ベビーカー

〜003 デパートの噂〜

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 僕――弘長知子(ひろなが・ともこ)は市立三上塚中学校の放送部に所属する二年生である。
 ヅカ中(略称)は各教室にテレビを備えつけ、授業や行事に用いたり、昼休みに放送部員による番組を流したりしている。
 僕も火曜の昼休みにワンコーナーをもらい、校内でまことしやかにささやかれる噂話を検証しているのだが、今回は教師に自身が体験した怪談を語ってもらうことにした。
 ゲストは体育教師の路地(ろじ)先生だ。大学を出て教職にあずかり4年目の若さに似合わず、よれよれのジャージの上によれよれのブルゾンをまとった彼は、他の教師よりも年齢が近いだけあって、生徒の目線に立ってくれるので、なかなか人気のある教師である。
 「インタビューだなんて初めてだから緊張するな」そう言って路地先生は快活に笑う。「しかも人前で怪談を話すなんて、こっちも初めてだ。うまく話せなかったらごめんな」
 よく笑ってくれるおかげで、僕のほうも教師相手だからと気構えずに聞くことができた。

 それは路地先生が大学時代に体験した話だという。



 ――俗に言う貧乏学生ってやつだったから、いろんなバイトをやったものだ。コンビニやファーストフードはもちろん、交通量調査から植木の剪定、これは親方が刈ってくれるから俺は掃除するだけだが。あとは友達や親戚に頼まれて、子守や引越しや大掃除、ドブさらいにいなくなった猫の捜索までなんでもやった。やらなかったのは薬の被験者と死体洗いくらいかな。
 その中でも一番きつかったのが、今回話すバイトだ。弘長は女子だからそうそうやることはないと思うが、でもこのバイトだけは辞めておいたほうがいいぞ。なんだかわかるか?
 警備員だよ。それも夜のデパートのだ。

 いや、警備員の仕事が特別きついってわけじゃない。徹夜仕事になるから最初は苦労するが、慣れればなんてことはない。時給もいいし、俺だってあんなことがなければ続けていただろう。
 あれは――今から5年前のことだ。当時は他県の大学に通っててな。だから三上塚の駅前にあるデパートの話じゃない。今後も安心して買い物に行ってくれ。
 6月くらいだったかな。蒸し暑い夜で、俺は汗を拭きながらデパートの中を巡回していた。警備員は俺ともう一人いたが、かわりばんこに仮眠を取るから、一人きりで見回るんだ。
 泥棒なんてめったに入らない。怖いのは火事だな。コンセントの接触不良とか、それじゃなくてもいろんな品物が溢れてるから、火の気はどこにあるかわからない。まあそれもめったに起こらないが。
 あはは。前置きが長くてすまんな。俺もあんまりこの話をしたくなくて、無意識に遠回りしてるようだ。

