三国志 新規
11/1~11/30

7/4~8/3  8/4~8/19  8/20~9/4  9/5~10/3  10/4~10/31


劉祥  孫堅のとばっちりで死んだ劉巴の父


劉祥(りゅうしょう)字は不明
荊州零陵郡烝陽県の人(??~190)

後漢の臣。
劉巴(りゅうは)の父。

190年、董卓を討つため挙兵した孫堅は、荊州刺史の王叡(おうえい)と南陽太守の張咨(ちょうし)を殺し兵や軍需物資を奪った。(『孫堅伝』)

江夏太守・盪寇将軍の劉祥は孫堅と共闘していたため、張咨を殺した仇討ちとして、南陽郡の官民によって殺された。
荊州牧の劉表(りゅうひょう)は平素から劉祥を嫌っていたため、子の劉巴も殺そうと考え、劉祥の旧臣を刺客に仕立て「劉表から一緒に逃げましょう」と何度も誘わせた。だが罠を見抜いた劉巴は応じず、劉表も諦めた。

「零陵先賢伝」に曰く。
劉巴は荊州から交州に逃れ、さらに益州へ移った。郡太守に捕まり危うく殺されかけたが、主簿が常人ではないと考え、益州牧の劉璋(りゅうしょう)のもとへ送らせた。
劉璋の父の劉焉(りゅうえん)はかつて劉祥に孝廉に推挙されていたため、劉璋は仰天して喜び、劉巴を側近くに置いた。

しかし裴松之は「劉祥が江夏太守の時、劉焉はすでに益州牧で推挙できるわけがない」と矛盾を指摘している。(『劉巴伝』)



陳佐  陳諶の孫の青州刺史


陳佐(ちんさ)字は不明
豫州潁川郡許昌の人(??~??)

魏の臣。
陳諶(ちんしん)の孫。

青州刺史まで上った。

弟の陳坦(ちんたん)は廷尉に、子の陳準(ちんじゅん)は太尉・広陵郡公に、陳戴(ちんたい)と陳徴(ちんちょう)と従弟の陳堪(ちんかん)は郡太守に上った。

陳諶とその兄の陳紀(ちんき)は、二人の父の陳寔(ちんしょく)とともに「三君」と並び称されたが、陳諶の子孫が最も繁栄した。(『陳羣伝』)



陳坦  陳諶の孫の廷尉


陳坦(ちんたん)字は不明
豫州潁川郡許昌の人(??~??)

魏の臣。
陳諶(ちんしん)の孫。

廷尉まで上った。

兄の陳佐(ちんさ)は青州刺史に、甥の陳準(ちんじゅん)は太尉・広陵郡公に、陳戴(ちんたい)と陳徴(ちんちょう)と従弟の陳堪(ちんかん)は郡太守に上った。

陳諶とその兄の陳紀(ちんき)は、二人の父の陳寔(ちんしょく)とともに「三君」と並び称されたが、陳諶の子孫が最も繁栄した。(『陳羣伝』)



袁基  袁紹の兄


袁基(えんき)字は不明
豫州汝南郡汝陽県の人(??~190)

後漢の臣。
袁紹の兄。

189年、董卓は少帝を廃位しようと考え、袁紹に相談した。
袁紹は「重大事なので叔父の袁隗(えんかい)と相談します」と退出し、そのまま冀州へ逃亡した。董卓は少帝を廃し献帝を即位させた。
190年、袁紹は兵を集めて董卓討伐軍を結成したため、董卓は都にいた袁隗ら袁一族を皆殺しにした。(『袁紹伝』)

公孫瓚(こうそんさん)は袁紹と敵対すると、上表してその罪を数え上げ「叔父や兄に連絡せず挙兵したため、袁隗や太僕の袁基は一日で殺された。仁愛も孝心も無い」と非難した。(『公孫瓚伝』)

審配(しんぱい)が袁譚(えんたん)へ出した文書で「袁紹は袁譚を廃嫡し、兄の後を継がせた。袁紹は袁譚を兄の子と呼び、袁譚は袁紹を叔父と呼んだ」とあり、この兄が袁基のことと思われる。(『袁譚伝』)



和离  和洽の子


和离(かり)字は不明
豫州汝南郡西平の人(??~??)

魏の臣。
和洽(かこう)の子。

父が没すると後を継いだ。

弟の和逌(かゆう)が有能で廷尉に上り、その子の和嶠(かきょう)は「晋書」に列伝される名臣となった。(『和洽伝』)



和逌  和洽の詩は苦手な子


和逌(かゆう)字は不明
豫州汝南郡西平の人(??~??)

