三国志 新規
10/4~10/31

7/4~8/3  8/4~8/19  8/20~9/4  9/5~10/3


王業  司馬昭へご注進


王業(おうぎょう)字は不明
益州上庸郡武陵県の人(??~??)

魏・晋の臣。

260年、曹髦は魏の実権を握る司馬昭を討つため、王経(おうけい)、王沈(おうちん)、散騎常侍の王業を呼び寄せ計画を告げた。王経は無謀だと諌めたが、曹髦は聞き入れなかった。
王沈・王業はすかさず司馬昭へ注進した。王経は誘われたが固辞した。
曹髦は返り討ちにあって刺殺され、王経も(注進しなかった罪で)捕らえられ一族皆殺しを命じられた。

「世語」に曰く。
王経はまっとうな人間だったので注進せず、王沈・王業に頼んで司馬昭へ気持ちを伝えさせた。

「晋諸公賛」に曰く。
王沈・王業は王経も誘ったが、王経は従わず「あなたたちは行きなさい」と言った。(『高貴郷公紀』)

「世語」に曰く。
王業が司馬昭へ王経の気持ちを説明しなかったため処刑されたのである。(『夏侯玄伝』)

後に晋の中護軍となった。(『高貴郷公紀』)



趙鄷  無名の驃騎将軍


趙鄷(ちょうほう)字は子仲(しちゅう)
司隸河内郡温県の人(??~??)

魏・晋の臣。
趙咨(ちょうし)の子。
(※趙咨は魏・呉に二人いるが「ちくま版」は呉の趙咨と混同して索引に載せている)

252年、司馬師が大将軍となった。当時は鍾会・夏侯玄(かこうげん)・王粛(おうしゅく)・陳本(ちんほん)・孟康(もうこう)・趙鄷・張緝(ちょうしゅう)らが朝議をあずかった。(『晋書 景帝紀』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に侍中として連名した。(『斉王紀』)

晋代に驃騎将軍に上り、東平陵公に取り立てられた。
父とともに「百官名」に記された。(『司馬朗伝』)



胡康  失脚した神童


胡康(ここう)字は不明
豫州譙郡の人(??~??)

魏の臣。

毌丘倹(かんきゅうけん)が杜摯(とし)に送った答詩に「胡康は田畑より現れた」と記される。

「廬江何氏伝」に曰く。
曹叡の代に胡康は15歳にして才能を見込まれ都へ送られた。
政治の利害を説き、問題の多い県を治めさせて欲しいと要請した。人々は感心し彼を神童と称えた。
曹叡は秘書に任命し広く典籍を読ませた。
だが彼について尋ねられた何禎(かてい)は「才能はあるが性質がまっすぐではない。失敗するに違いない」と言った。
はたして後に過失を犯し咎められた。

裴松之は「調べたが魏に貧しい身分から出世した胡康という人物はいない。孟康(もうこう)のことではないか」と推測するが、孟康は出身地も違えば皇后の親族で貧しい身分とも言えず、失脚してもおらず、ちょっと何言ってるかわからない。(『杜摯伝』)



楊肇  西陵の戦いで大敗


楊肇(ようちょう)字は不明
司隸滎陽郡の人(??~??)

晋の臣。
楊曁(ようき)の子。

山濤(さんとう)は「山濤啓事」で才能ある人物と称えた。

晋代に荊州刺史に上った。(『田豫伝』)

272年、呉の歩闡(ほせん)が反乱し西陵に籠城した。
晋は羊祜(ようこ)や徐胤(じょいん)、荊州刺史の楊肇を援軍として送った。
呉の討伐軍の陸抗(りくこう)は楊肇と対峙したが、部下の朱喬(しゅきょう)と兪賛(ゆさん)が寝返ってしまった。
陸抗は「兪賛は古株で我が軍の実情に詳しい。私は常々、異民族の兵は訓練不足で弱点だと思っている」と言い、兪賛もそこを狙うだろうと考え、夜間のうちに異民族と精鋭の陣を交替させた。
翌日、はたして楊肇は異民族の陣を攻めようとして罠にはまり大敗した。

数ヶ月後、楊肇は万策尽き果てて夜陰に紛れ撤退を始めた。
陸抗は追撃したかったが歩闡に背後を襲われるのを警戒し、追撃の素振りだけを見せた。楊肇の兵はこれに泡を食って恐慌状態となり、鎧を捨てて逃げ出した。陸抗は軽装の兵に追撃させ大戦果を上げ、羊祜の軍も撤退した。
孤立した歩闡は降伏し処刑された。(『陸抗伝』)

