三国志 新規
1/1~1/31

10/4~10/31  11/1~11/30  12/1~12/31


任安  杜微・杜瓊・何宗の師


任安(じんあん)字は定祖(ていそ)
益州広漢郡綿竹県の人(124~202)

隠者。

若い頃は太学で孟子を学び、いくつかの経書にも通じた。
さらに同郡の楊厚(ようこう)に図讖(予言)を学び、その術を究めた。
当時の人々は「楊厚を知りたければ任安に問え」や「今の世で古を行うのは任安」と称えた。(『後漢書 儒林伝』)
同門の董扶(とうふと学問・品行において同等の名声を博し、周舒(しゅうじょ)が二人に次いだ。(『秦宓伝』・『周羣伝』)

故郷に帰り教鞭をとると、遠方から多くの弟子が押し寄せた。(『後漢書 儒林伝』)
杜微(とび)や杜瓊(とけい)、何宗(かそう)も若い頃に任安に師事した。(『杜微伝』・『杜瓊伝』・『楊戯伝』)

はじめは州郡に仕官したが、後に官を辞すと、太尉からの2度の招聘や博士への任命など、全て病気と称して断った。(『後漢書 儒林伝』)
秦宓(しんふく)は益州牧の劉焉(りゅうえん)へ彼を朝廷に推挙するよう勧めたが、その上奏は戦乱のため都に届かなかった。

202年に79歳で没した。
門下生は師のために碑銘を建てた。

後に諸葛亮が秦宓へ、任安の優れた点を尋ねると「ひとの善事を記憶し、ひとの過失を忘れることです」と答えた。(『秦宓伝』)



劉琰  劉禅をブチギレさせた男


劉琰(りゅうえん)字は威碩(いせき)
豫州魯国の人(??~234)

蜀の臣。

194年、劉備が豫州刺史になった頃に従事に招かれた。
同姓で雅な心があり、談論を愛好したため厚遇され、常に賓客として側近くに仕えた。

214年、劉備が益州を制圧すると固陵太守に任命された。
223年、劉禅が即位すると都郷侯に封じられ、席次は常に李厳(りげん)に次いだ。衛尉・中軍師・後将軍に任命され、車騎将軍に上ったが、国政には参与せず、1千程の兵を持ち、諸葛亮のそばで議論に加わるだけだった。
贅沢を好み、歌や音楽に巧みな数十人の侍婢を連れていた。

223年、魏延と不仲になり、でまかせを吐いたため諸葛亮に詰問された。劉琰は「私は素行が悪く酒乱でたびたび物議を醸していますが、先帝やあなたに助けられ今日に至りました。先日は泥酔し誤ったことを申しましたが、司直に委ねず大目に見ていただきました。しかし反省すると神明に誓ったとしても、御恩に報いる術がないと困ります」と弁解(弁解?)した。
諸葛亮は彼を成都に帰したが、官位はそのままにしてやった。(『劉琰伝』)

231年、李厳(りげん)の罷免を求める文書に行中軍師・車騎将軍・都郷侯として連名した。(『李厳伝』)

失脚した劉琰は希望を失いぼんやりと日々を送っていた。
234年正月、妻の胡氏(こし)が年賀の挨拶に出向くと、穆太后(ぼくたいこう)は彼女を宮中に1ヶ月留め置いた。
胡氏は美人だったため、劉琰は彼女が劉禅と密通したとあらぬ疑いを掛け、吏卒に命じて鞭打たせた。さらに自ら草履で顔を殴って離縁を言い渡した。
胡氏が事細かに告訴したため、劉琰は投獄された。司直は「吏卒は主君の妻を鞭打つべきではないし、顔は草履を受ける場所ではない」ともっともな意見を具申し、劉琰は公開処刑された。
その後、(誤解を避けるため)大官の妻や母が参内する風習は絶えた。(『劉琰伝』)

陳寿は「古くから仕え尊重されたが、災いを招き罪を得たのは、全て身から出た錆である」と評した。

劉禅と諸葛亮は北伐軍を身勝手な理由で撤退させた李厳や、劉備を罵倒した廖立(りょうりつ)さえ殺していないが、劉琰は容赦なく処刑しており、その怒りのほどがうかがい知れる。
だが「演義」では劉琰の処刑は蜀の滅亡直前の出来事にされ、劉禅の暗愚ぶりを示す逸話にアレンジされてしまった。



董扶  劉焉に益州入りを勧める


董扶(とうふ)字は茂安(ぼうあん)
益州広漢郡の人(??~??)