魏の臣。
和洽(かこう)の子。

父が没すると兄の和离(かり)が後を継いだ。

弟の和逌は抜きん出た才能を持ち、君主を助け人民を救済する功業を立て、廷尉・吏部尚書にまで上った。(『和洽伝』)

257年5月、曹髦は群臣に詩を作るよう命じたが、侍中の和逌や陳騫(ちんけん)は不得手でなかなか出来上がらず、担当官吏は罷免するよう上奏した。
しかし曹髦は「私は文学を愛し、詩賦で政治の得失を認識している。このような揉め事は意図していない。係官は群臣が昔の正しい道理を深く味わい学び、経典を習得できるようせよ」と詔勅を下し、二人を許した。(『高貴郷公紀』)

子の和嶠(かきょう)は「晋書」に列伝される名臣となった。
下の子の和郁(かいく)は名声で劣り兄の和嶠からも軽蔑されたが、公正・剛毅で知られ尚書令まで上った。(『和洽伝』)



圏文生  衛茲のケチな友人


圏文生(けんぶんせい)字が文生か
兗州陳留郡の人(??~??)

後漢の臣?

衛茲(えいじ)は20歳の頃、同郷の圏文生とともに盛徳を称えられた。
郭泰(かくたい)が二人と市場に行った時、衛茲は商品を値段通りに買い、圏文生はケチを付けて値切らせた。
郭泰は「この二人は兄弟というよりも親子だ」と語り、後に圏文生は金銭欲で名声を損ない、衛茲は節義によって名を残した。(『武帝紀』)



仇昭儀  曹霖の母


仇昭儀(きゅうしょうぎ)名は不明
出身地不明(??~??)

曹丕の側室。
昭儀は后妃の位で夫人に次ぐ第2位。(『后妃伝』)

曹霖(そうりん)を生んだ。(『武文世王公伝』)

4代皇帝の曹髦は曹霖の子である。(『東海定王霖伝』)



曹啓  曹霖の子


曹啓(そうけい)字は不明
豫州沛国譙の人(??~??)

曹霖(そうりん)の子。
曹丕の孫にあたる。

父は249年に没し、曹啓が後を継いだ。(『東海定王霖伝』)
「明帝紀」には250年12月27日逝去と記される。(『明帝紀』)

景初年間(237~239)・正元年間(254~256)・景元年間(260~264)の間に何度も加増され、合わせて6200戸になった。(『東海定王霖伝』)



劉煕  劉放の子の(自称)三豫


劉煕(りゅうき)字は不明
幽州涿郡方城の人(??~??)

魏の臣。
劉放(りゅうほう)の子。

曹叡の代に名家の子弟の諸葛誕、夏侯玄(かこうげん)ら12人は自らを「四聡八達」と呼び合った。
衛烈(えいれつ)、劉煕、孫密(そんみつ)ら3人は彼らに及ばなかったが、父の威光もあり「三豫」と呼ばれた。
曹叡は彼ら15人を「軽薄な風潮を助長する」と酷く嫌い、全員を免職にした。(『諸葛誕伝』)

ちなみに衛烈・劉煕・孫密の父の衛臻(えいしん)、劉放、孫資(そんし)は曹爽(そうそう)が専横を極めると揃って官を辞しており、三家の交友が垣間見える。(『衛臻伝』・『劉放伝』)

250年、父が没すると兄弟の劉正(りゅうせい)が後を継いだ。(『劉放伝』)



孫密  孫資の子の(自称)三豫


孫密(そんみつ)字は不明
并州太原郡の人(??~??)

魏の臣。
孫資(そんし)の子。

曹叡の代に名家の子弟の諸葛誕、夏侯玄(かこうげん)ら12人は自らを「四聡八達」と呼び合った。
衛烈(えいれつ)、劉煕(りゅうき)、孫密ら3人は彼らに及ばなかったが、父の威光もあり「三豫」と呼ばれた。
曹叡は彼ら15人を「軽薄な風潮を助長する」と酷く嫌い、全員を免職にした。(『諸葛誕伝』)

ちなみに衛烈・劉煕・孫密の父の衛臻(えいしん)、劉放(りゅうほう)、孫資は曹爽(そうそう)が専横を極めると揃って官を辞しており、三家の交友が垣間見える。(『衛臻伝』・『劉放伝』)

250年、父が没すると兄弟の孫宏(そんこう)が後を継いだ。(『孫資伝』)



衛京  衛臻の子


衛京(えいけい)字は不明
兗州陳留郡襄邑の人(??~??)

魏の臣。
衛臻(えいしん)の子。

父が没すると兄の衛烈(えいれつ)が後を継いだ。
弟の衛京、衛楷(えいかい)は太守に上った。(『衛臻伝』)



衛楷  衛権の父


衛楷(えいかい)字は不明
兗州陳留郡襄邑の人(??~??)

魏の臣。
衛臻(えいしん)の子。

父が没すると兄の衛烈(えいれつ)が後を継いだ。
弟の衛京(えいけい)、衛楷は太守に上った。

子の衛権(えいけん)は司馬亮(しばりょう)の甥にあたり(※衛楷の妹が司馬亮の妻)尚書郎・東宮の属官となったが、傅咸(ふかん)に「属官にするのは越権である」と批判された。(『衛臻伝』)



衛権  裴松之に注を酷評される


衛権(えいけん)字は伯輿(はくよ)
兗州陳留郡襄邑の人(??~??)