羊祜は「8万の兵を持ちながら3万の呉軍を攻めず江陵に留まり、みすみす備えを固めさせた。さらに楊肇の軍だけを進め、兵は少なく兵站も遠く、敗北を喫した」と弾劾され、降格させられた。
楊肇も免官され庶民に落とされた。(『晋書 羊祜伝』)

子の楊潭(ようたん)、楊歆(ようきん)や孫の楊彧(よういく)、楊経(ようけい)は事績を「潘岳集」に記された。(『田豫伝』)



歩闡  西陵で反乱した歩隲の子


歩闡(ほせん)字は不明
徐州臨淮郡淮陰の人(??~272)

呉の臣。
歩隲(ほしつ)の子。

247年、父が没すると兄の歩協(ほきょう)が兵と爵位を継いだ。
歩協も没すると、その子の歩璣(ほき)が爵位を継ぎ、歩闡が兵を継ぎ昭武将軍を加官され西亭侯に封じられ、父に引き続き西陵督となった。(『歩闡伝』)

265年9月、歩闡の上表により孫晧は建業から武昌へ遷都した。(『孫晧伝』)

272年8月、繞帳督へ転任を命じられ都に呼ばれると、父祖代々にわたり西陵督を務めながら、急に転任はおかしいと疑心暗鬼を生じ、謀叛を決意した。
歩璣と弟の歩璿(ほせん)を晋へ送って投降を伝えると、晋から都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司・侍中・仮節・交州牧・宜都公を与えられ、歩璣・歩璿も高位に上った。(『孫晧伝』・『歩闡伝』)

晋は歩闡を援護するため羊祜(ようこ)や徐胤(じょいん)、楊肇(ようちょう)を援軍として送った。
討伐を命じられた陸抗(りくこう)は歩闡の籠城する西陵を長陣で包囲させた。まるで敵が目前に迫っているかのように急ピッチで作業させたため諸将は「晋軍の到着前に攻めれば済むのに、なぜ包囲ばかり考え兵や民を疲弊させるのか」と諌めたが、陸抗は「西陵の防備は皮肉にも私が固めたから、すぐに落とせないことはわかっている。まず晋軍に挟み撃ちされるのを防ぐべきだ」と答えた。
なおも反対され、中でも雷譚(らいたん)が誠意ある言葉で攻撃を進言したため、陸抗は一度だけ攻撃を認めたが、敗北しようやく諸将も納得した。

羊祜の軍が江陵に迫ると諸将は救援を求めたが、これにも陸抗は「江陵の防備は固く、たとえ落とされても維持はできない。西陵へ晋軍が入られたら、異民族の反乱も招き、対処のしようがない。江陵を捨ててでも西陵を包囲すべきだ」と反対した。
そして張咸(ちょうかん)に命じて平地にある江陵に水を流し、水で囲んで守らせた。羊祜は水を利用して船で兵糧を輸送しようと考え、逆に晋軍は堰を切ろうとしていると偽報を流した。だが陸抗は羊祜の考えを見抜くとすぐさま張咸に堰を切らせた。羊祜は陸路での輸送を強いられ晋軍の兵力は割かれた。

陸抗は楊肇と対峙したが古参の兪賛(ゆさん)が寝返ってしまった。陸抗は兪賛が呉軍の弱点に詳しいことを利用して罠にはめ、楊肇軍を撃退した。
数ヶ月後、楊肇は万策尽き果てて夜陰に紛れ撤退を始めた。
陸抗は追撃したかったが歩闡に背後を襲われるのを警戒し、追撃の素振りだけを見せた。楊肇の兵はこれに泡を食って恐慌状態となり、鎧を捨てて逃げ出した。陸抗は軽装の兵に追撃させ大戦果を上げ、羊祜の軍も撤退した。
孤立した歩闡は降伏し処刑された。(『陸抗伝』)

歩闡と腹心ら数十人が一族皆殺しとなった。(『孫晧伝』)

(祖父の功績に免じて)歩璿だけが、一族の祭祀を絶やさないよう赦された。(『歩闡伝』)

陸抗は反乱した将兵の多くは助命嘆願してやり、助けられた者は数万人に及んだ。凱旋後も功績をおごらず謙虚な態度が変わらなかったため将兵は彼に心から仕えた。

一方で「陸機陸雲別伝」には「陸抗は歩闡を降すと嬰児まで皆殺しにした。道理ある人々は子孫に報いがあるだろうと話したが、その通りに陸機(りくき)が誅殺され陸氏は滅びた」と記される。(『陸抗伝』)