劉焉の臣。

若い頃に多くの経書を学び、特に尚書学に通じた。
さらに楊厚(ようこう)に図讖(予言)を学び、その奥義を究めた。
都の太学で学び、故郷に帰り教鞭をとると、遠方から多くの弟子が押し寄せた。(『劉焉伝』)

同門の任安(じんあん)と学問・品行において同等の名声を博し、周舒(しゅうじょ)が二人に次いだ。(『秦宓伝』・『周羣伝』)

167年、日食を機に桓帝が賢者を募ると、趙謙(ちょうけん)は董扶を推挙した。だが病気を理由に都に上がらず、長安から意見書を出しただけで、重病になったと称して帰郷した。
宰相の役所から10回、朝廷から公車で迎えられること3回、賢者や博士に2回招かれたが全て断り、大いに名声を高めた。

大将軍の何進(かしん)に推挙され、霊帝の招きに応じ侍中となった。朝廷では儒宗と仰がれ、その識見を称えられた。
その頃、劉焉(りゅうえん)は後漢の衰退を感じ、地方の長官に赴任したいと考えていた。はじめは交阯(交州)を望んでいたが、董扶に「都は今まさに乱れようとし、益州には天子の気があります」と勧められ、益州へ希望を変えた。
当時、益州刺史の郤倹(げきけん)は悪評高く、并州・涼州の刺史が相次いで殺害されたこともあり、劉焉の願いは叶い益州牧として赴任した。

188年、董扶も希望して益州蜀郡の属国都尉に赴任した。
益州では彼と対等に議論できる者はおらず、彼が至れば議論が止むことから「至止」と呼ばれた。
翌年に霊帝が崩御し、董卓の専横により天下は大混乱に陥った。
董扶は後に官を辞して帰郷し、82歳で没した。

後に諸葛亮が秦宓(しんふく)へ、董扶の優れた点を尋ねると「毛筋ほどの善を賞賛し、けしつぶほどの悪を非難しました」と答えた。(『劉焉伝』)

陳寿は「劉焉伝」の評で「天命はみだりに願ってはならないという。董扶の言葉で益州へ心を向け、占い師を信じ呉氏と婚姻し、天子の車や衣装を作り天下を盗もうとした。その判断力の無さは甚だしい」と非難した。



周舒  当塗高とは魏なり


周舒(しゅうじょ)字は叔布(しゅくふ)
益州巴西郡閬中県の人(??~??)

隠者。
周羣(しゅうぐん)の父。

若い頃に楊厚(ようこう)に図讖(予言)を学び、その名声は同門の任安(じんあん)・董扶(とうふ)に次いだ。
たびたび招聘されたが応じなかった。

ある人に「春秋讖(※後漢の初期に書かれた予言書)には漢に代わるものは当塗高とありますが、その意味はなんですか」と問われると「当塗高とは魏なり」と答えた。郷里の学者は密かにその話を言い伝えた。

子の周羣も幼い頃から図讖を教えられ、たびたび予言を的中させ「蜀書」に列伝された。孫の周巨(しゅうきょ)にも受け継がれた。(『周羣伝』)

任安に図讖を学んだ杜瓊(とけい)は、後に譙周(しょうしゅう)に「当塗高とは魏」の解説を求められ「魏とは宮城の門の名称だ。塗(道)に当たって高くそびえている」と読み解いた。(『杜瓊伝』)



杜瓊  譙周の心の師


杜瓊(とけい)字は伯瑜(はくゆ)
益州蜀郡成都県の人(??~250)

蜀の臣。

静かで控えめな人柄で口数少なく、門を閉ざし世間と関わらなかった。
若い頃に任安(じんあん)に図讖(予言)を学び、技術に精通した。(『杜瓊伝』)
名声では同門の何宗(かそう)の方が勝った。(『楊戯伝』)

益州牧の劉璋(りゅうしょう)に召し出され従事となり、214年に劉備が益州を制圧すると議曹従事に任じられた。(『杜瓊伝』)

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に議曹従事として連名した。(『先主伝』)

223年、劉禅が即位すると諫議大夫となり、左中郎将・大鴻臚・太常と昇進して行った。(『杜瓊伝』)

234年、諸葛亮が没すると、劉禅は使持節左中郎将の杜瓊を使者とし、丞相武郷侯の印綬を贈った。(『諸葛亮伝』)

蔣琬(しょうえん)・費禕(ひい)に高く評価され、学問の深奥を極めていたが、図讖の術は用いなかった。
譙周(しょうしゅう)に理由を聞かれると「この術は非常に困難で、自身で全てを見分けねばならない。朝も晩も働いてようやくわかったら、今度はそれが他人に洩れないか心配になる。それならやらない方がマシなのだ」と言った。
さらに譙周は、同じく図讖に優れた周舒(しゅうじょ)が、かつて予言書の記述を「当塗高とは魏なり」と読み解いたことの解説を求めた。杜瓊は「魏とは宮城の門の名称だ。塗(道)に当たって高くそびえている」と言い、また「漢になって初めて官職を曹と呼ぶようになった。官吏は属曹、下役人は侍曹と呼ぶ。曹氏に属し、侍るという意味だ。漢が魏の曹氏に取って代わられたのは、ほとんど天の意志だ」と話した。

250年に80余歳で没した。
「韓詩章句」10余万言を遺した一方で、図讖や讖緯(神秘学)は子らに伝授しなかった。
だが譙周は杜瓊の言葉を基として様々な予言を的中させ「これは私が推論したものだが、杜瓊の言葉を基に押し広げただけだ。独自に到達したものなど全く無い」と語った。(『杜瓊伝』)

陳寿は「沈黙を守って慎み深く、純粋な学者だった」と評した。

「演義」では意外と出番が多く、なぜか北伐にも従軍し魏軍と戦った。



何宗  図讖で劉備に皇帝即位を勧める


何宗(かそう)字は彦英(げんえい)
益州蜀郡郫県の人(??~??)