魏の臣。
衛楷(えいかい)の子。衛臻(えいしん)の孫にあたる。

衛権は司馬亮(しばりょう)の甥にあたり(※衛楷の妹が司馬亮の妻)尚書郎・東宮の属官となったが、傅咸(ふかん)に「文才があり、あなたの甥ですから尚書郎にするのは当然です。しかし楊駿(ようしゅん)が政治を壟断し、人材起用の道を閉ざしたように、属官にするのは越権です。たとえば一匹の犬が人に吠えると、他の犬も一斉に吠え始めます。群犬に吠えられるのを恐れれば、結局は考えを変えることになります」と批判された。

左思(さし)がいわゆる「洛陽の紙価を高める」と、衛権は「呉都の賦」の叙と注を作った。
しかし裴松之は「叙はなんとか文彩があるが、注には全然新しい見解がない。ただ紙と墨を無駄にしただけで、後世に伝えるべきではない」と酷評した。(『衛臻伝』)



甘皇后  劉備の古女房


甘皇后(かんこうごう)名は不明
豫州沛国の人(??~??)

劉備の側室。
劉禅の母。
「夔州府志」によると名は甘梅(かんばい)。

194年、劉備が豫州刺史として小沛に赴任すると側室に迎えられた。
劉備はたびたび正室を失っており、甘夫人は正室に昇格することこそ無かったが、奥向きのことは彼女が取り仕切った。(『甘皇后伝』)

207年、劉禅が生まれた。(『後主伝』)
翌208年、長坂の戦いで劉備は曹操に撃破され、甘夫人と劉禅は置き去りにされたが、趙雲に守られ無事だった。

没年は不明だが荊州南郡に埋葬された。
222年に皇思夫人(こうしふじん)と諡して益州へ移葬が決まった。しかしその途上で劉備が没してしまった。
諸葛亮は頼恭(らいきょう)らと討議し「夫人は品行うるわしく仁徳を修め、その身を慎まれるしとやかな方でした。皇帝(劉備)は移葬を命じたが到着前に崩御された。昭烈皇后(しょうれつこうごう)と諡し皇帝とともに葬りましょう」と上奏し、その通りに詔勅が下された。(『甘皇后伝』)

なお「昭烈」は劉備の諡号で、甘夫人の諡号は無く、単に甘皇后と記される。

「演義」では出番が多く、劉備が呂布や曹操に本拠地を奪われるたびに捕虜にされる。いわゆる関羽千里行で護衛されていた夫人も彼女である。

余談だがwiki等で没年は209年頃と書かれるが、その根拠として「劉備は夫人をすべて失ったため孫夫人(孫尚香)を正室に迎えた」とされることが多い。しかし正史に夫人を全て亡くした記述はなく、そもそも甘夫人は側室なので、存命でも孫夫人を正室に迎えられる。
「演義」は甘夫人の没年を209年頃、「吉川三国志」は甘夫人を正室と設定しており、それを誤認したのではなかろうか。
従って甘夫人の没年は長坂の戦いの208年から、埋葬された荊州南郡が劉備の支配下にあった219年まで(※214年の益州制圧後なら益州に埋葬されるだろうから214年までが妥当だが、劉備と不仲ならありえなくない)幅広く取れる。
一つ気になったのが甘夫人の移葬が決まった222年はすでに南郡は呉に奪われていたはず。
もしや夷陵の戦いで劉備はいったん南郡までは奪回し、甘夫人の遺体を取り戻して移葬を命じたということか?



頼恭  零陵の名族


頼恭(らいきょう)字は不明
荊州零陵郡の人(??~??)

蜀の臣。

荊州の名族と「季漢輔臣賛」の注に記される。(『楊戯伝』)

交州刺史の張津(ちょうしん)が部下に殺されると、荊州牧の劉表(りゅうひょう)は頼恭を後任に据えた。だが同時に蒼梧太守に任じられた呉巨(ごきょ)と仲違いし、攻撃され零陵へ逃げた。(『士燮伝』)

薛綜(せつそう)はその経緯について「頼恭は年配で仁愛があり慎み深かったが、時事に通じていなかった。呉巨は勇猛な武人で、頼恭はその指図に従わず衝突した」と語った。(『薛綜伝』)

208年、劉備が零陵を制圧した際に傘下に入ったと思われる。

219年、劉備を漢中王に推挙する上表に鎮遠将軍として連名した。(『先主伝』)
即位した劉備は頼恭を太常に任じた。(『楊戯伝』)

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に太常として連名した。(『先主伝』)

222年、劉備が没すると、諸葛亮と討議し甘皇后(かんこうごう)に昭烈皇后(しょうれつこうごう)と諡し、劉備と合葬した。(『甘皇后伝』)

子の頼広(らいこう)は諸葛亮に見込まれたが若死にし、大いに嘆かれた。

陳寿は事績が残っていないため伝を立てなかったと「季漢輔臣賛」の注に記した。(『楊戯伝』)



呉巨  頼恭を追い出すも歩隲に暗殺される


呉巨(ごきょ)字は不明
荊州長沙郡の人(??~210?)

劉表(りゅうひょう)の臣?