孫晧は戦勝を祝って大赦を行い、気が大きくなり尚広(しょうこう)に天下統一について占わせた。「庚子の年に(天子が用いる)青いきぬがさが洛陽に入るでしょう」と占われ、孫晧は内政を顧みず外征ばかり考えた。
280年、呉は滅亡し孫晧は洛陽へ移送された。この年は確かに庚子であった。

陸機は「弁亡論」の中で歩闡について「歩闡は異民族に反乱を呼びかけ、晋軍も雲のように集まったが陸抗に撃退された。だが陸抗も没すると(279年からの)晋の侵攻は曹操の侵攻よりも盛大ではなく、郭馬(かくば)が起こした反乱は歩闡よりも劣ったがそれによって呉は滅びた」と末期の呉の脆弱さの例えに上げている。(『孫晧伝』)



徐胤  将軍、ノーマルスーツを着てください


徐胤(じょいん)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

羊祜(ようこ)は都督として荊州を治めていた時、軽装で鎧もつけず、護衛も十数人しか連れず、狩りや釣りへたびたび出掛けた。
ある夜、外出しようとすると軍司の徐胤が門前に立ちはだかり「将軍は万里を督しているのにどうして軽はずみなことをするのが許されるでしょう。あなたの安否は国家の安否です。私が生きている限りこの門は開きません」と諌めた。羊祜は居住まいを正して陳謝し、外出は稀になった。(『晋書 羊祜伝』)

272年、呉の西陵督の歩闡(ほせん)が反乱した。
晋は援護するため羊祜や楊肇(ようちょう)、巴東監軍の徐胤を援軍として送った。
徐胤は水軍を率いて建平へ向かい、陸抗は羊祜を孫遵(そんじゅん)に、徐胤を留慮(りゅうりょ)と朱琬(しゅえん)に足止めさせ、自らは楊肇と対峙した。

数ヶ月後、陸抗は楊肇を撃破し、晋軍は撤退した。歩闡は降伏し処刑された。(『陸抗伝』)



朱喬  西陵の戦いで晋へ寝返る


朱喬(しゅきょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、呉の歩闡(ほせん)が反乱し西陵に籠城した。
晋は羊祜(ようこ)や徐胤(じょいん)、楊肇(ようちょう)を援軍として送った。
呉の討伐軍の陸抗(りくこう)は楊肇と対峙したが、将軍の朱喬と営都督の兪賛(ゆさん)が寝返ってしまった。
陸抗は「兪賛は古株で我が軍の実情に詳しい。私は常々、異民族の兵は訓練不足で弱点だと思っている」と言い、兪賛もそこを狙うだろうと考え、夜間のうちに異民族と精鋭の陣を交替させた。
翌日、はたして楊肇は異民族の陣を攻めようとして罠にはまり大敗した。(『陸抗伝』)



兪賛  西陵の戦いで晋へ寝返った古株


兪賛(ゆさん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、呉の歩闡(ほせん)が反乱し西陵に籠城した。
晋は羊祜(ようこ)や徐胤(じょいん)、楊肇(ようちょう)を援軍として送った。
呉の討伐軍の陸抗(りくこう)は楊肇と対峙したが、将軍の朱喬(しゅきょう)と営都督の兪賛が寝返ってしまった。
陸抗は「兪賛は古株で我が軍の実情に詳しい。私は常々、異民族の兵は訓練不足で弱点だと思っている」と言い、兪賛もそこを狙うだろうと考え、夜間のうちに異民族と精鋭の陣を交替させた。
翌日、はたして楊肇は異民族の陣を攻めようとして罠にはまり大敗した。(『陸抗伝』)



歩協  歩隲の跡継ぎ


歩協(ほきょう)字は不明
徐州臨淮郡淮陰の人(??~??)

呉の臣。
歩隲(ほしつ)の子。

247年、父が没すると歩協が兵と爵位を継ぎ、撫軍将軍を加官された。(『歩闡伝』)

歩協や、諸葛瑾(しょかつきん)の子の諸葛融(しょかつゆう)は父の任を引き継いでいたが、孫権は統率力に優れた朱然(しゅぜん)に彼らの指揮を執らせた。(『歩協伝』)

249年、王基(おうき)は歩協の守る夷陵を攻撃したが、籠城された。王基は攻撃の素振りを見せながら兵を分けて兵糧庫を襲い、さらに譚正(たんせい)を捕虜とし数千人を降伏させた。そして降伏者たちを移住させて夷陵県を設置した。(『王基伝』)