 手短に話そう。最初は声だった。声が聞こえたんだ。
 それも赤ん坊の声だ。
 きゃはははは。って
 赤ん坊が笑ってるんだ。
 夜中に。デパートで。赤ん坊が。
 ありえないだろ? 俺も最初はびびったが、すぐにおもちゃ売り場にある人形に、何かの弾みでスイッチが入ったんだと思った。ほら、着替えさせたりミルクを飲ませたりして遊ぶやつだ。弘長も子供の頃に持ってたんじゃないか?
 すぐに人形だと思ったのも、ちょうどおもちゃ売り場のフロアーを歩いていたからだ。別に放っといても構わないが、夜中にそんな声が聞こえるのも気味が悪いから、探しに行ったんだ。
 でも、どこにもないんだ。
 人形はある。そういう赤ん坊の人形はいくらでもあった。でも笑ってる人形はどこにもない。声の聞こえる方向に歩いてるのに、声の主が見つけられないんだ。
 そのうちに妙なことに気づいた。
 きゃはははは。って笑うその声。
 おもちゃにしては、声に起伏があるんだ。ああいう人形ってそんなに多くの言葉はしゃべれないだろ。ましてや笑い声にたくさんバリエーションがあるわけない。でもよく聞いてみると、いろんな笑い方をしてるんだ。
 そう気づいたとたんにだ。
 まるで俺が気づいたことに気づいたように、声が動き出した。
 ずっと一方向から聞こえてきた笑い声が、ゆっくりと動き出したんだ。
 それも俺の方に向かってくる。
 同時に何か別の音もしていることに気づいた。
 からからからから。からからからからから。からからからからからから。
 車輪だとすぐにわかった。親戚の子守のバイトをしていたから、ベビーカーの音だと見当がついた。
 ベビーカーに乗った赤ん坊が、俺に近づいてくるんだ。
 俺は逃げ出した。声の聞こえてくる方向の逆に向かってやみくもに走った。理屈なんてないけど、このフロアーから出れば大丈夫だと思った。おもちゃ売り場から離れれば大丈夫だとな。
 でも違った。別のフロアーに移っても、下の階に降りても、関係なくベビーカーはついてくる。いつの間にか背後から笑い声と車輪の回る音がついてくるんだ。
 俺は一階にある警備員の詰め所に走った。あはは。二人いれば大丈夫ってわけでもないんだがな。とにかく一人でいたくなかったんだ。
 でもこれもダメだった。先回りされたんだ。一階に降りる階段の、踊り場のすぐ先から聞こえるんだ。
 からからからから。きゃはははは。ってな。今までで一番音も声も近かった。とても降りられたもんじゃない。鉢合わせしちまう。
 しかたなくまた逆に逃げ出した。でも今まで通ってきたフロアーには戻りたくなかった。そのフロアーはベビーカーのやつも道を覚えてる。すぐに追いつかれちまうって思ったんだ。あはは。こうして振り返ると変なことばっかりやってるな俺は。
 エレベーターは電源が切られてるから乗れない。エスカレーターは止まってるが渡れるから、そこから下に降りようと思った。ダメだ。そこも先回りされてた。下には降りられない。
 迷った末に俺はトイレに逃げ込んだ。男子トイレならすぐ見つかると思ったから女子トイレだ。あはは。責めないでくれよ。この時は必死だったんだ。
 個室に入って鍵を掛け、すぐ携帯を取り出した。走りながら掛けようともしてたんだが、汗で滑って落としそうになって、諦めてたんだ。携帯は外部とつながる頼みの綱だからな。落とすわけにはいかなかった。
 でもこれもダメだった。圏外なんだ。いくら個室に入ったからって電波が届かなくなるわけない。ベビーカーのやつが使えなくしてるんだって信じたな。
 で。
 近づいてくるんだ。赤ん坊の声が。車輪の音が。
 どうやって俺の位置を察知してるのかわからないが、とにかく近づいてくる。
 思ったとおり、あいつは最初、男子トイレの方に行った。幽霊も騙されるんだな。あはは。幽霊なのかなんなのか、今でもわからないけど。
 個室に入ったのは失敗だったる女子トイレのすぐ入口にいれば、ベビーカーが男子トイレに入った隙に飛び出して、逃げられたかもしれない。
 気づいたときにはもう遅かった。ベビーカーは女子トイレに入ってきたんだ。
 からからからからからから。きゃはははは。
 音と声だけが聞こえる。勇気を振り絞って、ドアの前にさしかかったとき、下にある隙間からのぞいて見た。
 なんにもない。
 ベビーカーも、赤ん坊も、なんにも見えない。
 音と声だけが、空中から湧き出したように聞こえる。
 ベビーカーは出て行かなかった。俺は必死に息を殺してたけど、気配が伝わったんだろうな。俺が個室にこもってると気づいてたんだ。
 音と声は、俺のいる個室の目の前で止まった。
 ずっと止まってるんだ。
 それなのに車輪はずっと回り続けてる。
 からからからからからから。
 回り続けたまま、俺の目の前に止まってるんだ。
 赤ん坊はずっと笑ってる。
 きゃはははは。きゃはははは。きゃはははは。
 頭がおかしくなりそうだった。俺は脂汗を垂らしながら、冬でもないのにがたがた震えてた。早く消えてくれ、早く消えてくれって祈ってた。いっそ失神しちまったほうが楽だと思ったけど、意識は遠のいてくれなかった。
 やがて――。
 どのくらい経ったんだろうな。十分か。一時間か。時間の感覚が全く無くなってた。
 音がやんだんだ。
 車輪の音がしなくなった。
 赤ん坊の声はまだ聞こえてる。でも車輪の音が消えた。やった、と思った。事態が好転した。あと一息だ。もうすこしで声も消えてくれると、理由もなく確信した。
 でもな。
 それは好転でもなんでもなかったんだ。
 俺は気づいた。
 声が、違うんだ。
 赤ん坊の声が、いつの間にかドアの外から動いてた。
 外じゃない。中だ。赤ん坊の声は中から聞こえてる。
 きゃはははは。きゃはははは。って。
 俺が。
 俺がいつの間にか、赤ん坊の声でずっと笑ってたんだ。



 路地先生はそこで話を切った。僕はまだ続くのだろうとじっと待っていると、先生は頭をかいて、あはは、と笑った。
 「この話はこれで終わりだよ。それからすぐ、俺は気を失った状態で、もう一人の警備員に見つけられた。交代の時間になっても帰ってこないから、探してくれたんだ。
 携帯の着信音が鳴ってたからすぐ見つけられたけど、お前、女子トイレで何やってたんだって変に勘ぐられちまった。
 でも、この話をしたらそいつもびびっちまって、それからは二人で固まって夜を明かして、翌朝にはバイト代も受け取らずに辞めちゃったんだ。
 それっきりそのデパートには行ってないし、特に調べてもいないから、どうしてベビーカーの幽霊が現れたのかはわからない。子供が亡くなったとか、何か理由があるのかもしれないけどな。
 あはは。オチがつかなくてごめんな。
 なんなら弘長、あとでどこにあるデパートか教えるから、お前、調べてみるか?
 なんて、教師が生徒にそんな危ない真似させちゃまずいか」

 そう言って路地先生は、また快活に笑った。
 よく笑う先生だった。
 僕も笑顔で応じながら、でも背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
 話の途中からずっと聞こえていた。
 先生が笑うたびに、それに重ねるようにして。
 きゃはははは。
 と、かすかに聞こえていた。

 先生の口から、5〜6歳くらいの子供の笑い声が。



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