交州刺史の張津(ちょうしん)が部下に殺されると、荊州牧の劉表は頼恭(らいきょう)を後任に据えた。だが同時に蒼梧太守に任じられた呉巨と仲違いし、頼恭は攻撃され零陵へ逃げた。(『士燮伝』)

薛綜(せつそう)はその経緯について「頼恭は年配で仁愛があり慎み深かったが、時事に通じていなかった。呉巨は勇猛な武人で、頼恭はその指図に従わず衝突した」と語った。(『薛綜伝』)

「江表伝」に曰く。
208年、曹操が荊州を制圧すると、それに対抗するため孫権は魯粛(ろしゅく)に劉備との同盟締結を命じた。
魯粛が探りを入れると、劉備は「昔なじみの呉巨に身を寄せるつもりだ」と語ったが、魯粛に説得され孫権と同盟した。(『先主伝』)

210年、孫権は歩隲(ほしつ)を交州刺史に任命した。
呉巨は表面的には孫権の支配下にあったが、野心を抱いていた。歩隲は丁重に礼を取って懐柔し、会談に招いて呉巨を暗殺した。これにより歩隲の威声は周辺に轟いた。(『歩隲伝』)



頼広  諸葛亮に惜しまれた頼恭の子


頼広(らいこう)字は不明
荊州零陵郡の人(??~??)

蜀の臣。
頼恭(らいきょう)の子。

諸葛亮に見込まれ丞相西曹令史となり、漢中に出征したが若死にした。
諸葛亮は蔣琬(しょうえん)と張裔(ちょうえい)に手紙を送り「頼広と楊顒(ようぎょう)を失い朝廷の損失は多大だ」と嘆いた。(『楊戯伝』)



張裔  公平ではないが有能


張裔(ちょうえい)字は君嗣(くんし)
益州蜀郡成都の人(166~230)

蜀の臣。

「春秋公羊伝」を学び、広く「史記」と「漢書」を読んだ。
許靖(きょせい)は彼と知り合うと、実務の才があり頭の回転が早いと、友人の鍾繇(しょうよう)になぞらえた。
益州牧の劉璋(りゅうしょう)に孝廉に推挙され、魚腹県長、益州従事・帳下司馬を歴任した。

213年、益州に侵攻した張飛と戦うも敗北した。
翌年、劉璋が降伏する際には使者を務め、巴郡太守・司金中郎将に任じられ、農具と武器の製造を司った。(『張裔伝』)

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に偏将軍として連名した。(『先主伝』)

先に益州郡では反乱が起こり、太守の正昴(せいこう)が殺害された。当地の豪族の雍闓(ようがい)が呉と通じ勢力を広げていたため、張裔は後任の益州太守として赴任したが、捕らえられた。
雍闓は神託を信じ「張裔は外見は光沢があるが、中身は粗雑で殺すまでもない」と言い、呉へ送還した。

223年、蜀と呉が同盟締結する際に、諸葛亮は使者の鄧芝(とうし)に、張裔の身柄を引き取ってくるよう命じた。
張裔は呉に送還されてから各地を転々としており、孫権はまだ引見していなかったので快諾し、帰国させる前に会った。
孫権が蜀の故事を引きからかうと、張裔は呉の故事を引いて言い返した。さらに孫権が「君は蜀で登用されるだろうが、私にはどんな恩返しをしてくれるのか」と問うと「私は罪人として帰るのですから役人に命を預けます。もし生きながらえたら、これまでの58年間は父母にもらいましたから、以後は大王(孫権)にもらったと思います」と返した。
孫権は上機嫌で送り出したが、内心では張裔の頭脳に舌を巻き、ただで帰すのは惜しいと考えた。
張裔も愚者のふりをすれば良かったと後悔しつつも、全速力で逃げた。はたして孫権は追跡させたが追いつけなかった。

帰国後、諸葛亮は張裔を参軍に任じ軍府の事務を任せ益州治中従事を兼務させた。(『張裔伝』)

227年、諸葛亮は北伐を前に張裔か向朗(しょうろう)のどちらかを留府長史にさせたいと考え楊洪(ようこう)に相談した。
楊洪は「張裔は天性の明晰な判断力を持ち、激務の処理を得意としますが、公平ではありません。裏表の少ない向朗の下につければ一挙両得でしょう」と進言した。
若い頃から張裔と楊洪は親しかったが、張裔が呉の捕虜になっていた時、過失を犯した子の張郁(ちょういく)を弁護してやらず、帰国後にそれを聞いた張裔は恨みに思っていた。
楊洪は諸葛亮にした進言を張裔に伝えたが「公(諸葛亮)は私を長史に選ぶ。君には止められない」と言われた。(『楊洪伝』)

結局、向朗が長史に選ばれた。(『向朗伝』)

人々は楊洪が長史になりたがっていて、張裔の就任を邪魔したのではないかと疑った。
だが後に張裔は岑述(しんじゅつ)とも諍いを起こした。
非は張裔にあり、諸葛亮は彼へ「益州侵攻の際、あなたが張飛に敗れた時に私は心配して食事の味もしなかった。呉に送還された時も眠れなかった。あなたとは金石のような堅い友情を結んだつもりなのに、私が岑述へ期待を掛けただけのことを、なぜ我慢できないのだ」と苦言を呈した。
人々は楊洪に私心は無いと悟った。(『楊洪伝』)