264年、蜀が滅亡すると、呉は救援にかこつけて蜀の旧領を切り取ろうと考え、歩協らを進撃させた。
永安城を守る羅憲(らけん)は降伏勧告をはねつけ、籠城した。
蜀を制圧した鄧艾・鍾会は反乱によって命を落とし、蜀を併合する好機だったが、羅憲の抵抗により進めなかった。歩協は城を攻めたが羅憲は城外へ出て迎え撃ち大破した。
孫休は陸抗(りくこう)に3万の兵を与え永安城を包囲させたが6ヶ月経っても落とせず、晋の援軍が現れ呉軍は撤退した。(『霍弋伝』)

歩協も没すると、その子の歩璣(ほき)が爵位を継ぎ、弟の歩闡(ほせん)が兵を継ぎ父に引き続き西陵督となった。

272年8月、歩闡は繞帳督へ転任を命じられ都に呼ばれると、父祖代々にわたり西陵督を務めながら、急に転任はおかしいと疑心暗鬼を生じ、謀叛を起こした。
晋からも援軍が送られたが陸抗に敗れて降伏し、処刑された。
一族は皆殺しとなり、下の弟の歩璿(ほせん)だけが祭祀を絶やさないよう助命された。(『歩闡伝』)



歩璣  歩闡の甥


歩璣(ほき)字は不明
徐州臨淮郡淮陰の人(??~272)

呉の臣。
歩協(ほきょう)の子。歩隲(ほしつ)の孫。

父が没すると、歩璣が爵位を継ぎ、叔父の歩闡(ほせん)が兵を継ぎ西陵督となった。

272年8月、歩闡は繞帳督へ転任を命じられ都に呼ばれると、父祖代々にわたり西陵督を務めながら、急に転任はおかしいと疑心暗鬼を生じ、謀叛を起こした。
歩闡は晋に降伏し高位に任じられ、歩璣も監江陵諸軍事・左将軍・散騎常侍・廬陵太守・江陵侯を与えられた。

晋からも援軍が送られたが陸抗(りくこう)に敗れて降伏し、処刑された。
一族は皆殺しとなり、下の叔父の歩璿(ほせん)だけが祭祀を絶やさないよう助命された。(『歩闡伝』)



歩璿  歩闡の弟


歩璿(ほせん)字は不明
徐州臨淮郡淮陰の人(??~??)

呉の臣。
歩隲(ほしつ)の子

272年8月、兄の歩闡(ほせん)は繞帳督へ転任を命じられ都に呼ばれると、父祖代々にわたり西陵督を務めながら、急に転任はおかしいと疑心暗鬼を生じ、謀叛を起こした。
歩闡は晋に降伏し高位に任じられ、歩璿も給事中・宣威将軍・都郷侯を与えられた。

晋からも援軍が送られたが陸抗(りくこう)に敗れて降伏し、処刑された。
一族は皆殺しとなり、歩璿だけが祭祀を絶やさないよう助命された。(『歩闡伝』)



雷譚  陸抗に西陵攻撃を進言


雷譚(らいたん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、西陵督の歩闡(ほせん)が反乱した。
討伐を命じられた陸抗(りくこう)は歩闡の籠城する西陵を長陣で包囲させた。まるで敵が目前に迫っているかのように急ピッチで作業させたため諸将は「晋軍の到着前に攻めれば済むのに、なぜ包囲ばかり考え兵や民を疲弊させるのか」と諌めたが、陸抗は「西陵の防備は皮肉にも私が固めたから、すぐに落とせないことはわかっている。まず晋軍に挟み撃ちされるのを防ぐべきだ」と答えた。
なおも反対され、中でも宜都太守の雷譚が誠意ある言葉で攻撃を進言したため、陸抗は一度だけ攻撃を認めたが、敗北しようやく諸将も納得した。

その後、陸抗の読みは次々と当たり晋軍を撃退し、降伏した歩闡は処刑された。(『陸抗伝』)



張咸  西陵の戦いで活躍した江陵督


張咸(ちょうかん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、西陵督の歩闡(ほせん)が反乱した。
歩闡を援護するため晋の羊祜(ようこ)が江陵に迫ると、呉の諸将は討伐軍を率いる陸抗(りくこう)に救援を求めたが、「江陵の防備は固く、たとえ落とされても維持はできない。西陵へ晋軍が入られたら、異民族の反乱も招き、対処のしようがない。江陵を捨ててでも西陵を包囲すべきだ」と反対した。
そして江陵督の張咸に命じて平地にある江陵に水を流し、水で囲んで守らせた。羊祜は水を利用して船で兵糧を輸送しようと考え、逆に晋軍は堰を切ろうとしていると偽報を流した。だが陸抗は羊祜の考えを見抜くとすぐさま張咸に堰を切らせた。羊祜は陸路での輸送を強いられ晋軍の兵力は割かれた。

