犬の家

〜002 犬の家の噂〜

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 これは一年前の話だ。
 一年前、僕――弘長知子(ひろなが・ともこ)はこの噂を聞いた。
 この「犬の家」の噂を。



 「犬の家?」耳慣れない言葉に僕は聞き返した。「それって犬小屋とは違うのか」
 「違う違う。犬の家は犬の家だ」オカルト研究会の会長・不知火光(しらぬい・ひかる)は偉そうに腕を組んで言う。
 「ほら、駅前商店街の裏手に入ってすぐに駐車場があるだろ。ドブ川に向かっていくほうの道」
 「駐車場? あったようなないような」
 「あるんだよ。二十台くらいは止められんのかな。でもいつ見ても五〜六台しか止まってなくてさ。その端っこらへんに、小さな物置小屋があるんだ。税金対策だかなんだかで建てたらしいんだけど」

 それが「犬の家」だという。

 「で、その物置小屋がなんで犬の家なんだよ」僕の当然の疑問に、不知火はなぜか得意げな顔を返した。気取った様子であごをしゃくってみせる。
 「今から案内してやる。見ればわかるさ」
 なんとなくむかついたので頭を殴った。
 痛がる不知火を放り、ここまで黙って話を聞いていた浅倉塔子(あさくら・とうこ)の手を引いて歩き出した。
 「お、おい弘長。どこ行くんだよ」
 「犬の家を見に行く。別に案内してもらわなくても、道わかるし」



 「犬の家」には迷わず着いた。
 外から見回した限り、広さは四畳半くらいだろうか。屋根も壁も色あせ、あちこち塗装が剥げかけている。
 一つきりのドアの側にはチャイムも表札もなく、住居としてはもちろん物置としても使われていないようだ。それでも電線がつながっているのは税金対策というヤツだろうか。
 「で、これのどこが犬の家なんだ」
 頭をさすりながらついてきた不知火に尋ねると、彼は物置小屋の裏に回るよう手招き、一つの窓を指さした。灰色のカーテンがしまっており、中の様子は見えない。
 「ここだ。この窓だけ、鍵が開いてるんだ。のぞいてみろ」
 「のぞくの?」僕がのけぞると、不知火は誰もいないから大丈夫だと、言葉とは裏腹に小声になって言った。
 留守だろうと使われていない物置だろうと、ひとの家をのぞくことに抵抗を感じていると、浅倉が臆する様子もなく、窓に手を掛けた。一切の躊躇も見せずに引き開ける。
 「ち、ちょっと待ってよ浅倉」僕もあわてて彼女の横に並んだ。窓はちょうど上背のある浅倉の目線の高さにあった。僕はすこし背伸びすればなんとかのぞくことができる。
 浅倉が分厚いカーテンを脇にどけたとたん、埃の匂いが鼻をくすぐった。くしゃみを我慢して目を凝らすと……。

