花子さん

〜008 トイレの花子さんの噂〜

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 ――三階女子トイレの奥から三番目の個室のドアを15回ノックして「花子さん」と呼んでごらん。きっと返事が聞こえるよ!



「で?」僕は冷たく言った。
「で? じゃねえよ。せっかく俺が新しい噂を持ってきてやったのになんだその言いようは」不知火光(しらぬい・ひかる)は子供のように口を尖らせた。
「学校の噂の定番、トイレの花子さんだ。まだ検証してないだろ」
「たしかに検証はしてないが、してなけりゃいいってもんじゃないだろ」僕は不知火が寄越したメモ書きを突き返す。
「こんな噂なら百年前から知ってる。だいたいトイレの花子さんなんて中学生が検証するような噂か?」
「千里の道も一歩からと言うだろ。初歩的なことをおろそかにして大業が成し遂げられると思うなよ」
 偉そうなことを言う不知火を蹴り飛ばしながら、それでも僕は反省する。
 僕――弘長知子(ひろなが・ともこ)は放送部に所属する才色兼備の中二女子で、お昼休みに週二回のワンコーナーをもらい、そこで校内でまことしやかに囁かれる噂の検証を行なっている。
 まずまずの好評を博したおかげで放送日が一日増えたのだが、そのため検証する噂がたくさん必要になり、猫の手も借りたいつもりで不知火に相談したのが……ご覧の有様である。不知火なんかに相談した僕が悪いのだ。

「そもそもこれ、弥生(やよい)ちゃんの字だろ。小学生の噂じゃないか」弥生は不知火が溺愛する7歳の姪っ子である。猫の手を借りようとしたら、猫は小学生の手を借りてきたのだ。
「弥生がわざわざお前のために教えてくれたんだぞ。お前は小学生の純真な心をむげにするのか」
 そう言われると弱い。弥生は幸いにも不肖の叔父に似ず、利発な可愛らしい少女で、僕のことも慕ってくれている。彼女の顔を思い出すと、たしかにむげにはできない。
「弥生ちゃんの名前を出されたらしかたない。検証するよ」僕は嘆息した。「でも検証してなにも起きなかったら、その時はお前の頭を15回ノックしてやるからな」



 嫌がる不知火を引きずって旧校舎三階の女子トイレにやってきた。さすがにひと気のある新校舎の方でトイレの花子さんに呼びかけるのは、誰かに見られたら恥ずかしいし、なにより不知火を連れ込むことができない。
 隙を見て逃げ出そうとする不知火ににらみを利かせながら、僕は問題の個室の前に立った。
「じゃあ始めるぞ」
 1つ、2つ、3つ、4つ、だんだん面倒になり残りの11回は連打して、僕はしぶしぶ呼びかけた。
「はーなこさん」
「はい?」

 即座に返事があった。

 僕と不知火は顔を見合わせた。
 次の瞬間、逃げ出そうとする不知火の首根っこをつかんだ。
「待てなぜ逃げる。検証が成功したんだから殴らないぞ」
「成功したなら余計に逃げるわ!」
 もやしっ子の不知火を難なく羽交い締めにすると、奥から三番目のドアがゆっくりと開き……少女が姿を現した。
 僕らと同い年くらいだろうか。知らない制服をまとった彼女は、ごく普通の、生きている人間に見えた。

「ご、ごめんね。入っていたのに気づかなくて」たまたま旧校舎の偶然にも奥から三番目のトイレを奇遇にも利用していただけだと思いながら尋ねると、彼女は平然と首を振った。
「いいえ、入ってたんじゃないです。呼ばれたので、出てきました」
「う、嘘だろ」不知火が聞き返す。「ど、どう見たってあんた、普通の人間じゃないか。じ、自分がトイレの花子さんだって言うのか」
「いいえ、私はトイレの花子さんじゃありませんよ」彼女は笑った。
 ただトイレに入っていたにしてはこの奇妙な事態に全く動揺していない。
 トイレの花子さんにしては、あまりにも普通の人間に見える。だが制服は見慣れないもので、我が校の女子ではない。旧校舎は他校の生徒がふらっと立ち入れる場所ではないし……。
 いったい彼女は何者なのだ。
「OK、わかった」不知火は考えるのをやめた。「じゃあ君は弘長に呼ばれたから出てきたんだね。でもトイレの花子さんじゃないとしたら、君をなんて呼べばいいのかな」
「そうですね。でもやっぱりわかりやすいように戸入野花子(といれの・はなこ)とでも名乗っておきましょうか。花子さんとお呼びください。気さくに花ちゃんでもいいですよ」
「俺は不知火光だよ。光でいいよ。花ちゃんよろしく」
「よろしく光さん」
 握手を交わす二人の間に僕は割って入った。
「待て待て待て待て。おい不知火、平然とこの状況を受け入れるな。こっちに帰ってこい」
「なんだよ。花ちゃんと俺の仲を邪魔するな」
「花ちゃんって呼ぶな」反射的に不知火にビンタを見舞ってから、僕は自称花子に向き直った。
「いくつか質問させてくれ。まず、君は人間だな」
「もちろん人間です」花子(仮)は不躾な質問にも動じない。
「そして転校生だな。制服が違う」
「転校生ではありません」
「じゃあ他校の生徒だ。たまたまこのトイレに入っていた」
「いいえ。私はトイレに入っていたんじゃなくて、知子さん、あなたに呼ばれたから出てきたんです」
「……どうして僕の名前を知っている」
 彼女は黙って僕の胸元を指さした。なるほど、名札か。どうやら僕は自分で思っているよりも冷静ではないようだ。一息つこうと洗面台で顔を洗おうとして、水道が通っていないことに気づいた。やはり冷静ではない。