晋が徐胤(じょいん)、楊肇(ようちょう)ら援軍を送ると陸抗は張咸に江陵を固く守らせた。
その後、陸抗の読みは次々と当たり晋軍を撃退し、降伏した歩闡は処刑された。(『陸抗伝』)



尚広  孫晧の洛陽入りを的中させる


尚広(しょうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、歩闡(ほせん)の反乱を鎮圧させた孫晧は戦勝を祝って大赦を行い、気が大きくなり尚広に天下統一について筮竹で占わせた。「庚子の年に(天子が用いる)青いきぬがさが洛陽に入るでしょう」と占われ、孫晧は内政を顧みず外征ばかり考えた。
280年、呉は滅亡し孫晧は洛陽へ移送された。この年は確かに庚子であった。(『孫晧伝』)



孫遵  西陵の戦いの公安督


孫遵(そんじゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、呉の西陵督の歩闡(ほせん)が反乱した。
晋は援護するため羊祜(ようこ)や楊肇(ようちょう)、徐胤(じょいん)を援軍として送った。
徐胤は水軍を率いて建平へ向かい、陸抗(りくこう)は羊祜を公安督の孫遵に、徐胤を留慮(りゅうりょ)と朱琬(しゅえん)に足止めさせ、自らは楊肇と対峙した。

数ヶ月後、陸抗は楊肇を撃破し、晋軍は撤退した。歩闡は降伏し処刑された。(『陸抗伝』)

274年9月、江夏太守の嵇喜(けいき)は侵攻してきた呉の孫遵・李承(りしょう)を撃退した。(『晋書 武帝紀』)



留慮  西陵の戦いの水軍督


留慮(りゅうりょ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、呉の西陵督の歩闡(ほせん)が反乱した。
晋は援護するため羊祜(ようこ)や楊肇(ようちょう)、徐胤(じょいん)を援軍として送った。
徐胤は水軍を率いて建平へ向かい、陸抗(りくこう)は羊祜を孫遵(そんじゅん)に、徐胤を水軍督の留慮と朱琬(しゅえん)に足止めさせ、自らは楊肇と対峙した。

数ヶ月後、陸抗は楊肇を撃破し、晋軍は撤退した。歩闡は降伏し処刑された。(『陸抗伝』)



朱琬  朱治の孫


朱琬(しゅえん)字は不明
揚州丹陽郡故鄣県の人(??~??)

呉の臣。
朱才(しゅさい)の子。朱治(しゅち)の孫。

祖父・父の爵位を継ぎ鎮西将軍まで上った。(『朱治伝』)

272年、呉の西陵督の歩闡(ほせん)が反乱した。
晋は援護するため羊祜(ようこ)や楊肇(ようちょう)、徐胤(じょいん)を援軍として送った。
徐胤は水軍を率いて建平へ向かい、陸抗(りくこう)は羊祜を孫遵(そんじゅん)に、徐胤を留慮(りゅうりょ)と鎮西将軍の朱琬に足止めさせ、自らは楊肇と対峙した。

数ヶ月後、陸抗は楊肇を撃破し、晋軍は撤退した。歩闡は降伏し処刑された。(『陸抗伝』)



譚正  王基に捕らわれた呉の安北将軍


譚正(たんせい)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

249年、王基(おうき)は歩協(ほきょう)の守る夷陵を攻撃したが、籠城された。王基は攻撃の素振りを見せながら兵を分けて兵糧庫を襲い、さらに安北将軍の譚正を捕虜とし数千人を降伏させた。そして降伏者たちを移住させて夷陵県を設置した。(『王基伝』)



李承  孫遵とともに嵇喜に撃破される


李承(りしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

274年9月、江夏太守の嵇喜(けいき)は侵攻してきた呉の孫遵(そんじゅん)・李承を撃退した。(『晋書 武帝紀』)



向韶  向雄の父


向韶(しょうしょう)字は不明
司隷河内郡山陽の人(??~??)

魏の臣。

彭城太守を務めた。

子の向雄(しょうゆう)は秦州刺史や河南尹を務め「晋書」に列伝された。(『晋書 向雄伝』)



趙咨  司馬朗の理解者


趙咨(ちょうし)字は君初(くんしょ)
司隸河内郡温県の人(??~??)

