家別キャラ(東北~関東)

北条家

北条氏康 北条氏政 北条幻庵 風魔小太郎 風魔小太郎Ⅱ世


甲斐姫 ☆
北条家の家臣・成田家の娘。小田原城の戦いで石田三成に攻められるも、水攻めを逆用して苦しめついに落城させなかった。
後に秀吉の側室となり、豊臣秀頼の養育係になったとも、武勇を活かして隠密を務めたとも言われる。
だが半分は空想上の人物であり、「秀吉の側室に甲斐姫という人物がいた」という以外に確かな文献はない。
しかし実在したとすれば、この敗北で三成は加藤清正、福島正則ら武断派に侮られ、出世するごとに「女に負けた奴が」と恨みを買い関ヶ原での敗戦につながったと言えなくもない。


北条氏直 ◯
北条氏政の嫡子。北条家の五代目。実権はほとんど父が持っていた。
秀吉にも警戒されていなかったのか、処刑されずにいたが、復帰の直前に謎の死を遂げた。


北条氏照 ▲
北条氏康の三男。勇猛で北条家の筆頭格として各地を転戦した。
小田原征伐では徹底抗戦を唱え、敗北すると主戦派として処刑された。


北条氏邦 ▲
北条氏康の四男。名は藤田氏邦が正しいらしい。兄の北条氏照とともに勇名を馳せた。
小田原征伐では野戦を主張するも容れられず、前田軍に敗れ降伏した。
前田利家のとりなしで処刑は逃れ、数年後に病死。北条家の最後の大物とあって葬儀には山のような参列客が押し寄せたという。

成田氏長 ▲
北条家。甲斐姫の父。はじめは上杉家に仕えていたが後に北条家に鞍替え。
織田軍が侵攻してくると降伏し、信長が死ぬと北条家に出戻りと巧みに立ち回った。
小田原征伐にあたっては忍城を守り、石田三成の大軍の猛攻に屈せず、小田原落城まで耐え抜いた。
その後は蒲生家に仕え、甲斐姫が秀吉の側室になると下野の大名に封じられた。

北条氏繁 △
北条綱成の嫡子。父にも劣らぬ名将で下総方面の軍権を任され、里見・佐竹・結城家と戦った。
外交手腕も巧みで北条氏康からも信頼されたが、隠居した父よりも早く病死した。
教養もあり、多数の絵画を残した他、鷹の飼育をさせても名人芸だったという。

伊東一刀斎 ▲
伝説的な剣豪。諸国を遍歴し無敗を誇った。剣豪の中でも最強説があるが事績は判然としない。
やはり剣豪として知られる神子上典膳や、大谷吉継の師であるとか、中国の剣豪と扇で戦い勝利したとか伝わる。

板部岡江雪斎 ▲
北条家。外交・寺社奉行を担当した。執権北条家の子孫だという。
徳川家との同盟をまとめたり、小田原征伐にあたっては秀吉との和睦のために奔走した。
その際に秀吉に気に入られ、北条家の滅亡後には御伽衆に迎えられた。
信玄の没後に「本当に信玄は死んだのか」探りに行くも、武田信廉が演じる影武者に騙された逸話がある。

大道寺政繁 △
北条家の三代に仕えた家老。内政手腕に優れ、大きな戦にも必ず参戦した。
秀吉の小田原征伐では果敢に戦うも城を囲まれて降伏。逆に北条方の領地の道案内役となり、城の弱点を教え、自身も激しく戦い秀吉軍を大いに助けた。
だが戦後、秀吉に北条家を抵抗させた戦犯として(寝返りを快く思わなかったとも)切腹を命じられた。


松田憲秀 ▲
北条早雲以来の家老の家柄。北条家の縁戚でもある。
内政・外交手腕に長け、伯父の北条綱成とともに各地を転戦もした。家臣団の中では大名クラスの権力を持っていた。
秀吉の小田原征伐では当初は徹底抗戦を主張するものの、堀秀政の工作で内応を決意。しかし次男の密告によって露見し監禁され、戦後には秀吉に「不忠者」として切腹を命じられた。なお戦いのさなかに割田重勝に馬を盗まれている。
別説として、北条家の家名を保つため勝手に秀吉と和睦の交渉をしたため監禁されたとも言われる。

北条氏規 ▲
北条氏康の五男。幼少期は今川家に人質として預けられ、一時期は今川義元の養子だった。その頃に幼い徳川家康とも知己だったという。
長じると北条家の外交を担当し、上杉・武田・徳川・伊達らの間を駆け回り、旧知の家康との間には多くの書状が残されている。
秀吉の小田原征伐では事前に水面下で和睦の交渉を進めるも結局は開戦に。氏規は300の兵で4万の秀吉軍に善戦するも降伏。以降は北条軍の説得に当たった。
戦後は北条氏直に同行し出家するも、氏直が間もなく没すると領地を与えられ、小身の身ながら敬意を払われた。


妙印尼 △
由良成繁の妻。甲斐姫の祖母。
夫が亡くなり出家していたが、嘘の茶会に誘われた馬鹿息子2人が北条家に人質に取られてしまう。北条家は由良家に降伏を要求し城を包囲したが、当時71歳の妙印尼はそれを無視して籠城を続けた。人質を殺すぞという脅しに大砲を浴びせるなど頑強に抵抗したため、北条家は由良家の支城をいくつか明け渡すだけで引き下がり、人質を解放した。
その後、秀吉の小田原征伐に際し馬鹿息子2人は北条方についてしまったため、由良家の滅亡を危惧した妙印尼は300人を率いて秀吉方の前田利家軍に参戦。
77歳のババアの活躍に利家は感嘆し、秀吉も息子2人を助命し石高まで与えた。その際の宛名は息子ではなく妙印尼宛だった。
また現存する妙印尼の肖像画には、軍配を手にした姿が描かれているという。