228年、向朗は馬謖をかばったかどで免官された。(『向朗伝』)
張裔は射声校尉・留府長史を務めた。(※向朗の後任だろう)(『張裔伝』)
同年、姜維が魏から降伏すると、諸葛亮は張裔と蔣琬(しょうえん)へ「李邵(りしょう)や馬良(ばりょう)も及ばない逸材だ。主上(劉禅)へお目通りさせてもらいたい」と頼んだ。(『姜維伝』)

また頼広(らいこう)が若くして没した時は、二人へ「頼広と楊顒(ようぎょう)を失い朝廷の損失は多大だ」と嘆いた。(『楊戯伝』)

諸葛亮を「恩賞を与える際は遠くの者を忘れず、刑罰を与える際は身分を問わない。だから賢者も愚者も我を忘れて努力するのだ」と称えた。
翌年、諸葛亮に合流する際には見送りが数百人いた。張裔はいつもユーモアある言葉がすらすら出て、この時も親しい人へ「旅行に出ましたが接待で息つく暇もありません。人々は丞相長史を尊敬なさるが、私はそのお付きで疲労のあまり息も絶え絶えです」と話した。
後に輔漢将軍を加官されたが、長史は兼務し続けた。

若い頃の友人の楊恭(ようきょう)が亡くなると、幼い遺児を養育し、自分の母のように楊恭の母に仕えた。遺児が成長すると嫁を探し、田畑と家を買い与えた。他にも没落した親類を援助してやるなど善行に励んだ。

230年に没した。享年65。(『張裔伝』)
同年、張裔の同僚として丞相府の事務を仕切っていた蔣琬が後任の長史となった。(『蔣琬伝』)

子の張毣(ちょうぼく)が後を継ぎ、後に三郡の守監軍を歴任した。
下の子の張郁は太子中庶子に上った。(『張裔伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「聡明で機敏さと慈愛を併せ持ち、将来への理想を騙り、身近の疑問にもきちんと答え、立派な時代の一翼を担い、我が国を和合させた」と評した。(『楊戯伝』)

陳寿は「明敏にして場面に応じて見事に対応した。記録に値する人物である」と評した。

「演義」にも登場するがほぼ名前のみである。



楊顒  たとえ話で諸葛亮を謝らせる


楊顒(ようぎょう)字は子昭(ししょう)
荊州の人(??~??)

蜀の臣。
楊儀(ようぎ)の一族。

214年、劉備が益州を制圧すると巴郡太守となり、諸葛亮の主簿を務めた。
ある時、諸葛亮が自ら金銭や穀物の出納帳を調べていると、楊顒はずかずかと部屋に入ってきて次のように諫言した。
「行政には役割があり、それを侵犯してはいけません。一家にたとえれば、奴隷が耕作し、下女が炊事をし、鶏が朝を告げ、犬が盗人に吠え、牛が荷を背負い、馬が人を運べば、各人の仕事に空白はなく、全てが充足します。
ところが主人がそれらを全て自分で行えば、疲労困憊し結局なにもできません。それは主人が奴婢や鶏や犬に劣っているからではなく、一家の主人としての道に反しているからです。(※故事を引き)先人も自分の職務だけに集中しました。公(諸葛亮)は手ずから出納帳まで調べ一日中汗を流していますが、あまりにも労働過重です」
諸葛亮は陳謝した。

楊顒は後に東曹属となり官吏の選考を司った。
没すると諸葛亮は3日間泣き続けた。
そして蔣琬(しょうえん)と張裔(ちょうえい)に手紙を送り「頼広(らいこう)と楊顒を失い朝廷の損失は多大だ」と嘆いた。(『楊戯伝』)



正昴  雍闓に殺された益州太守


正昴(せいこう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

益州太守を務めたが、当地の豪族の雍闓(ようがい)らによって殺害された。
雍闓は交州を支配する士燮(ししょう)を通じて呉へ内通し、後任の太守の張裔(ちょうえい)も捕らえ、呉へ送還した。(『歩隲伝』・『張裔伝』)

以後、庲降都督は任地に赴任できず平夷県に留まっていたが、233年に就任した馬忠(ばちゅう)は蛮族の支配圏の味県に陣取り、制圧に成功した。(『馬忠伝』)



向朗  悠々自適の晩年


向朗(しょうろう)字は巨達(きょたつ)
荊州襄陽郡宜城県の人(??~247)

蜀の臣。

家柄は低く、早くに父を亡くし二人の兄に育てられた。
若い頃は司馬徽(しばき)に師事し、徐庶(じょしょ)、韓嵩(かんすう)、龐統と親しかった。
広く学問を修めたが品行は整えず、実務能力の高さで評判を得た。

荊州牧の劉表(りゅうひょう)に臨沮県長に任じられた。
208年、劉表が没すると劉備に仕え、四県の統治を任された。
214年、劉備が益州を制圧すると巴西、牂牁、房陵ら三郡の太守を歴任した。
223年、劉禅が即位すると歩兵校尉となった。後に王連(おうれん)の後任として丞相長史を務めた。(『向朗伝』)