魏の臣。
(※趙咨は魏・呉に二人いるが「ちくま版」は呉の趙咨と混同して索引に載せている)

189年、董卓が実権を握ると、司馬朗(しばろう)は彼の滅亡を察知し、賄賂を使い郷里へ帰った。そして一族の長老たちへ「董卓追討軍が立てば、ここは必ず戦場となります。今のうちに親戚の趙威孫(ちょういそん)のいる黎陽へ避難しましょう」と言ったが、故郷から離れがたいと誰も従わなかった。
結局、司馬朗と同郷の趙咨だけが黎陽へ逃げ、数ヶ月後には読み通りに河内に追討軍が集結した。(『司馬朗伝』)

233年、満寵(まんちょう)は合肥が呉に攻略されかかっていると考え、合肥新城の築城を上奏した。蔣済(しょうせい)は反対したが、満寵は重ねて「孫子」を引いて利益を説き、尚書の趙咨も賛成したため築城を認められた。(『満寵伝』)

太常まで上り、世間で立派な人物と評判を取った。

子の趙鄷(ちょうほう)は晋代に驃騎将軍に上り、東平陵公に取り立てられた。
父子ともに「百官名」に記された。(『司馬朗伝』)



趙咨  曹丕を唸らせる論客


趙咨(ちょうし)字は徳度(とくど)
荊州南陽郡の人(??~??)

呉の臣。
(※趙咨は魏・呉に二人いるが「ちくま版」は魏の趙咨と混同して索引に載せている)

「呉書」に曰く。
博聞多識で人との受け答えに巧みだった。
220年、魏から呉王に封ぜられた孫権は趙咨を中大夫に抜擢し魏への使者に立てた。
曹丕は彼を気に入り「呉王(孫権)は少しは学問がわかるのか」とからかった。
趙咨は「長江に1万の戦艦を並べ、百万の兵を率い、賢者を信任し能力のある者を手足のように使い、天下国家の経略を志しています。暇があれば経書やその注釈、歴史書を学び、その優れたものを吸収していますが、学者のように一字一句のこまごまとした詮索はしません」と答えた。
曹丕が「我々は呉を討伐することができるか」と問うと「貴国には討伐軍がいますが、我が国にも防御の固めがあります」と言い、曹丕がさらに「呉は魏をはばかっているのか」と言うと「百万の兵がおり、長江と漢水を堀にしているのにどうしてはばかるでしょう」と返した。
曹丕は「呉にはあなたぐらいの人物はどれほどいるのか」とも聞き、趙咨は「聡明で飛び抜けた見識を持つ者が80~90人。私程度なら車で運び一斗枡で計るほどで数え切れません」と答えた。

毎年のように使者を務め、魏の人々は趙咨を尊敬し高く評価した。孫権はそれを喜び騎都尉を加官した。
趙咨は「魏が盟約を守り通すことはありません。今のうちに呉が漢王朝の後を受け継ぐ準備を整えるべきです」と上言し、孫権もその意見を容れた。

「呉主伝」に曰く。
220年、魏から呉王に封ぜられた孫権は都尉の趙咨を使者に立てた。
曹丕に孫権の主君ぶりを尋ねられた趙咨は「聡明にして仁智、雄と略を備えた主君です」と答えた。
曹丕が具体的に説明するよう求めると「魯粛(ろしゅく)を平民から取り立てたのが聡、呂蒙を兵士から抜擢したのが明、捕虜の于禁(うきん)を殺さず解放したのが仁、荊州を無血で奪い返したのが智、三州を治め虎視眈々と天下を窺うのが雄、身を屈して魏に臣従するのが略です」と返した。(『呉主伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「趙咨・沈珩(しんこう)は使者の任に当たり、機転の利く応対により国の名誉を外国にまで広げた」と評した。(『孫晧伝』)

「演義」にも登場し、魏への出立を前に孫権へ「失敗したら長江に身を投げます」と覚悟を述べた。曹丕との問答もほぼ再現されている。



趙威孫  司馬朗の親類


趙威孫(ちょういそん)字は不明
冀州黎陽郡の人(??~??)

後漢の臣。
司馬朗(しばろう)の親類。

189年、董卓が実権を握ると、司馬朗は彼の滅亡を察知し、賄賂を使い郷里へ帰った。そして一族の長老たちへ「董卓追討軍が立てば、ここは必ず戦場となります。今のうちに古い親戚の趙威孫のいる黎陽へ避難しましょう。趙威孫は監営謁者として兵を統率し頼りがいがあります」と言ったが、故郷から離れがたいと誰も従わなかった。
結局、司馬朗と同郷の趙咨(ちょうし)だけが黎陽へ逃げ、数ヶ月後には読み通りに河内に追討軍が集結した。(『司馬朗伝』)



沈珩  趙咨の次の使者


沈珩(しんこう)字は仲山(ちゅうざん)
揚州呉郡の人(??~??)