蜀の臣。

任安(じんあん)に図讖(予言)を学び、名声では同門の杜瓊(とけい)に勝った。

益州牧の劉璋(りゅうしょう)に仕え犍為太守となり、214年に劉備が益州を制圧すると従事祭酒に任じられた。
220年、図讖を用い劉備に皇帝即位を勧めた。(『楊戯伝』)
劉備を皇帝に推挙する上奏に従事祭酒として連名した。(『先主伝』)
帝位につくと大鴻臚に昇進した。

建興年間(223~237)に没した。
子の何双(かそう)は将来を見込まれたが早逝した。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「明晰かつ誠実で、陰陽の変化を広く指し示した」と評した。

陳寿は事績が残っていないため伝を立てなかったと「季漢輔臣賛」の注に記した。(『楊戯伝』)



郤倹  悪政により黄巾賊に殺された郤正の祖父


郤倹(げきけん)字は不明
司隸河南尹偃師県の人(??~188)

後漢の臣。
郤揖(げきしゅう)の父。郤正(げきせい)の祖父。

188年頃、益州刺史を務めたが、でたらめな租税を課したため非難され、流言飛語が遠方まで届いていた。
劉焉(りゅうえん)はかねてから乱世の到来を予見し、地方の長官として赴任したいと考えていたが、董扶(とうふ)に「益州に天子の気がある」と勧められたこともあり、益州牧への赴任を希望し認められた。
その際に霊帝は詔勅で「前刺史の劉雋(りゅうしゅん)・郤倹はいずれも貪婪・放埒で、賄賂を受け取りでたらめを極めていた。民は頼りにするものもなく怨嗟の声が野に満ち満ちている」と語った。

劉焉は郤倹の逮捕を命じられ益州へ向かったが、道が閉ざされており荊州に留まった。
益州では馬相(ばしょう)と趙祇(ちょうし)ら賊徒が黄巾賊を名乗り、民衆を扇動し蜂起した。
郤倹は殺害され、黄巾賊は1万を超えたが、賈龍(かりゅう)によって討伐され、劉焉が迎え入れられた。(『劉焉伝』)

その後、都では董卓が台頭し大混乱に陥ったため、子の郤揖は帰郷せず益州に留まった。
孫の郤正は「蜀書」に列伝される重臣となった。(『郤正伝』)



周羣  蜀の図讖(予言術)の達人


周羣(しゅうぐん)字は仲直(ちゅうちょく)
益州巴西郡閬中の人(??~??)

蜀の臣。

父の周舒(しゅうじょ)は楊厚(ようこう)に図讖(予言術)を学び、周羣も幼い頃から父に薫陶を受け、自然現象などから未来を予知する学問に専念した。
家が豊かだったため、庭に楼を造り、奴僕に一日中、交代で空を見張らせた。少しでも異変があれば昼夜を問わず報告させ、自ら観察したため、彼の予言は多く的中した。

益州牧の劉璋(りゅうしょう)に招かれ、師友従事となった。
202年、越雋郡で男が女に変身した。周羣は「前漢でも同じことがあり、王朝が交替する兆しだ」と予言した。220年、後漢が滅び魏が立った。

207年、彗星が現れた。星座に対応させると荊州にあたることから、「荊州牧の劉表(りゅうひょう)が死に、領土を失う」と予言した。翌年に的中した。

212年、再び彗星が現れると「西方の領主がみな領土を失う」と予言した。涼州の韓遂(かんすい)、枹罕の宋建(そうけん)、主君の劉璋、漢中の張魯(ちょうろ)が3年以内に滅亡した。

214年、劉備が益州を制圧すると儒林校尉に任じられた。
劉備は漢中への侵攻を考え、周羣に諮問すると「土地は手に入りますが、民は手に入りません。一部隊だけを出せば必ず負けます。それを警戒し慎重を期してください」と答えた。
当時、張裕(ちょうゆう)も自然現象をもとにした予言術に優れ、天賦の才では周羣を上回っていた。
張裕は「漢中を攻めれば必ず負けます」と予言した。

劉備は漢中を制圧したが、民は魏へ接収された。一部隊で侵攻した呉蘭(ごらん)・雷銅(らいどう)は全滅し、全て周羣の予言通りになった。これにより茂才に推挙された。
一方で張裕の予言は外れ、かねてから彼の不遜な態度を根に持っていた劉備は、ついに処刑させた。

周羣が没すると、子の周巨(しゅうきょ)が図讖をよく受け継いだ。(『周羣伝』)

没年は不明だが220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に「父の周羣が存命の頃」と記されており、漢中が制圧された219年~220年の間とわかる。
また明記されていないが、この上奏を書いたのはおそらく周巨だろう。(『先主伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「天文に明るく、陰陽の変化を広く指し示した」と評した。(『楊戯伝』)

陳寿は「天文を観て占い、正しい判断を下す、純粋な学者だった」と評した。

「演義」には劉備が益州を制圧すると降伏した臣下の一人として記されるのみである。



周巨  周羣の子


周巨(しゅうきょ)字は不明
益州巴西郡閬中の人(??~??)

