥)は女奴隷の2倍の値段か」とからかうと、祖訥は「百里奚は羊の皮5枚より安いのか?」と言い返した。(※秦の宰相の百里奚は奴隷の頃に、羊の皮5枚で買われた)(『世説新語』)

任地の北平郡で没した。
子の王衍(おうえん)は北平郡へ手厚く寄付し、父の旧臣に惜しみなく金を貸し、数年のうちに家財を無くして名を上げた。(『晋書 王衍伝』)

子の王衍は太尉に、王澄(おうちょう)は荊州刺史に上った。

父はかつて幽州刺史を務め、反乱した鮮卑の大人(王)の軻比能(かひのう)へ刺客を送り暗殺した。
兄の王渾(おうこん ※呉討伐で活躍した王渾とは別人)は涼州刺史へ上り、その子の王戎(おうじゅう)は司徒に上り、また竹林の七賢に名を連ねた。(『崔林伝』)



向雄  意志を貫き通す


向雄(しょうゆう)字は茂伯(ぼうはく)
司隷河内郡山陽の人(??~282?)

晋の臣。
彭城太守を務めた向韶(しょうしょう)の子。
「晋書」に列伝される。

郡主簿として太守の王経(おうけい)に仕えた。(『晋書 向雄伝』)
王経は司隷校尉に上ると向雄を都官従事に抜擢した。(『夏侯玄伝』)
260年、王経が曹髦の挙兵に加担したとして処刑されると、身を顧みず市中で大いに嘆き悲しみ、市井の人々も同情した。
後任の太守の劉準(りゅうじゅん)(※劉毅(りゅうき)と誤記されている)や呉奮(ごふん)らは些細な罪であるいは鞭打ち、あるいは投獄し迫害したが、鍾会に身柄を引き取られた。

265年、その鍾会も蜀の制圧後に反乱し殺された。
向雄が遺体を埋葬してやると、司馬昭は呼びつけ「かつてお前が王経のために哭泣した時は咎めなかったが、反乱した鍾会を埋葬するのは話が別だ。これを見逃しては法が成り立たない」と叱った。
向雄は「鍾会を誅殺し法は全うされ、私は生前の恩義に報い礼をもって埋葬しました。法は定まり礼も広まっているのに、これを咎めては仁賢の士を嘆かせるでしょう」と敢然と反論した。司馬昭は返答に満足し、向雄を歓待してから帰らせた。(『晋書 向雄伝』)

後世の習鑿歯は、向雄の道義とそれを認めた司馬昭の度量をともに称えた。(『鍾会伝』)

黄門侍郎に昇進すると、かつて迫害された劉準・呉奮と同僚になった。
向雄が彼等と口も利かないと聞き、司馬炎は関係修復を命じた。向雄はやむなく劉準を訪ね二度おじぎをし「勅命を受けたので絶縁します」と言い立ち去った。
報告を受けた司馬炎は激怒したが、向雄は「古代は推挙するにも批判するにも礼にのっとりましたが、現代は推挙するなら膝を接するほどで、批判する時は谷川に突き落とすように、礼に外れた行いばかりです。私が劉準へ牙を剥かなかっただけでも幸運です」と弁明し、司馬炎を納得させた。

泰始年間(265~275)に秦州刺史に上り(※胡烈(これつ)が戦死した270年か?)、275年頃には御史中丞・侍中・征虜将軍に昇進した。
280年頃、河南尹になり関内侯に封じられた。
282年頃、司馬炎の弟で声望高い司馬攸(しばゆう)が都から外に出されると聞き、向雄は「陛下の多くの子や兄弟にも、徳望高い人物は稀です。司馬攸様は国益をもたらします」と再考を求めた。
何度も諫言したが司馬炎は全く聞き入れず、激昂した向雄はその足で朝廷を去り、怒りのあまり病を得て間もなく没した。

弟の向匡(しょうきょう)は司馬衷の代に護軍将軍となった。(『晋書 向雄伝』)