呉の臣。

若い頃から経書をはじめ学芸全般に通じ、特に「春秋左氏伝」と「国語」に詳しかった。

220年、魏から呉王に封ぜられた孫権は趙咨(ちょうし)を魏への使者に立て、趙咨は大任を果たした。
曹丕は孫権の長男の孫登(そんとう)に爵位を授けようとしたが、幼年を理由に辞退し、西曹掾の沈珩が智謀に優れ外交交渉も巧みであることから、断りの使者として送るとともに献上物を捧げた。

曹丕が「呉は魏に攻められると疑っているのか」と問うと、沈珩は故事を引き「疑ってはいませんが、もし盟約を違えるならばもちろんその備えはあります」と答えた。
曹丕がさらに「呉の太子(孫登)が人質に来ると聞いたが確かか」と問うと、沈珩は「私は末席を汚す身なので知りません」としらばっくれた。
曹丕は応対を気に入り、側近くに招くと終日語り合い、沈珩は言葉に詰まること無く素早く受け答えした。

帰国すると沈珩は「密かに調査したところ劉曄(りゅうよう)が奸計をめぐらし、魏が盟約を守り通すことはありません。兵法にも敵が侵略しないことを頼みにせず、侵略されない実力があることを頼みにすべきだ、とあります。軍需物資を蓄え、人材を集めれば天下を窺うこともできます」と、趙咨と同じく魏の裏切りとそのための備えを訴えた。

孫権は使者の任を良く果たしたと称え、永安郷侯に封じた。
官位は少府にまで上った。(『呉主伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「趙咨・沈珩は使者の任に当たり、機転の利く応対により国の名誉を外国にまで広げた」と評した。(『孫晧伝』)

「演義」には趙咨は登場するが、沈珩は登場しない。



周毖  人事で董卓を苦しめる


周毖(しゅうひ)字は仲遠(ちゅうえん)
涼州武威郡の人(??~190)

後漢の臣。
豫州刺史を務めた周慎(しゅうしん)の子。(『後漢書 献帝紀』)

名や出身地に異同が見られるので以下に列記する。
「後漢書 献帝紀」等は周珌(しゅうひつ)と記す。(※後漢書は名の細かな差異が多い)
「蜀書 許靖伝」は周毖、漢陽郡の人と記す。
「董卓伝」の注に引く「英雄記」は周毖、字は仲遠、武威郡の人と記す。

189年、董卓は実権を握ると許靖(きょせい)と吏部尚書の周毖に人事を任せた。荀爽(じゅんそう)・韓融(かんゆう)・陳紀(ちんき)らが昇進し公・卿・郡守に取り立てられた。(『許靖伝』)

董卓は少帝を廃そうと考え、袁紹に相談したが逃げられた。
侍中の周毖・伍瓊(ごけい)・何顒(かぎょう)らは裏で袁紹と内通していたため「袁紹は廃位という大事に関わるのを恐れただけです。下手に賞金首にして刺激すれば、代々の名家の袁氏は多くの味方を集めて挙兵するでしょう」と警告した。
董卓は袁紹を勃海太守に任じ、列侯して恩を売った。(『袁紹伝』)

尚書の周毖や伍瓊は韓馥(かんふく)、劉岱(りゅうたい)、孔伷(こうちゅう)、張咨(ちょうし)、張邈(ちょうばく)らを各地の刺史・太守に推挙したが、190年、挙兵した袁紹に呼応した。
董卓は内通して自分を売ったと思い込み、周毖と伍瓊を処刑した。(『董卓伝』)



伍瓊  周毖の相方


伍瓊(ごけい)字は徳瑜(とくゆ)
豫州汝南郡の人(??~190)

後漢の臣。
同郡出身で字(徳瑜)まで同じ伍孚(ごふ)という人物がおり、裴松之は同一人物かと推測している。(『董卓伝』)
だが死の経緯が全く異なっており、別人として記す。

董卓は少帝を廃そうと考え、袁紹に相談したが逃げられた。
周毖(しゅうひ)・城門校尉の伍瓊・何顒(かぎょう)らは裏で袁紹と内通していたため「袁紹は廃位という大事に関わるのを恐れただけです。下手に賞金首にして刺激すれば、代々の名家の袁氏は多くの味方を集めて挙兵するでしょう」と警告した。
董卓は袁紹を勃海太守に任じ、列侯して恩を売った。(『袁紹伝』)

