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三 国 志

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〇七三   鶏肋の地





許昌(きょしょう)の都

献帝
(けんてい)

皇帝



「何者だ!?」
献帝
(けんてい)


「驚かせてしまい申し訳ありません、陛下。
しかしご安心召されよ。私は曲者ではありません。
それどころかあなたのこの上ない味方なのです」
魏諷
(ぎふう)


「味方だと?」
献帝
(けんてい)


「ええ。曹操によって傀儡の立場に置かれた陛下を解放するため、私は馳せ参じたのです。
さあ陛下、私とともに立ち上がりましょう。そして天下に号令をかけるのです。
今こそ漢王室を再興させるのです!」
魏諷
(ぎふう)


「……朕にはそちの言っていることがわからぬ」
献帝
(けんてい)


「おわかりにならない? いえ、私は全て存じているのです。
曹操によってないがしろにされた陛下の胸中がいかばかりか。
どれだけの悲憤の炎が渦巻いているのか!」
魏諷
(ぎふう)


「ち、朕は決して曹操のことを――」
献帝
(けんてい)


「そこまでだ」
曹丕
(そうひ)


「なっ!? き、貴様は……曹丕!?」
魏諷
(ぎふう)


「程昱君の言った通りだったね。謀叛人がのこのこと陛下の御前に顔を出したよ」
曹丕
(そうひ)


「フン。ワシは荀攸から魏諷のことを聞いておっただけじゃ。
荀攸も荀彧から聞いておったそうじゃがな。
隠居に面倒なことをさせおって。ワシがわざわざ注進してやらなければ大変なことになっておったぞ」
程昱
(ていいく)


「もちろん僕の方でも魏諷の動きは把握していたよ。
ずいぶんとお仲間を集めていたようだから、泳がせて一網打尽にしようと思っていたのさ」
曹丕
(そうひ)


「……貴様が現れたのならば、我が同志は全て捕らえられたのだろうな」
魏諷
(ぎふう)


「いや、捕らえるだなんてまだるっこしいことはしない。もう全員殺したよ」
曹丕
(そうひ)


「!?
…………そうか。父・曹操をも上回る非情さだな。噂通りだ」
魏諷
(ぎふう)


「さてね。もう別に君の処刑を急ぐ必要もない。
せっかくだから聞かせてくれないか。陛下をかどわかし、それからどうするつもりだったんだい?」
曹丕
(そうひ)


「まずは近衛兵長の王必を殺し、近衛兵を手中に収め、我が同志とともに許都を占拠する。
連絡を取りあい、我らの同志を指揮官として送り込んでいる各地の賊徒を一斉に蜂起させる」
魏諷
(ぎふう)


「ふうん。首尾よく王必君は殺せたようだね。でも近衛兵は君の指示に従わなかったようだ。
それから?」
曹丕
(そうひ)


「殿下! このような謀叛人のたわ言など聞く価値は――ぶげらあああっ!?」
呉質
(ごしつ)


「それから? 続けたまえ魏諷君」
曹丕
(そうひ)


(ガクガクブルブル)
司馬懿
(しばい)


「そうして曹操の遠征軍の退路を断ち、劉備軍とともに遠征軍を挟撃する。
さらに孫権を合肥、徐州に攻め入らせ、北方は袁家の残党に荒らさせる。
これで魏の、いや曹家の支配は崩壊だ!」
魏諷
(ぎふう)


「へえ。それは大したものだ」
曹丕
(そうひ)


「曹丕よ! わかったか! 貴様らの命は風前の灯だったのだ!
私を斬り捨てても、すぐに第二・第三の魏諷が現れる! 震えて眠るがいい簒奪者よ!」
魏諷
(ぎふう)


「……桓階君、彼の話をどう思う?」
曹丕
(そうひ)


「大言壮語……ですな」
桓階
(かんかい)


「そうだ。私の卓越した発想は貴様らの心胆を寒からしめたのだ!
曹丕よ。私を惜しいとは思わぬか? 貴様ら父子を殺しかけた我が才能を。
曹丕よ。貴様ならば私という才を使いこなせるのではないか?」
魏諷
(ぎふう)


「……やれやれ。どうやら君は勘違いしているようだね」
曹丕
(そうひ)