 犬。

 犬犬犬。

 犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬。

 壁から床から天井から。
 犬。
 室内のいたるところに、無数の半紙やチラシや新聞紙が貼り付けられ、その全てに。

 犬。

 犬という文字が墨痕鮮やかに書かれていた。

 「なんだこれ」背筋に寒いものを感じ、のけぞりながら僕はつぶやいた。
 「これが、犬の家だ」不知火が自分の手柄だと言わんばかりに胸を張った。
 浅倉はかわいらしく小首をかしげて訊いた。
 「これって不知火さんが書いたんですか?」
 「おいおい、突然なにを言うんだよ塔子ちゃん」不知火は顔をしかめた。「俺が書いたわけないだろ。この家の持ち主が書いたんだよ。俺はそんな暇じゃないし、鍵も持ってない。その小さな窓から中に入るのは無理だぜ」
 たしかに不知火は相当の暇人だし、こういういたずらを面白がる人物だが、それにしてはちょっと手が込んでいるし、彼の言うとおり、鍵も無しに出入りするのはちょっと難しそうだ。
 「あんたがやったんじゃないとすると……この物置小屋の持ち主は、変人なんだろうな」僕はうなった。「だって、見ただろあの数。百や二百じゃきかないぞ。それもわざわざ墨をすったのか、筆ペンでも使ったのか、とにかく何千枚も意味のない落書きするなんて普通じゃない」
 得体のしれない人物が、小屋の真ん中に正座して、にやにや笑いながら墨をすり、丹念に「犬」の字を量産していく様を思い浮かべると、冬でもないのに鳥肌が立ってきた。
 「気持ち悪くなってきた。帰ろう」
 不知火と浅倉をうながし、ぞろぞろと駅に引き返していく。
 「これ、番組で使えるか?」不知火の問いに僕は悩んだ。市立三上塚中学校の放送部は、昼休みに様々な番組を流している。僕は火曜のワンコーナーを担当し、校内でまことしやかにささやかれる噂を検証しているのだ。
 「どうだろ。気味は悪いけど、オチもなんにもないからな」
 「怪談らしくていいじゃないか」
 「でも――」
 などと思い悩んでいると、不意に不知火が「あ、先輩!」と声を上げた。前方を歩いていた男女に声をかける。男女もすぐに不知火に気づき、手を振った。不知火は彼らをオカ研のOB・OGだと紹介してくれた。
 「俺の前の会長の綿貫(わたぬき)さんだ」
 「やあ、どうぞよろしく」オカ研OBという前歴が想像できないような、ちょっとした色男だった。快活に握手を求めてきたので、つい応じてしまう。
 「そしてこちらが……聞いて驚くなよ。オカ研を創設した伝説の会長、恐山通子(おそやま・とおこ)先輩だ!」
 「どうぞよろしく……」オカ研OGという前歴が容易に想像できる女性だった。全身黒ずくめで、首からは雑誌の広告で見たようなパワーストーンを提げている。四角い風呂敷包みを大事そうに胸に抱えていた。
 オカ研三人組は僕と浅倉を置いてけぼりにして、思い出話に花を咲かせた。別に義理もないし、そろそろお暇しようかと思った時、不知火が犬の家を話題に出した。
 「先輩たちも知ってますか? 商店街の裏手に出て、ドブ川のほうに向かっていって」駐車場の税金対策にと説明すると、恐山がはっと身をこわばらせた。
 「思い出したわ。あなたたち、ひとの家に入ったの?」思いのほか厳しい語調だった。
 不知火はあわてて、入ってません、窓からのぞいただけです、と釈明した。
 「あなたたち、ひとの家をのぞいたのね」恐山は細い眉をひそめる。
 「で、でも誰もいませんでしたし、ほんのちょっとだけのぞいただけっていうか、そもそも俺はのぞいてませんし」
 「なんだよそれ」急に矛先がこっちに向いた。「そもそもは、お前が紹介してくれたんだろ」
 「ああ、俺も思い出した」綿貫が手を叩いた。
 「あれか、ダイの家か。まだ残ってたんだな。俺が中学の頃も話題になってたよ」
 「ダイの家?」不知火が聞き返した。
 「あの物置小屋、綿貫先輩のお知り合いの家なんですか?」
 「え?」綿貫は怪訝な顔をした。「知り合いなんかじゃないよ。誰もあの小屋の持ち主なんて知らないさ」
 「でも今、ダイの家だって言いましたよね」
 「ああ、だから俺の頃もダイの家の噂が立って――」

 「わかった!」

 浅倉塔子がそう叫ぶやいなや、きびすを返して駆け出した。
 「ち、ちょっと浅倉、どうしたんだよ」僕が泡を食いながらも彼女の後を追うと、
 「あ!」恐山と綿貫が同時に叫び、僕を追い越して浅倉に続いていった。
 「なんだなんだ。なにがどうなってんだ」目を白黒させながら不知火も追いかける。どうやら僕と不知火だけがなにもわかっていないようだ。
 浅倉は――これだけは予想通り、犬の家まで戻った。唯一開いている窓に駆け寄り、さっきと同じように引き開ける。綿貫と恐山がその隣に並んで、小屋の中をのぞき込んだ。
 「本当だ……」
 「犬の家だわ……」
 息を呑んで立ち尽くす三人。
 そのとき。
 ようやく僕も気がついた。

 恐山が会長の頃、その家は「人の家」だった。

 綿貫が会長の頃、その家は「大の家」だった。

 そして今、その家は「犬の家」になったのだ。



 これが一年前の話だ。
 僕はそれっきり、犬の家に関わるのはやめた。
 だけど今また、下級生たちの間で噂がささやかれている。

 「天の家」を、知っているかと……。



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