董卓に人事を任された周毖や城門校尉の伍瓊は、韓馥(かんふく)、劉岱(りゅうたい)、孔伷(こうちゅう)、張咨(ちょうし)、張邈(ちょうばく)らを各地の刺史・太守に推挙したが、190年、彼らは挙兵した袁紹に呼応した。(『董卓伝』)

長安に遷都されると荀攸(じゅんゆう)は鄭泰(ていたい)、何顒、种輯(ちゅうしゅう)、越騎校尉の伍瓊らと董卓暗殺を企んだが、直前に露見し荀攸・何顒は投獄された。(『荀攸伝』)

董卓は内通して自分を売ったと思い込み、周毖と伍瓊を処刑した。(『董卓伝』)



張咨  孫堅に騙し討ちされた南陽太守


張咨(ちょうし)字は子議(しぎ)
豫州潁川郡の人(??~190)

後漢の臣。

董卓に人事を任された周毖(しゅうひ)や伍瓊(ごけい)は、韓馥(かんふく)、劉岱(りゅうたい)、孔伷(こうちゅう)、張咨、張邈(ちょうばく)らを各地の刺史・太守に推挙したが、190年、彼らは挙兵した袁紹に呼応した。(『董卓伝』)

董卓を討つため挙兵した孫堅は、荊州刺史の王叡(おうえい)を殺し兵を奪った。南陽郡に差し掛かった頃には軍勢は数万に膨れ上がったが、太守の張咨は少しも驚かず、悠然と構えていた。
孫堅は彼を表敬訪問し、翌日に張咨も答礼し宴が開かれた。宴もたけなわの頃、孫堅の主簿が現れ「先に南陽郡に使者を送り、道の整備や兵糧の準備を求めましたが、全くできていません。南陽郡の主簿を捕らえて理由を問いただします」と言上した。
張咨は落ち着かなくなり帰ろうとしたが、四方を孫堅の兵に囲まれていた。そこへまた主簿が現れ「張咨は我らを引き止め、賊徒の討伐を引き延ばそうとしているから処刑しましょう」と言った。張咨はすぐさま斬られ、南陽郡は孫堅に屈服した。

次の異説がある。「献帝春秋」に曰く。
袁術は上表し孫堅を仮の中郎将に任じた。
孫堅は南陽郡に差し掛かると太守の張咨に兵糧を求めた。張咨が主簿にどうすべきか聞くと「隣郡の太守に食料調達を行う道理はありません」と言われ、応じなかった。

「呉歴」に曰く。
張咨は孫堅に兵糧を渡さず、面会もしなかった。孫堅は後顧の憂いになると考え、仮病で床に伏すと、張咨に兵を預けたいと使者を送った。
張咨が喜んでやって来ると、孫堅は起き上がって彼を捕らえさせ処刑した。(『孫堅伝』)

袁術は董卓を恐れて都から脱出し、ちょうど孫堅が張咨を殺したため南陽郡に陣取った。(『袁術伝』)

袁術は上表し孫堅に豫州刺史と破虜将軍を与え(後ろ盾となっ)た。(『孫堅伝』)

劉巴(りゅうは)の父の劉祥(りゅうしょう)は孫堅と共闘していたため、張咨を殺した仇討ちとして、南陽郡の官民によって殺された。(『劉巴伝』)



伍孚  董卓暗殺に失敗


伍孚(ごふ)字は徳瑜(とくゆ)
豫州汝南郡の人(??~190)

後漢の臣。
同郡出身で字(徳瑜)まで同じ伍瓊(ごけい)という人物がおり、裴松之は同一人物かと推測している。
だが死の経緯が全く異なっており、別人として記す。

若い頃から節操正しく、汝南郡の門下書佐になった。本籍の村の長が罪を犯したため、太守が伍孚に命令書を出させようとすると「主君が主君に値しなくとも、臣下は臣下でなければなりません。なぜ私にお命じなさるのですか」と地面にひれ伏して諌めた。太守は立派だと考え聞き入れた。
後に大将軍の何進(かしん)に招かれ、東曹の属官を皮切りに侍中・河南尹・越騎校尉と昇進して行った。

董卓が実権を握ると、伍孚は衣の下に小さな鎧を着込み、刀を隠して董卓暗殺を企んだ。
隙を見て襲ったが、武芸に優れた董卓にかわされ、捕らえられた。
董卓が「謀叛するつもりか」と言うと、伍孚は大声で「私はお前の家来ではない。どこが謀叛だ。お前は国家を混乱させ、天子をすげ替え、罪悪は限りない。今日こそ私の死ぬ日だ。お前を車裂きにして天下に謝罪できなかったのが残念だ」と叫び、殺された。(『董卓伝』)