蜀の臣。
周羣(しゅうぐん)の子。周舒(しゅうじょ)の孫。

父・祖父はともに図讖(予言術)の名手で、自然現象などから未来を予知したびたび的中させた。

父が没すると子の周巨が図讖をよく受け継いだ。(『周羣伝』)

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に「父の周羣が存命の頃」と記されており、明記されていないが、この上奏を書いたのはおそらく周巨だろう。(『先主伝』)



何双  何宗の早逝した子


何双(かそう)字は漢偶(かんぐう)
益州蜀郡郫県の人(??~??)

蜀の臣。
何宗(かそう)の子。

機知に富んだユーモアを飛ばしながら談笑する様は、淳于髠や東方朔ら古の名臣の面影があった。

双柏県長を務めたが早逝した。(『楊戯伝』)



郤揖  孟達とともに魏へ投降した郤正の父


郤揖(げきしゅう)字は不明
司隸河南尹偃師県の人(??~??)

劉焉(りゅうえん)、後に蜀、魏の臣。
郤倹(げきけん)の子。郤正(げきせい)の父。

父は益州刺史を務めたが、でたらめな租税を課したため民衆に恨まれ、188年に蜂起した馬相(ばしょう)と趙祇(ちょうし)ら黄巾賊に殺害された。(『劉焉伝』・『郤正伝』)

その後、都では董卓が台頭し大混乱に陥ったため、子の郤揖は帰郷せず益州に留まった。
益州牧の劉焉、劉璋(りゅうしょう)に仕えたと思われる。

219年、孟達(もうたつ)は関羽を見殺しにしたため劉備に恨まれ、魏へ投降した。郤揖は彼の営都督を務めていたため、ともに投降し、中書令史となった。

没年は不明だが子の郤正が若い頃に没したと記される。
郤正は益州に残り「蜀書」に列伝される重臣となった。(『郤正伝』)



馬相  郤倹を殺害した黄巾賊


馬相(ばしょう)字は不明
益州の人(??~188?)

黄巾賊。

益州刺史を務める郤倹(げきけん)は、でたらめな租税を課したため民衆に恨まれていた。
188年、賊徒の馬相と趙祇(ちょうし)は黄巾賊を名乗り、民衆を扇動し蜂起した。1~2日のうちに数千人が集まり、手始めに綿竹県令の李升(りしょう)を殺し、官民を糾合し1万人に膨れ上がった。
さらに雒県を落とし、郤倹を殺害し、1ヶ月のうちに蜀郡・広漢郡・犍為郡を制圧した。馬相は天子を僭称し、勢力は十万を超えた。(※「蜀書」には5桁、「後漢書」には十余万とある)(『劉焉伝』)
さらに巴郡を攻め、太守の趙部(ちょうぶ)を殺した。(『後漢書 劉焉伝』)

だが犍為郡の東にいた賈龍(かりゅう)は1千余りの兵を集めると、数日のうちに馬相・趙祇を撃破し、平定した。
賈龍は赴任できずにいた益州牧の劉焉(りゅうえん)を迎え入れた。(『劉焉伝』)



趙祇  馬相の相方


趙祇(ちょうし)字は不明
益州の人(??~188?)

黄巾賊。

益州刺史を務める郤倹(げきけん)は、でたらめな租税を課したため民衆に恨まれていた。
188年、賊徒の馬相(ばしょう)と趙祇は黄巾賊を名乗り、民衆を扇動し蜂起した。1~2日のうちに数千人が集まり、手始めに綿竹県令の李升(りしょう)を殺し、官民を糾合し1万人に膨れ上がった。
さらに雒県を落とし、郤倹を殺害し、1ヶ月のうちに蜀郡・広漢郡・犍為郡を制圧した。馬相は天子を僭称し、勢力は十万を超えた。(※「蜀書」には5桁、「後漢書」には十余万とある)(『劉焉伝』)
さらに巴郡を攻め、太守の趙部(ちょうぶ)を殺した。(『後漢書 劉焉伝』)

だが犍為郡の東にいた賈龍(かりゅう)は1千余りの兵を集めると、数日のうちに馬相・趙祇を撃破し、平定した。
賈龍は赴任できずにいた益州牧の劉焉(りゅうえん)を迎え入れた。(『劉焉伝』)