「質問を変えよう。それなら君はどうして僕の呼びかけに応じて出てきてくれたんだ」
「知子さんっておかしなことを言うのね」花子(仮)は首をかしげて微笑んだ。
「だって、トイレの花子さんってそういうものでしょう。奥から三番目の個室を15回ノックしたら出てくる、そう決まっているじゃない」
「…………」駄目だ。この女と話していると頭がおかしくなりそうだ。隣で花子(仮)の発言にいちいちうなずいている不知火ともども抹殺してやりたいという危険な衝動にかられる。
「……待てよ」その時、僕はもっと重要なことに思い至った。
「あんた……どこから旧校舎に入ったんだ」
 旧校舎はあちこち老朽化していて危険なため、扉も窓も施錠されている。新校舎とは渡り廊下でつながっているが、他校の制服を着た不審人物がそちらから侵入したとは思えない。鍵を教師に借りない限りは旧校舎に立ち入ることはできないはずだ。
「僕らは鍵を借りてここに入った。鍵は僕が持っているこの一つ切りだ」
「だから、花ちゃんは呼ばれたから出てきたんだって」みぞおちへの肘打ちで不知火を黙らせ、僕は断定する。
「あんたはこの学校の制服をネットオークションか何かで手に入れ、渡り廊下を通って堂々と旧校舎に入った。あそこは封鎖されているけど、それほど厳重な封鎖じゃないからね。そしてこのトイレに入り着替えた」
「それなら着替えた制服はどこにあるの? ほら、トイレの中にはないわ」
 花子(仮)は出てきた個室のドアを大きく開いてみせる。たしかになにもない。
「ビニール袋にでも詰めて貯水槽に沈めたか、あるいは窓から外に放り投げたかだ」
「そう思うなら調べてみて。私はいま着ているこれ以外に制服なんて持ってない」
 自信満々の返事だ。それならば抜け道はもうひとつある。
「じゃあこれしかない。あんたはたまたま壊れていた窓からトイレに入ったんだ」
「窓? そうね、一番奥の個室には窓がついてるけど、鍵がしまってるわ。それに私が出てきたのは奥から三番目の個室よ」
「鍵はたまたま壊れていたか、もしくは開いていた。窓の外には樹が生えていたはずだ。枝を利用すれば窓にも近づける。そして個室の壁は上部が切り開かれている。便器の上に乗れば、簡単に乗り越えられるだろう」
「知子さんって見かけによらず頑固なのね」花子(仮)は腕を組んだ。
「たまたま鍵が壊れていて、たまたま窓の外に樹があって、たまたま侵入できた私はむりやり壁を乗り越えて隣の個室に移り、たまたま訪れたあなたたちと出会った。ちょっと論旨が強引過ぎはしないかしら。
 それより、私が本当にトイレの花子さんで、あなたに呼ばれたから出てきた、そう考えたほうが単純じゃない?」
「単純でもなんでも僕はそんなむちゃくちゃな論理は受け入れられない」
 不知火じゃあるまいし。
「そう、残念ね」花子(仮)は顔を曇らせ、うつむいた。顔を上げた拍子にポニーテールが揺れる。
「でもしかたないわ。だからあなたは、こうして噂の検証をしているのでしょう?
 わからないことを、知らないことをそのままに放置しないで、きちんと調べている。だから私にも会えた」
「……言っている意味がわからない」
「わからないなら、わかるまで何度でも私に会いに来ればいいわ。奥から三番目の個室を15回ノックしてくれれば、私はいつでも出てくるから」
 そう言うと花子(仮)は、なんの前触れも無しに、まるで最初から決まっていたように突然きびすを返すと、奥から三番目の個室に入り、ドアを閉めた。
 僕は数秒間、あっけに取られてから、すぐに後を追ってドアを開いた。

 中には誰もいない。

 が、すぐ隣の個室から窓を開く音がした。
 すかさず隣の個室に駆け込む。窓は開いている。だが彼女の姿はもうない。
 僕は便器に脚をかけると、窓の外をのぞいた。
 すぐ側に樹が――生えている。丈夫そうな枝も伸びている。やはり運動神経さえ良ければ、乗り移れるはずだ。
 周囲を見回した。ポニーテールが視界の隅に見えた気がした。
「やっぱり――ただの人間じゃないか」
 僕は個室から出た。不知火の姿はない。花子(仮)の行方に気を取られた隙にこれ幸いと逃げ出したようだ。

「…………」
 僕はすこし迷って、奥から三番目の個室をノックした。
 1つ、2つ、3つ、4つ、ゆっくりと叩き、15回目のあとに呼びかけた。
「…………花子さん」
「はい?」

 僕は、ドアを開けずにトイレを出ていった。



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