「勘違い……?」
魏諷
(ぎふう)


「桓階君は君のことを身の程知らずだと言ったのだよ。
君の身の丈にふさわしくない、ただの大言壮語だとね」
曹丕
(そうひ)


「な……んだと?」
魏諷
(ぎふう)


「実を言うと君を見逃してあげてもいいと思ってたんだ。
もしも君の言葉がたったの一度でも、僕を驚かせることができたらね。
でも失格だ。君の卓越した発想とやらは、何一つとして僕の予想の範疇を出なかった」
曹丕
(そうひ)


「………………ま、待ってくれ! わ、私は――」
魏諷
(ぎふう)


「もう君に興味はない。死にたまえ」
曹丕
(そうひ)


「ぎゃあああああああああ!!!」
魏諷
(ぎふう)


「うう…………」
献帝
(けんてい)


「これは陛下、お目汚しをしてしまい申し訳ない。
汚らわしい死体はすぐに片づけますので、どうかご容赦を。
もう何も心配はいりません。ゆっくりとお休みください」
曹丕
(そうひ)


「あ、ああ……」
献帝
(けんてい)


「ほら、いつまでうずくまってるんだい呉質君。陛下の御前だよ。
それにしても僕の周りに武勇の士がいないのはちょっと問題だね。
こうした時には僕が自ら手を下さなければいけない。
誰か腕の立つ人を友達にしないとね」
曹丕
(そうひ)


「……………………」
程昱
(ていいく)


「……………………」
献帝
(けんてい)



長安(ちょうあん)




「曹丕兄上が都の反乱を鎮圧したって?
またしても兄上が……。
都を離れてさえいなければ僕が……」
曹植
(そうしょく)


「そ、曹植。落ち着きなさいよ。
お父上が留守の時に、都や兄君に何もなくて良かったじゃないの」
何晏
(かあん)


「めったなことを言うな。何かあれば、なんて思ってもいないさ。
でも、兄上ではなく僕が都に残っていれば、きっと鎮圧していたのは僕だったのに……」
曹植
(そうしょく)


「殿下は都から遠征軍へ兵糧を届ける大任をあずかっているのだ。
兄君が欠けても、殿下が欠けても、遠征軍や魏王は困るのだよ」
楊脩
(ようしゅう)


「そうだ、父上は何かおっしゃっていたか?
君は兵糧を届けたついでに父上と話してきたのだろう?」
曹植
(そうしょく)


「戦の真っ最中だから多忙でな。軍議をしながら食事をしておられた。
私もそこに通されて挨拶をしただけだ。
ただ……食べながら『鶏肋(けいろく)だ』とつぶやいておられたな」
楊脩
(ようしゅう)


「ケイロク? 鶏の……あばら骨のこと?」
何晏
(かあん)


「鶏肋とはなんのことか、殿下にはわかるか?」
楊脩
(ようしゅう)


「またそうやって僕を試そうとする……。
そうだね。鶏のあばらは美味いしダシも取れるが、肉は少なく、さして惜しいものではない。
漢中も鶏肋のようなものだと思われたのではないか」
曹植
(そうしょく)


「そう。漢中は魏の支配領域からは突出した土地で、兵を送るのも補給をするのも困難で守りづらい。
益州と漢中はちょうど唇と歯のような関係だ。益州にとっては重要拠点でも、
我々にとっては唇だけ、歯だけのものだ。必死に守っても、労多くして功少なしというところだ」
楊脩
(ようしゅう)


「せっかく奪った漢中を劉備にむざむざ獲られるのはしゃくだけど、
父上はそんなことは瑣末事だと考えるだろうね」
曹植
(そうしょく)


「へえ。ほら曹植、離れててもあなたと御父上の心はつながってるじゃないの。
きっと御父上の心を誰よりも理解してるのはあなたなのよ」
何晏
(かあん)


「おべんちゃらはよしてくれ」
曹植
(そうしょく)


「まあまあ。そうだ、最近いいクスリが手に入ったんだけどどう?」
何晏
(かあん)


「僕はそういうのは嫌いだと言ったろう。一人でやっていたまえ」
曹植
(そうしょく)