賈龍  劉焉を助け劉焉に殺される


賈龍(かりゅう)字は不明
益州蜀郡の人(??~191)

劉焉(りゅうえん)の臣。

益州刺史を務める郤倹(げきけん)は、でたらめな租税を課したため民衆に恨まれていた。
188年、賊徒の馬相(ばしょう)と趙祇(ちょうし)は黄巾賊を名乗り、民衆を扇動し蜂起した。
郤倹を殺害し、1ヶ月のうちに三郡を制圧した。馬相は天子を僭称し、勢力は十万を超えた。(※「蜀書」には5桁、「後漢書」には十余万とある)

益州従事の賈龍は犍為郡の東に駐屯し、数百人の私兵を持っていた。官民を集めて1千余りの兵を得ると、数日のうちに馬相・趙祇を撃破し、平定した。
賈龍は赴任できずにいた益州牧の劉焉を迎え入れた。(『劉焉伝』)
賈龍は校尉に任じられた。(『後漢書 劉焉伝』)

劉焉は益州で独立する野望を抱いており、張魯(ちょうろ)と結託して漢中への交通路を遮断した。さらに州内の豪族を殺して権威を高めた。(『劉焉伝』)
191年(『後漢書 劉焉伝』)、賈龍はこれに反発し、任岐(じんき)とともに劉焉を攻めたが、返り討ちに遭いともに戦死した。

「英雄記」には別の経緯が記される。
犍為太守の任岐は勝手に将軍を自称し、劉焉を攻めたが返り討ちにされた。
都の実権を握る董卓は、趙謙(ちょうけん)に軍勢を与え益州に向かわせ、賈龍を説得し劉焉を討伐させた。
だが劉焉は勇猛な青羌族に迎撃させ、賈龍を討ち取った。(『劉焉伝』)



張裕  自身の死相を観る


張裕(ちょうゆう)字は南和(なんか)
益州蜀郡の人(??~219?)

蜀の臣。
「周羣伝」に附伝される。

益州では周羣(しゅうぐん)が自然現象をもとにした予言術に優れていたが、天賦の才では張裕の方が上回っていた。(『周羣伝』)

鄧芝(とうし)は若い頃なかなか評価されなかった。張裕に人相を観てもらうと「70歳を越えてから大将軍に上り列侯されるだろう」と予言された。後に的中した。(『鄧芝伝』)

益州牧の劉璋(りゅうしょう)のもとで従事を務めていた時、当時は賓客だった劉備と会見した。劉備が張裕の豊かな髭をからかうと、張裕は劉備が髭を生やしていないことと出身地の涿郡を絡め「潞涿君(髭の無い男)」とやり返し、劉備は不快に感じた。

214年、劉備は益州を制圧すると漢中への侵攻を考え、周羣に諮問すると「土地は手に入りますが、民は手に入りません。一部隊だけを出せば必ず負けます。それを警戒し慎重を期してください」と答えた。
張裕は「漢中を攻めれば必ず負けます」と予言した。

劉備は漢中を制圧したが、民は魏へ接収された。一部隊で侵攻した呉蘭(ごらん)・雷銅(らいどう)は全滅し、全て周羣の予言通りになった。

また張裕は「220年に後漢は滅びる。主君(劉備)は益州を手に入れてから9年後、つまり222~223年の間に亡くなるだろう」と予言し、密かにひとに話していた。
これが劉備に密告され、逆鱗に触れた。張裕は漢中侵攻の予言が外れた罪で投獄され、処刑を命じられた。
諸葛亮が助命嘆願したが、劉備は「かぐわしい蘭の花も、門に生えれば刈り取らないわけにはいかない」と言い、市場で公開処刑させた。
張裕は人相学にも通じており、鏡を見るたびに自分が刑死する相を観てしまい、地面に叩きつけていたという。

死後、後漢の滅亡や劉備の死の予言は的中した。(『周羣伝』)



趙部  馬相・趙祇に殺された巴西太守


趙部(ちょうぶ)字は不明
出身地不明(??~188)

後漢の臣。

益州刺史を務める郤倹(げきけん)は、でたらめな租税を課したため民衆に恨まれていた。
188年、賊徒の馬相(ばしょう)と趙祇(ちょうし)は黄巾賊を名乗り、民衆を扇動し蜂起した。郤倹を殺害し、さらに巴郡を攻め、太守の趙部を殺した。(『後漢書 劉焉伝』)



任岐  賈龍とともに挙兵も返り討ち


任岐(じんき)字は不明
出身地不明(??~191)

劉焉(りゅうえん)の臣。

益州従事の賈龍(かりゅう)は黄巾賊を一掃し、益州牧の劉焉を迎え入れた。
だが劉焉は益州で独立する野望を抱いており、張魯(ちょうろ)と結託して漢中への交通路を遮断した。さらに州内の豪族を殺して権威を高めた。(『劉焉伝』)
191年(『後漢書 劉焉伝』)、賈龍はこれに反発し、犍為太守の任岐とともに劉焉を攻めたが、返り討ちに遭いともに戦死した。

「英雄記」には別の経緯が記される。
犍為太守の任岐は勝手に将軍を自称し、従事の陳超(ちんちょう)とともに挙兵し劉焉を攻めたが返り討ちにされた。
都の実権を握る董卓は、趙謙(ちょうけん)に軍勢を与え益州に向かわせ、賈龍を説得し劉焉を討伐させた。
だが劉焉は勇猛な青羌族に迎撃させ、賈龍を討ち取った。(『劉焉伝』)



陳超  任岐とともに挙兵も返り討ち


陳超(ちんちょう)字は不明
出身地不明(??~191?)