廖立(りょうりつ)は地位に不満を抱き、劉備や関羽すら批判し免職されたが、向朗も「平凡な人間で、馬良(ばりょう)兄弟を聖人と思っていたほどだから、道理に合うことはできず長史は務まらない」とこき下ろした。(『廖立伝』)

225年、諸葛亮が南征の際には丞相府の仕事を取り仕切った。(『向朗伝』)

227年、諸葛亮は北伐を前に張裔(ちょうえい)か向朗のどちらかを留府長史にさせたいと考え楊洪(ようこう)に相談した。
楊洪は「張裔は天性の明晰な判断力を持ち、激務の処理を得意としますが、公平ではありません。裏表の少ない向朗の下につければ一挙両得でしょう」と進言した。
人々は楊洪は自身が長史になりたいから張裔の足を引っ張ったのではと勘ぐったが、後に張裔が別の者と諍いを起こすと、楊洪の眼力の確かさを称えた。(『楊洪伝』)

227年、北伐に随行し漢中に赴いた。
(228年、街亭の戦いで敗れると?)馬謖(ばしょく)は逃亡し、友人の向朗はそれを黙認した罪により免職された。
(※馬謖は馬良の弟であり、くしくも廖立の予言が的中した形になる)

数年後、光禄勲に復帰した。
234年、諸葛亮が没すると左将軍となり、功績を採り上げられ顕明亭侯に封じられ特進を授かった。(『向朗伝』)

238年、詔勅により張皇后(ちょうこうごう)へ皇后の璽綬を、劉璿(りゅうせん)へ皇太子の印綬を授けた。(『張皇后伝』・『劉璿伝』)

免職となってからは名誉職だったようで、没するまで20年近くは学問に励み悠々自適の日々を送った。
80歳を超えても書物を集め研究を続け、当時に並ぶ者がなかった。
賓客や子弟に講義をしたが、古義を説くのみで時事は語らず、かえって評価を受けた。上は官僚から下は子供まで広く慕われた。

247年に没し、春秋左氏伝を引き「ただ貧乏なだけで、貧乏は人間にとって悩みではない。ただ和を尊重し努力せよ」と遺言した。

子の向条(しょうじょう)も博識で御史中丞に上り、晋でも江陽太守・南中軍司馬を務めた。
甥の向寵(しょうちょう)は諸葛亮に出師表で「軍事のことは全て彼に諮問してください」と託されるほどの人物だったが、向朗より早く240年に蛮族と戦い討ち死にした。
その弟の向充(しょうじゅう)は尚書に上った。(『向朗伝』)

陳寿は「学問を好んで倦むこと無く、記録に値する人物である」と評した。

「演義」では関羽の補佐を務めたと記されるだけで出番はない。



張郁  張裔を逆恨みさせた下の子


張郁(ちょういく)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。
張裔(ちょうえい)の子。

父は益州太守の時、当地の豪族の雍闓(ようがい)に捕らえられ、呉へ送還された。(『張裔伝』)

張郁は父の友人で蜀郡太守の楊洪(ようこう)のもとで郡吏を務めたが、過失を犯し処罰された。
223年、蜀と呉が同盟し、帰国した張裔はこの話を聞き、弁護しなかった楊洪を恨んだ。

227年、諸葛亮は北伐を前に張裔か向朗(しょうろう)のどちらかを留府長史にさせたいと考え楊洪に相談した。
楊洪は「張裔は天性の明晰な判断力を持ち、激務の処理を得意としますが、公平ではありません。裏表の少ない向朗の下につければ一挙両得でしょう」と進言した。
楊洪は諸葛亮にした進言を張裔に伝えたが「公(諸葛亮)は私を長史に選ぶ。君には止められない」と言われた。(『楊洪伝』)

結局、向朗が長史に選ばれた。(『向朗伝』)

人々は楊洪は自身が長史になりたいから張裔の足を引っ張ったのではと勘ぐったが、後に張裔が別の者と諍いを起こすと、楊洪の眼力の確かさを称えた。(『楊洪伝』)

230年、父が没すると兄の張毣(ちょうぼく)が後を継ぎ、後に三郡の守監軍を歴任した。
張郁は太子中庶子に上った。(『張裔伝』)



岑述  張裔に絡まれた司塩校尉


岑述(しんじゅつ)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

司塩校尉を務めた。
張裔(ちょうえい)と諍いを起こし、仇敵の間柄となった。
非は張裔にあり、諸葛亮は彼へ「あなたとは金石のような堅い友情を結んだつもりなのに、私が岑述へ期待を掛けただけのことを、なぜ我慢できないのだ」と苦言を呈した。(『張裔伝』)



李邵  李氏の三龍・目立つ弟


李邵(りしょう)字は永南(えいなん)
益州広漢郡郪県の人(??~225)

蜀の臣。

214年、劉備が益州を制圧すると州の書佐部従事に任じられた。
223年、諸葛亮に招かれ西曹掾となった。(『楊戯伝』)