「待ちなさいよ曹植!」
何晏
(かあん)



漢中 南部 馬超軍




「やっぱりおかしいで、殿。いまさら龐徳が殿に会いたいだなんて、あいつらしくあらへん。
これはきっと魏の罠に違いないで」
馬岱
(ばたい)


「罠だろうと構わない。なぜなら馬超も龐徳に会いたいからだ!
そして龐徳と再びくつわを並べて戦場を駆けたい!」
馬超
(ばちょう)


「……もし本当に龐徳が現れたとしてや。殿とはもう一緒に戦えない、殿は敵だって言われたらどうするんや?」
馬岱
(ばたい)


「その時は馬超と龐徳、どちらの武勇が上かを競うだけだ!」
馬超
(ばちょう)


「あかん。董白の姐御に黙って出てきたのは失敗やった。
わてでは止められへん……」
馬岱
(ばたい)


(来たぞ……)
趙昂
(ちょうこう)


(ほ、龐徳が呼んでるって、あんな偽手紙に本当に引っ掛かるなんて……)
姜叙
(きょうじょ)


(単細胞な男じゃけん、必ず来ると思っとったわ。
お供は馬岱だけ。討ち取る好機じゃ!)
王異
(おうい)


(しかしこれは殺されたワシらの息子や姜叙の母上ら人質たちの仇討ちじゃ。
馬超を不意打ちで何もわからないまま殺したら、みなの無念は晴れん)
趙昂
(ちょうこう)


(そうじゃ。不意打ちしたら馬超と同じ卑怯者じゃ。
あんた、正々堂々と名乗りをあげたらんかい!)
王異
(おうい)


(や、やっぱり馬超と正面から戦うのかあ……)
姜叙
(きょうじょ)


「馬超!!」
趙昂
(ちょうこう)


「ん!? 馬超を呼んだのは龐徳か?」
馬超
(ばちょう)


「龐徳やない。わしの名は趙昂! この名を覚えているか!?」
趙昂
(ちょうこう)


「趙昂が妻の王異じゃ! この顔を見忘れたとは言わせへんぞ!!」
王異
(おうい)


「き、き、姜叙、です。いや、姜叙だ! か、母ちゃんの仇!!」
姜叙
(きょうじょ)


「チョーコーにオーイ……。その名前はついこないだ聞いたことがあるぞ!」
馬超
(ばちょう)


「あかん! 関中を制圧した時に楊白のアホが人質を殺したせいで、わてらを恨んでる連中や!
やっぱり罠だったんや殿!」
馬岱
(ばたい)


「とにかく敵なんだな? だったら馬超は逃げも隠れもしない! かかってくるがいい!!」
馬超
(ばちょう)


「よし、手はず通り行くぞ! 王異!」
趙昂
(ちょうこう)


「覚悟しいや!!」
王異
(おうい)


「女の矢なんかに馬超が当たるか!」
馬超
(ばちょう)


「おっと、気いつけや馬超! これは毒矢じゃ! かすり傷でも死ぬけんのう!」
王異
(おうい)


「毒矢とは卑怯な!」
馬超
(ばちょう)


「人質を皆殺しにした奴が何を言うか! 姜叙!」
趙昂
(ちょうこう)


「く、く、喰らえ!」
姜叙
(きょうじょ)


「投網か! 危ない殿!」
馬岱
(ばたい)


「くっ! 馬超の馬が投網に掛かってしまった!」
馬超
(ばちょう)


「馬無しでウチの矢をどこまで避け切れるか見ものじゃのう!」
王異
(おうい)


「そんな矢には当たらないと言ったはずだ!!」
馬超
(ばちょう)


「殿! 背後に趙昂が来とる!」
馬岱
(ばたい)


「隙ありィ!!」
趙昂
(ちょうこう)


「見えている!!」
馬超
(ばちょう)


「ぐわああっ!! ぐっ……。掛かったな馬超……。この槍は離さんぞ……」
趙昂
(ちょうこう)


「は、離せ! こいつ……腹を貫いた槍をしっかりつかんで……」
馬超
(ばちょう)


「殿! 槍は捨てい! 矢が来とる! 今行くで!」
馬岱
(ばたい)


「ば、馬超の所には行かせない!」
姜叙
(きょうじょ)