劉焉(りゅうえん)の臣。

益州従事の賈龍(かりゅう)は黄巾賊を一掃し、益州牧の劉焉を迎え入れた。
だが劉焉は益州で独立する野望を抱いており、張魯(ちょうろ)と結託して漢中への交通路を遮断した。さらに州内の豪族を殺して権威を高めた。(『劉焉伝』)
191年(『後漢書 劉焉伝』)、賈龍はこれに反発し、犍為太守の任岐(じんき)とともに劉焉を攻めたが、返り討ちに遭い戦死した。

「英雄記」には別の経緯が記される。
犍為太守の任岐は勝手に将軍を自称し、従事の陳超とともに挙兵し劉焉を攻めたが返り討ちにされた。
都の実権を握る董卓は、趙謙(ちょうけん)に軍勢を与え益州に向かわせ、賈龍を説得し劉焉を討伐させた。
だが劉焉は勇猛な青羌族に迎撃させ、賈龍を討ち取った。(『劉焉伝』)



胡氏  劉琰に草履で殴られた妻


胡氏(こし)名は不明
出身地不明(??~??)

劉琰(りゅうえん)の妻。

223年、劉琰は魏延に暴言を吐き失脚し、希望を失いぼんやりと日々を送っていた。

234年正月、妻の胡氏が年賀の挨拶に出向くと、穆太后(ぼくたいこう)は彼女を宮中に1ヶ月留め置いた。
胡氏は美人だったため、劉琰は彼女が劉禅と密通したとあらぬ疑いを掛け、吏卒に命じて鞭打たせた。さらに自ら草履で顔を殴って離縁を言い渡した。
胡氏が事細かに告訴したため、劉琰は投獄された。司直は「吏卒は主君の妻を鞭打つべきではないし、顔は草履を受ける場所ではない」ともっともな意見を具申し、劉琰は公開処刑された。
その後、(誤解を避けるため)大官の妻や母が参内する風習は絶えた。(『劉琰伝』)

「演義」では挨拶した相手は張皇后(ちょうこうごう)に変更。夫の部下500人に履き物で殴られた。よく生きてるな。



穆皇后  劉備の皇后


穆皇后(ぼくこうごう)名は不明
兗州陳留郡の人(??~245)

劉備の皇后。
呉懿(ごい)の妹で、本姓は呉氏。

幼くして父を失い、父の旧友の劉焉(りゅうえん)が益州牧になると、呉一族はそれに従い益州へ移住した。
人相見が彼女を見て「高貴な身分に上る」と言ったため、野心ある劉焉は子の劉瑁(りゅうぼう)の嫁に迎えた。(『穆皇后伝』)
だが劉瑁は208年頃に亡くなり未亡人になった。(『劉璋伝』)

214年、劉備が益州を制圧した。正室の孫夫人(孫尚香)が帰国したため、群臣は穆皇后をめとるよう勧めた。劉備は前夫の劉瑁が同族なのを渋ったが、法正(ほうせい)の説得もあり正室に迎えた。

219年、劉備が漢中王に即位すると漢中王后に、221年に帝位につくと皇后に立てられた。
223年、劉備が没したため皇太后となり、長楽宮と称した。(『穆皇后伝』)

234年、重臣の劉琰(りゅうえん)の妻の胡氏(こし)が年賀の挨拶に出向くと、穆太后は彼女を宮中に1ヶ月留め置いた。
胡氏は美人だったため、劉琰は彼女が劉禅と密通したとあらぬ疑いを掛け、吏卒に命じて鞭打たせた。さらに自ら草履で顔を殴って離縁を言い渡した。
胡氏が事細かに告訴したため、劉琰は投獄された。司直は「吏卒は主君の妻を鞭打つべきではないし、顔は草履を受ける場所ではない」ともっともな意見を具申し、劉琰は公開処刑された。
その後、(誤解を避けるため)大官の妻や母が参内する風習は絶えた。(『劉琰伝』)

245年に没し(※穆と諡され)、劉備とともに合葬された。(『穆皇后伝』)

「演義」では呉氏(ごし)の名で登場。劉永(りゅうえい)・劉理(りゅうり)の実母に設定された。(※正史では母は不明)
また魏延が反乱し、楊儀(ようぎ)と互いを謀叛人と言い合った際には「諸葛亮は魏延に反骨の相があると話していた」と劉禅にアドバイスした。



劉瑁  穆皇后の前夫


劉瑁(りゅうぼう)字は不明
荊州江夏郡竟陵県の人(??~208?)