廖立(りょうりつ)は地位に不満を抱き、丞相掾の李邵と蔣琬(しょうえん)に意見を述べ、劉備や関羽すらこき下ろした。
李邵・蔣琬はすぐに諸葛亮に伝え、廖立は免職のうえ庶民に落とされた。(『廖立伝』)

224年、諸葛亮は杜微(とび)を招聘した。耳の聴こえない彼のため諸葛亮は手紙を送り、その中で「李邵兄弟らもあなたの高邁な志に感嘆しています」と記した。(『杜微伝』)

225年、諸葛亮は南征に際し治中従事に任じ留守を命じたが、同年に没した。(『楊戯伝』)

228年、姜維が魏から降伏すると、諸葛亮は張裔(ちょうえい)と蔣琬へ「李邵や馬良(ばりょう)も及ばない逸材だ。主上(劉禅)へお目通りさせてもらいたい」と頼んだ。(『姜維伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「思慮深く心映えの良い、蜀の誉れとなる人々である」と評した。

兄の李朝(りちょう)と夭折した兄弟(※名は不詳)も名声高く、人々は「李氏の三龍」と称えた。
もうひとり李邈(りばく)という兄もいるが、彼は諸葛亮の死を喜ぶ上表をして、父をこき下ろした廖立さえ許した劉禅をブチギレさせ、即刻処刑された人物で、裴松之は「李邈の度外れな率直さは三龍に入れられない」と皮肉っている。(『楊戯伝』)



楊恭  張裔に遺児を養育される


楊恭(ようきょう)字は不明
益州犍為郡の人(??~??)

張裔(ちょうえい)の友人。

張裔と親しくしたが若死にし、遺児は数歳にもならなかった。張裔は遺児を引き取って家に住まわせ、自分の母のように楊恭の母に仕えた。遺児が成長すると嫁を探し、田畑と家を買い与えた。(『張裔伝』)



張毣  張裔の子


張毣(ちょうぼく)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。
張裔(ちょうえい)の子。

230年、父が没すると後を継ぎ、後に三郡の守監軍を歴任した。
弟の張郁(ちょういく)は太子中庶子に上った。(『張裔伝』)



楊戯  「季漢輔臣賛」を著す


楊戯(ようぎ)字は文然(ぶんぜん)
益州犍為郡武陽県の人(??~261)

蜀の臣。

若い頃は程祁(ていき)、楊汰(ようたい)、張表(ちょうひょう)と並び称された。楊戯はいつも程祁を筆頭と推していたが、諸葛亮は楊戯を評価していた。
20余歳で州の書佐から督軍従事となって裁判を司り、公平妥当とうたわれた。諸葛亮に召されて丞相府の主簿になった。

234年、諸葛亮の没後には尚書右選部郎に任命されたが、諸葛亮の後継者の蔣琬(しょうえん)に請われ治中従事史になった。
蔣琬が大将軍に上るとその府の東曹掾に召された。(『楊戯伝』)

楊戯は大まかな性格で、議論中でさえ蔣琬に返事をしないことがあった。ある人が彼を陥れようと態度の悪さを訴えると、蔣琬は「人の心は顔と同じようにそれぞれ違う。表では従い、裏で文句を言うのは古人も戒めている。楊戯は私の意見に賛成すれば本心を偽り、反対すれば私の非を明らかにすると考え、黙っているのだ。むしろさわやかな態度である」と弁護した。(『蔣琬伝』)

以後も南中郎参軍、庲降都督の副将・兼建寧太守を歴任し、病気になると都に召還され護軍監軍、梓潼太守、射声校尉と重職を歴任した。いずれも清潔かつ簡約で細かいことにこだわらなかった。

怠惰で仕事も適当に手を抜く性分だったが、公正で他人に取り入らず、ひいきもしなかった。
仕事で指示を与える時は、細々と書かず一枚の紙ですら紙面が余った。
旧知の者への友愛は固く、幼馴染の韓儼(かんげん)や黎韜(れいとう)は重病や身持ちの悪さで誰からも見捨てられたが、楊戯だけは昔通りの友情を示した。
低評価されていた譙周(しょうしゅう)も楊戯だけが「我らの子孫は結局このノッポ(※譙周)に劣るだろう」と称賛した。後に譙周が頭角を現すと楊戯の評価も上がった。
かつて並び称された程祁・楊汰・張表はいずれも先に没した。

241年、「季漢輔臣賛」を著し、蜀を支えた故人を顕彰した。
陳寿はこれを正史に全文掲載するとともに補足しており、史官を置かず記録の乏しい蜀書を補うとともに、故国の先人達への敬意を表したと考えられている。

257年、姜維の北伐に従軍した。
平素から彼に心服していなかったため、楊戯は酒が入ると嘲笑した。姜維は寛大な態度を取ったが内心では嫌悪し、心中を察した官吏によって楊戯は上訴され、免官のうえ庶民に落とされた。
261年に没した。(『楊戯伝』)

陳寿は「人の優れた点を見出すため人物評定を行った。しかし智慧には欠陥があり、危うく災難にかかるところだった」と評した。

「演義」には登場しない。



韓嵩  裏切ったのはあなたです


韓嵩(かんすう)字は徳高(とくこう)
荊州南陽郡の人(??~??)