「邪魔や!!」
馬岱
(ばたい)


「うわああああ!! ぼ、僕じゃ無理か……で、でも……」
姜叙
(きょうじょ)


「な、なんやこの煙は?
ゴホッ! ゲホッ! こ、こいつ体に何か仕掛けとったのか!?」
馬岱
(ばたい)


「馬と槍は封じられ目も利かない! ウチらの身を捨てた策で死ねや馬超!!」
王異
(おうい)


「当たらないったら当たらない!!
煙で何も見えなくても……矢の飛んでくる位置から考えて……。
そこだあッ!!」
馬超
(ばちょう)


「ぐああああっ!! け、剣を投げよったか……。
じゃ、じゃがウチは見たで……。ウチの、ウチらの矢が……馬超に当たったの、を……」
王異
(おうい)


「殿!!」
馬岱
(ばたい)


「心配いらない。かすり傷だ!」
馬超
(ばちょう)


「だからそのかすり傷で死ぬ毒矢なんや!! は、早く陣に戻って治療を――」
馬岱
(ばたい)


「射て」
朱霊
(しゅれい)


「うああああっ!!」
馬超
(ばちょう)


「なっ!? ま、まだ敵がおったんか!?」
馬岱
(ばたい)


「くっくっくっ……。趙昂らが何か企んでいると、見張らせておいて正解であったな。
刺客を退けて油断したところに一斉射は効いたであろう?」
朱霊
(しゅれい)


「し、朱霊……。う、ウチらの仇討ちに……水を差しおって……」
王異
(おうい)


「ほう、まだ息があったのか。感謝しろ。お前らの代わりに仇を討ってやる。
もっとも私にとって馬超は仇でもなんでもないがな」
朱霊
(しゅれい)


「毒矢は当たったんじゃ……。仇を討ったのは……ウチら、じゃ……」
王異
(おうい)


「フン。死んだか。
もっと矢の雨を浴びせよ。ついでに馬岱とやらの首も獲ってやれ」
朱霊
(しゅれい)


「………………」
路招
(ろしょう)


「何か言いたそうだな路招」
朱霊
(しゅれい)


「いいや。
――もっと射かけよ! 馬超らを逃がすな!」
路招
(ろしょう)


「殿! しっかりせえ! これは毒矢やないで! そのくらい殿なら平気や!」
馬岱
(ばたい)


「ああ、何本かもらったけど馬超は大丈夫だ……。
でも煙がまだ晴れないのか? 辺りがぜんぜん見えないぞ……」
馬超
(ばちょう)


「煙なんかとっくに晴れて――。
あかん! 毒が回ってきとるんや! やっぱり効いとるやないか!」
馬岱
(ばたい)


「そうか、毒か……。
だが目は見えなくても耳は聞こえる……。
そこおおおぉぉぉぉッ!!」
馬超
(ばちょう)


「フン。苦しまぎれに折った槍の切れ端を投げたか。
だがどこを狙っている? そこにいるのは私ではなくて王異の死体――」
朱霊
(しゅれい)


「し、朱霊! 脚をよく見ろ! 馬超が狙ったのはお前じゃない! 王異の矢筒だ!」
路招
(ろしょう)


「脚? ……わ、わ、私の脚に! 王異の矢筒から飛んだ矢が!! 矢があああ!!!」
朱霊
(しゅれい)


「動揺して矢の雨が収まったで! わての馬に乗るんや! 逃げるで殿!」
馬岱
(ばたい)


「………………」
馬超
(ばちょう)



定軍山 劉備軍 本陣




「曹さんの陣が空になっとるじゃと!?」
劉備
(りゅうび)


「魏軍にとって漢中を領有する意味はさして無い一つは立地の困難さ漢中は魏の領土からは突出しており益州からは攻めやすいが魏にとっては守りづらい要害の陽平関も長安や北から攻める分には機能するが南から攻められては無用の長物だ二つに補給の困難さ前年に曹操が張魯を攻めた時も険阻な地理に苦戦していた山岳が多く隘路をついて容易に背後を取られ補給線を断たれる危険も常に付きまとう三つに後方の情勢だ魏諷が反乱未遂を起こし魏の都は揺れている曹操もこれ以上の遠征は避けたいところだろう以上の観点からして漢中の維持は無理と判断し魏軍は兵を退いたのだろう」
馬良
(ばりょう)