劉焉(りゅうえん)の三男。

益州牧に赴任した劉焉は野心深く、漢王朝からなかば独立した。(『劉焉伝』)

劉焉は旧友の娘で、後の穆皇后(ぼくこうごう)が人相見に「高貴な身分に上る」と占われたため、劉瑁の嫁に迎えた。(『穆皇后伝』)

長男と次男、四男の劉璋(りゅうしょう)は朝廷にいたが、三男で別部司馬を務める劉瑁だけが父のもとにいた。
そこで朝廷は劉璋を派遣し父を説得させようとしたが、劉焉はこれ幸いと劉璋を益州に留め置いた。(※「典略」によると劉焉は病気にかこつけて見舞いに来させた)
やがて長男と次男は死に、劉焉は失意のさなかに城まで落雷で失い、病を得て194年に没した。

重臣の趙韙(ちょうい)はおとなしい劉璋を傀儡にしようと企み、上奏して益州牧に据えた。(『劉焉伝』)

趙韙は反逆したが劉璋に返り討ちにされた。
208年、曹操が荊州制圧に乗り出すとよしみを通じ、劉璋に振威将軍、劉瑁に平寇将軍が与えられた。
間もなく劉瑁は精神を病み、亡くなった。(『劉璋伝』)

214年、穆皇后は益州を制圧した劉備の正室に迎えられた。(『穆皇后伝』)

余談だが本文に「劉瑁は物故した」とあり、裴松之はそれに注を付け、魏で物故という言葉の由来は何か議論され、高堂隆(こうどうりゅう)が「物は無を、故は事を意味し、二度と何もできないという意味」と答えたと記している。
三国時代に既に由来がわからなくなっている言葉が、現代日本で常用されているのは非常に面白い。



劉永  劉備の地味な子


劉永(りゅうえい)字は公寿(こうじゅ)
幽州涿郡涿県の人(??~??)

劉備の子。
劉禅の異母弟。劉理(りゅうり)とも母は異なる。

側室(名は不明)の子で、221年に劉備が皇帝に即位すると魯王に封じられた。(『劉永伝』)

223年、劉備は臨終の床に呼び「お前たち兄弟は丞相(諸葛亮)を父と思って仕え、ひたすら大臣たちが丞相に協力して事をなすように仕向けよ」と遺言した。(『先主伝』)

229年、蜀・呉の間で魏討伐後の領地の分割が討議され、魯国のある豫州が呉の統治下に入った。(『陳震伝』)
そのため230年、甘陵王に改封された。

宦官の黄皓(こうこう)が台頭すると、かねてから彼を憎んでいた劉永は讒言され、それにより劉禅に遠ざけられ、十余年も謁見を許されなかった。

蜀滅亡後の264年、(兄の劉禅とともに)洛陽に移住させられ、奉車都尉に任じられ郷侯に封じられた。(『劉永伝』)

311年、永嘉の乱により劉備の子孫はほとんど死に絶え、劉永の孫の劉玄(りゅうげん)だけが生き延び、益州へ逃げた。
李雄(りゆう)は勝手に(劉禅と同じ)安楽公に任じ、劉禅の後を継がせた。

「演義」では兄弟の劉理(りゅうり)とともに穆皇后(ぼくこうごう)の実子に設定され、父の遺命でともに諸葛亮に父子の礼を取った。



劉理  劉備のもっと地味な子


劉理(りゅうり)字は奉孝ほうこう)
幽州涿郡涿県の人(??~244)

劉備の子。
劉禅の異母弟。劉永(りゅうえい)とも母は異なる。

側室(名は不明)の子で、221年に劉備が皇帝に即位すると梁王に封じられた。(『劉理伝』)

時期は不明だが馬超の娘をめとった。(『馬超伝』)

229年、蜀・呉の間で魏討伐後の領地の分割が討議され、梁国のある豫州が呉の統治下に入った。(『陳震伝』)
そのため230年、安平王に改封された。

244年に没し、悼王と諡された。
後を継いだ子の劉胤(りゅういん)も256年に没し、その子の劉承(りゅうしょう)が継ぐも、翌257年に早逝した。
劉禅はこれを悼み261年、劉胤の兄弟の劉輯(りゅうしゅう)に王位を継がせた。

蜀滅亡後の264年、劉輯は(劉禅・劉永とともに)洛陽に移住させられ、劉永と同じ奉車都尉に任じられ郷侯に封じられた。(『劉理伝』)

「演義」では劉永とともに穆皇后(ぼくこうごう)の実子に設定され、父の遺命でともに諸葛亮に父子の礼を取った。



趙韙  劉璋排除を企み返り討ちに


趙韙(ちょうい)字は不明
益州巴西郡の人(??~??)