劉表(りゅうひょう)の臣。
「後漢書」には南陽郡の人、注に引く「先賢行状」には義陽郡の人と記される。(『後漢書 劉表伝』)

若い頃から学問を好み、貧乏にもめげなかった。(『劉表伝』)
向朗(しょうろう)は司馬徽(しばき)に師事し、徐庶(じょしょ)、韓嵩、龐統と親しかった。(『向朗伝』)

乱世の到来を悟り、三公からの招聘に応じず山中に隠れ住み、黄巾の乱が起こると南方へ疎開した。
荊州牧の劉表に迫られて別駕となり、従事中郎に転じた。
劉表が天子にのみ許される、天地を祀る儀式を行った時、それを諌めたため疎まれるようになった。

200年、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、劉表はどちらにも与せず中立を決め込んだ。韓嵩は劉先(りゅうせん)とともに「両雄が対峙していますが、趨勢を決するのはあなたです。決起して双方を攻めるか、どちらに与するか態度をはっきりしてください。中立のままでは、勝者に恨まれます。我々の見たところ曹操が勝ちます。そして荊州に攻め寄せてきたら防げません。急ぎよしみを通じるべきです」と進言した。
蒯越(かいえつ)も同意すると劉表は重い腰を上げ、韓嵩を都に使者として送り、情報収集させた。
韓嵩は出立前に「私は主君のために命を懸けますが、もし天子から官位を与えられれば、主君は天子に変わります。そうなればあなた(劉表)のために死ねません。どうかそれを忘れ私を裏切らないでください」と念を押した。韓嵩は案の定、侍中・零陵太守に任じられた。
帰国した韓嵩は朝廷と曹操を讃え、人質を送るよう進言したため、劉表は「よくも裏切ったな」と激怒し彼を殺そうとした。
韓嵩は全く動じず「裏切ったのはあなたです」と言い、出立前の約束を繰り返した。
劉表の怒りは収まらなかったが、妻の蔡氏(さいし)が「韓嵩は名声高く、彼の言葉も正しい」と擁護したため、処刑せず拘禁に留められた。

208年、劉表が病没し、曹操の大軍が荊州に迫った。
後を継いだ劉琮(りゅうそう)へ、韓嵩は蒯越・傅巽(ふそん)とともに降伏を勧めた。劉琮はなおも逡巡したが、傅巽に説得され降伏した。(『劉表伝』)
曹操は韓嵩を牢獄から解放させ、配下ではなく交友の礼をもって迎えた。荊州の人材の評価を聞き、それを参考に登用した。(『後漢書 劉表伝』)
韓嵩は(獄中生活の影響か)床から起き上がれず、病床で大鴻臚に任じられた。(『劉表伝』)



王連  丞相の南征ダメ絶対


王連(おうれん)字は文儀(ぶんぎ)
荊州南陽郡の人(??~??)

蜀の臣。

劉璋(りゅうしょう)の代(※194年に後継)に益州に移住し梓潼県令に任じられた。
212年、益州に侵攻した劉備の軍が梓潼に迫ると、王連は降伏せず籠城した。義を感じた劉備はあえて攻めず、214年に劉璋が降伏すると王連も軍門に下った。

什邡県令、広都県令を歴任し治績をあげた。司塩校尉になり鉄と塩の管理を担当すると、専売で莫大な利益を上げ国庫を潤した。さらに呂乂(りょがい)、杜祺(とき)、劉幹(りゅうかん)らを抜擢し、後にみな出世した。蜀郡太守・興業将軍に昇進した後も、鉄と塩の管理を任された。(『王連伝』)

廖立(りょうりつ)は地位に不満を抱き、劉備や関羽すら批判し免職されたが、王連も「俗人が卑しくも偉そうな顔をして民衆を疲弊させた結果、今日の事態を招いたのだ」とこき下ろした。(『廖立伝』)

223年、屯騎校尉と丞相長史を兼務し、平陽亭侯に封じられた。
当時、南中で反乱が起こっていたため諸葛亮は自ら南征に赴こうとしたが、王連は「不毛で風土病の蔓延する危険な土地に、一国を担う方が行くべきではない」と敢然と反対した。
諸葛亮は他に南征を任せられる者がおらず、決心を曲げなかったが、王連が口を開くたびに取りやめるよう懇願したため出征できなかった。
結局、南征に出られたのは王連の死後(※225年)だった。(『王連伝』)

224年、諸葛亮は杜微(とび)を招聘した。耳の聴こえない彼のため諸葛亮は手紙を送り、その中で「王連らもあなたの高邁な志に感嘆しています」と記した。(『杜微伝』)

向朗(しょうろう)が後任の丞相長史となった。(『向朗伝』)
子の王山(おうさん)が後を継ぎ江陽太守にまで上った。(『王連伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「節操固く心変わりしなかった。蜀に仕えてからは世の規範となるよう心を尽くし、軍需担当として頼みにされ、よく任務を遂行した」と評した。(『楊戯伝』)

陳寿は「節義を貫いて心変わりしない、記録に値する人物である」と評した。