「お、おう……。と、とにかく漢中は攻略できたんじゃな?
馬良さんが饒舌モードになるくらい大変な戦じゃったけど、なんとか勝利を収められたのう!」
劉備
(りゅうび)


「下弁にいた曹洪軍、葭萌関に入っていた于禁軍の撤退も確認した。
曹操軍は長安、上庸、関中に新たな国境線を引き、その堅守に回ったと見ていいじゃろう。
いかにも曹操らしい思い切った全面撤退っぷりじゃ。
……ふう。さすがに今回は疲れたぜよ」
法正
(ほうせい)


「この勝利は法さんのおかげじゃ! いやはや、すごかったのう法さん。
曹さんと真正面から対決して勝ったんじゃぞ! わしは曹さんに勝ったのは初めてじゃ!」
劉備
(りゅうび)


「ワシの力なんて微々たるものだ。
黄忠将軍や張飛、趙雲将軍、それに益州の皆の働きがあったからぜよ。
それでも馬超将軍は重傷を負ってしまったし、雷銅や呉蘭ら何人もの将兵を失ったき。
ワシがもっとうまくやっておれば……」
法正
(ほうせい)


「なに言ってるんスか! 法正先輩が指揮を取ってなかったらもっと被害が出ていたッスよ。
いや、ひょっとしたら勝つことすらできなかったかも知れないッス!」
趙雲
(ちょううん)


「ええ。法正にこんな軍師の才があったとは知りませんでしたよ」
呉懿
(ごい)


「法正がこんな有能な軍師サマだとは知らなかったタイ!
能ある鷹は爪をなんとやらタイ!」
黄権
(こうけん)


「おうおう。黄権さんの言うとおりじゃ!」
劉備
(りゅうび)


「身に余る世辞はそのくらいにしておくぜよ。
それより今後のことを考えなけりゃいかん。
ワシに一つ策があるんじゃが、聞いてもらえるか」
法正
(ほうせい)


「聞くとも聞くとも。
それで今度はどこを攻めるんじゃ?
――いやいや、法さんは働き詰めで疲れとるじゃろ。戦を急がず今度こそ休んだほうがいいぞ」
劉備
(りゅうび)


「それなら心配いらん。今度の策は兵を使わんからな。
ただ一つ、文書を発給するだけの簡単なお仕事ぜよ……」
法正
(ほうせい)



漢中 北部 曹操軍




「劉備君が漢中王を名乗った…………だって?」
曹操
(そうそう)


「むしろ売りが王を名乗るとはこしゃくな!
だが漢中王とはずいぶんとせせこましい王ですな!
益州王と名乗らなかったのは、魏王の威徳を恐れたからでしょう!」
王朗
(おうろう)


「違う。漢中王か。これは……妙計だ」
劉曄
(りゅうよう)


「ええ。もし王朗の言うように益州王を名乗っても、魏王と並べれば比較にもなりません。
たかだか一州の王に過ぎない自分の矮少さをひけらかすだけでしょう。
しかし漢中王という称号は劉備にとって別の意味を持ちます」
華歆
(かきん)


「左様。劉備は漢王朝の再興の祖である劉邦(りゅうほう)の子孫を自称しておる。
その劉邦が名乗ったのが漢中王だ。劉備は自身を劉邦になぞらえたのであろう」
賈詡
(かく)


「同時に我々を、強大な力を持ちながら劉邦に敗れ去った項羽(こうう)に見立てたいのだろう。
たかが一郡の王に過ぎない称号だというのに、その響きは魏王をも上回りかねない」
劉曄
(りゅうよう)


「魏王だなんだと言っても、しょせん僕らも漢王室の一員にすぎない、というわけだね。
ふむ。誰が劉備君にこんな知恵をつけたのだろうね……」
曹操
(そうそう)


「か、かくなる上は魏王! 漢中王などという虚名を消し去るためにも、漢王室を――」
王朗
(おうろう)