劉焉(りゅうえん)・劉璋(りゅうしょう)の臣。

後漢の太倉令をしていたが官を捨て、益州牧に赴任する劉焉に付き従った。

194年、劉焉が没すると、おとなしい四男の劉璋を傀儡にしようと企み、上奏して益州牧に据えた。趙韙も征東中郎将に任命され、荊州牧の劉表(りゅうひょう)への攻撃を命じられた。

「英雄記」に曰く。
劉璋が益州刺史を継ぐと、朝廷(を牛耳る李傕(りかく)ら)は扈瑁(こぼう)を益州刺史に任じ、漢中に入らせた。
荊州別駕の劉闔(りゅうこう)や、益州の甘寧ら不穏分子はそれに呼応し劉璋を攻撃したが、敗北し荊州へ逃げた。劉璋は趙韙に追撃させた。(『劉焉伝』)

董卓の台頭により南陽郡や三輔から流民が数万家も益州に移り、そこから徴兵し「東州兵」と名付けていた。劉璋は優柔不断で威厳がなく、東州兵が元の住民を侵害しても対処できなかった。民の不満も募ったため、劉璋は人心をつかんでいた趙韙にこの問題を任せた。
趙韙はそれを利用し謀叛を企み、荊州に賄賂を贈ってよしみを通じ、益州の豪族と手を結び挙兵した。蜀郡・広漢郡・犍為郡が呼応し、劉璋は成都に籠城を強いられた。だが東州兵は趙韙を恐れて劉璋に味方し、返り討ちにした。
趙韙は配下の龐楽(ほうがく)・李異(りい)に裏切られ、殺された。(『劉璋伝』)



劉胤  劉理の子の哀王


劉胤(りゅういん)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~256)

劉理(りゅうり)の子。
劉備の孫にあたる。

244年、父が没したため安平王を継いだ。

256年に没し、哀王と諡された。

子の劉承(りゅうしょう)が後を継ぐも、翌257年に早逝し血統が絶えてしまった。
劉禅はこれを悼み261年、劉胤の弟の劉輯(りゅうしゅう)に王位を継がせた。(『劉理伝』)



劉承  劉胤の子の殤王


劉承(りゅうしょう)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~256)

劉胤(りゅういん)の子。
劉理(りゅうり)の孫、劉備の曾孫にあたる。

256年、父が没したため安平王を継いだ。

257年に没し、殤王と諡された。

劉禅は血統が絶えてしまうことを悼み261年、劉胤の弟の劉輯(りゅうしゅう)に王位を継がせた。(『劉理伝』)



劉輯  劉理の後継ぎ


劉輯(りゅうしゅう)字は不明
幽州涿郡涿県の人(??~??)

劉理(りゅうり)の子。
劉備の孫にあたる。

244年、父が没したため兄弟の劉胤(りゅういん)が安平王を継いだ。

256年に劉胤が没し、翌年にその子の劉承(りゅうしょう)も早逝し血統が絶えてしまった。
劉禅はこれを悼み261年、武邑侯の劉輯に王位を継がせた。

蜀滅亡後の264年、劉輯は(劉禅らとともに)洛陽に移住させられ、劉理の兄弟の劉永(りゅうえい)と同じ、奉車都尉に任じられ郷侯に封じられた。(『劉理伝』)



扈瑁  劉璋への対抗の益州刺史


扈瑁(こぼう)字は不明
豫州潁川郡の人(??~??)

後漢の臣。

194年、劉璋(りゅうしょう)が益州刺史を継ぐと、朝廷(を牛耳る李傕(りかく)ら)は扈瑁を益州刺史に任じ、漢中に入らせた。
荊州別駕の劉闔(りゅうこう)や、益州の甘寧ら不穏分子はそれに呼応し劉璋を攻撃したが、敗北し荊州へ逃げた。劉璋は趙韙(ちょうい)に追撃させた。(『劉焉伝』)

扈瑁の消息は不明である。



劉闔  扈瑁を援護した荊州別駕


劉表(りゅうひょう)の臣。

194年、劉璋(りゅうしょう)が益州刺史を継ぐと、朝廷(を牛耳る李傕(りかく)ら)は扈瑁(こぼう)を益州刺史に任じ、漢中に入らせた。
荊州別駕の劉闔や、益州の甘寧ら不穏分子はそれに呼応し劉璋を攻撃したが、敗北し荊州へ逃げた。劉璋は趙韙(ちょうい)に追撃させた。(『劉焉伝』)

劉闔の消息は不明である。



龐楽  李異とともに趙韙を裏切る


龐楽(ほうがく)字は不明
出身地不明(??~??)

劉璋(りゅうしょう)の臣。

劉璋の重臣の趙韙(ちょうい)は謀叛を起こしたが、返り討ちにした。
趙韙は配下の龐楽・李異(りい)に裏切られ、殺された。(『劉璋伝』)

その後、李異は劉備の益州侵攻の際に劉璋配下に名が見え、さらに呉に同一人物と思われる事績があるが、龐楽の消息は不明である。