「おっと。そこまでにしておきたまえ。
いくら王朗君でも、それ以上のことを口にしたら、処分しないわけには行かなくなってしまう」
曹操
(そうそう)


「こ、これは、その、なんと言いますか、決して私はそのような――」
王朗
(おうろう)


「そんなことよりも、こうなると漢中を簡単に放棄したのが惜しまれるね。
やはり無理をしてでも戦うべきだったのかな」
曹操
(そうそう)


「しかしこれまでにも夏侯淵将軍をはじめ多くの犠牲を払っている。
あのまま戦っていれば、勝てたとしてももっと被害が出ていただろう」
杜襲
(としゅう)


「そうそう! 朱霊も負傷したそうですしな!」
王朗
(おうろう)


「朱霊君か。彼は処分しなければいけないね」
曹操
(そうそう)


「ひっ…………」
王朗
(おうろう)


「いまだに馬超を仇と付け狙っておった趙昂らも愚かだが、
それを見殺しにした朱霊は許しがたい!」
楊阜
(ようふ)


「まったくだ。これから彼らがどれだけ国家のために尽くしてくれたことか……。
しばらく朱霊君は于禁君の下にでも付けるとしよう」
曹操
(そうそう)


「それで魏王、手薄になった関中の守りは誰に任せるのだ」
劉曄
(りゅうよう)


「長安を任せている鍾繇君もいい年齢だからね。最前線を担わせるのも気の毒だ。
彼は都に呼んで、代わりに西方は曹真君に任せようと思う」
曹操
(そうそう)


「お、俺ですか!」
曹真
(そうしん)


「こたびの戦では君と曹休君にも一軍を率いてもらい、働きぶりを見せてもらった。
君には西を、曹休君には東の軍権を任せよう」
曹操
(そうそう)


「エクセレント! 孫権への備えは私にお任せください」
曹休
(そうきゅう)


「曹真君には夏侯淵の後任の張郃君、杜襲君、郭淮君、楊阜君をつける。
曹洪君たちも残しておくよ。関中の諸侯や異民族の兵も使ってくれたまえ」
曹操
(そうそう)


「わかりました! 益州を一呑みにしてやります!」
曹真
(そうしん)


(上層部の人事を一新して、敗戦の空気を入れ替えるか。
魏王にしては手堅い策であるが、前線の将をそのまま据え置くのはちと消極的に過ぎるな)
賈詡
(かく)


「賈詡君は考えがすぐに顔に出るね。
僕が前線の将を入れ替えないことにはもちろん考えがあるからさ」
曹操
(そうそう)


(賈詡殿の顔はいつも同じに見えるが……??)
華歆
(かきん)


「これは失礼いたした。それでは無礼ついでに考えをお聞かせいただきましょうかな」
賈詡
(かく)


「それには及ばない。おそらくそろそろ急報が届くはずだよ」
曹操
(そうそう)


「魏王! 荊州の曹仁将軍から急報です!」
董昭
(とうしょう)


「そら来た! 関羽君だね?」
曹操
(そうそう)


「は、はい! 関羽が動きました! 樊城(はんじょう)をさして北上しています!」
董昭
(とうしょう)


「関羽が……。なるほど、合点が行きました。
小生らは関羽に備えなければいけない。そのためには関中の守りを抜本的に改めている暇はありませんな」
賈詡
(かく)


「葭萌関を捨て僕らの背後を狙うような策謀の持ち主なら、もっと遠大な計を描いていると思っていたんだ。
さあ、これから忙しくなるよ。関羽君は劉備君の軍師にとって切り札だ。
漢中の攻略や漢中王を名乗ることよりも、もっと大きなことを彼は考えているに違いない」
曹操
(そうそう)


「関羽を止められなければ、我々を待っているのは敗北だけでしょう!」
華歆
(かきん)


「そうさ。孫権君も動くだろう。魏諷君が各地に蒔いた火種も燃え始めるだろう。
後手に回るのは不本意だが、事態がどう動くかまだわからない。まずは都に戻るとしよう」
曹操
(そうそう)







かくして曹操は鶏肋と化した漢中を捨てた。
しかし法正は鶏肋を漢中王の名で妙計へと塗り変える。
そして軍神はついに北上を始めようとしていた。




〇七四   漢中王の名の下に