家別キャラ(東北~関東)

佐竹家

佐竹義重 佐竹義宣 真壁氏幹 愛洲元香斎

佐竹義重 ◯
常陸の大名。父が元気なのに14~5歳の頃から実質的に佐竹家を統治していた英才。
鬼義重の異名で知られる豪傑でもあり、北条と伊達に挟まれた不利な地理をもものともせず、国を保った。
隠居後も伊達政宗の宿敵として権勢を振るったが、関ヶ原の戦いに際し息子が石田三成との付き合いから西軍に属したため減封となった。
義重は東軍を支持しており、また長篠の戦いで注目されるよりも早く全国で五本の指に入る量の鉄砲を集めていて確かな先見の明を持っていた。


佐竹義宣 ◎
佐竹義重の子。隠居した父の跡を継ぐ。(が、父も現役で以降も普通に活動している)
豊臣政権では「六大将」に挙げられるほど重んじられた。秀吉が没すると福島正則らが専権をふるう石田三成の暗殺を企んだため、旧友(小田原征伐ではともに甲斐姫と戦っている)であった義宣は三成を救出した。その際には「三成のいない世はつまらん」という名言を吐いている。
関ヶ原では当然、豊臣方につこうとするも、徳川方からも誘いをかけられて身動きが取れず、中立を決め込んだため出羽へ転封となった。
その際には家康をして「今の世にはまれな困ったほどの律義者」と評され、また僻地だが広大な出羽の土地を見ると義宣は上機嫌になり、今もなお「御機嫌坂」という地名として残っている。



佐竹義久 △
佐竹家の分家の当主。佐竹義重の重臣として活躍した。
外交手腕に優れ、武田家との同盟を結び、秀吉には私的にも気に入られ豊臣姓や6万石を与えられるなど、義久も大名として遇された。
関ヶ原の戦いの後、中立を保ち微妙な立場となった佐竹家の所領安堵を家康に約束したと言われるが、直後に急死し、佐竹家は改易となった。
急病とも、義久の実力を危ぶんだ家康による暗殺ともされる。


和田昭為 △
佐竹家三代に仕えた宿老。
1571年、突如として白河家に出奔したため三人の息子や一族二十余人が殺された。
だがそれからわずか4年後、佐竹家と内通し白河家の当主を捕縛し、その功で佐竹家に帰参した。
その後は以前と同じ厚遇を受け、朝鮮征伐で当主が遠征の折には国元の留守居役を任されるなど、終生にわたり佐竹家に仕えた。

山内上杉家

長野業正


上杉憲政 ◯
山内上杉家の当主。関東管領を務めるが北条家に連敗し国を追われ、長尾景虎を養子に迎え入れ、関東管領も継がせ上杉謙信を誕生させた。
その後は隠居するが謙信の死後、家督争いで上杉景虎に加担し、上杉景勝に敗北。
和睦交渉に赴くも上杉景勝の家臣によって斬られた。

古河公方


足利義氏 △
関東の将軍家・古河公方の末代。上杉家や北条家の権力闘争に利用されながら名家の存続に努めた。
一時期、太田資正の主君でもあった。

足利氏姫 ×
古河公方・足利義氏の娘。本名は不明で足利氏の姫という意味。
父が没すると男子がいなかったため9歳で家督を継いだ。主家の北条家が滅亡すると、秀吉から敵対していた小弓足利家との結婚を命じられ、両足利家は80年ぶりに統一された。
だが結婚後も古河公方の居城(わずか300石)に住み続け、彼女の死後も孫の代まで当地を離れなかった。


太田資正 ▲
様々な大名家を渡り歩き、生涯にわたって北条家と戦い続けた孤高の軍師。
最期は秀吉に仕え小田原の戦いにも参陣し北条家の滅亡を見届けた。日本(世界?)で初めて軍用犬を開発したトップブリーダーでもある。

深谷上杉家


上杉憲賢 ×
深谷上杉家の当主。だったことくらいしか事績が残っていないが、なぜか信長の野望・武将風雲録では武蔵の大名として登場。だが以降のシリーズには全く登場しない。
しかもゲーム開始から1ターンで武田家に滅ぼされがち。

結城家


結城晴朝 ◯
下総の大名。小山家に産まれるが、結城家の叔父が急死し嫡子も亡くなっていたため結城家を継いだ。
実家の小山家は上杉、結城家は北条に加担したため父子で激しく争うこととなった。
だが親子で分かれてまで戦ったものの結局は北条も敵方に回り、秀吉の小田原征伐でようやく戦いは終わった。
秀吉の養子になっていた徳川秀康(家康の次男)を養子にもらい受け、家名の存続に努めるが、秀康が亡くなると跡を継いだ忠直は松平姓に戻ってしまう。
ショックを受けた晴朝は秀康の五男を結城家に迎え入れるも、晴朝の死後に彼もまた松平姓に復し、結城家は途絶えた。


結城朝勝 △
宇都宮広綱の次男。結城晴朝の養子に迎えられ跡を継いだ。
だが晴朝は秀吉に取り入り結城秀康をもらい受けたため、立場の無くなった朝勝は宇都宮家に帰った。
宇都宮家も間もなく改易されると佐竹、上杉と渡り歩き、大坂夏の陣では豊臣方につくも生き延びた。
晩年は宇都宮姓に復し、佐竹家の重臣・真壁氏幹の甥に跡を継がせ自身は神官になったという。

宇都宮家


宇都宮広綱 △
下野の大名。父が戦死すると宿老の壬生家に居城を乗っ取られた。
まだ5歳の広綱は芳賀高定の助けで脱出すると、高定は謀略を駆使して父の仇や反乱分子を次々と暗殺。ついには北条家の援軍を得て居城を奪回した。
だが病弱な広綱は30歳を前に寝たきりになり、再び居城を乗っ取られる。
広綱は32歳で没し、宇都宮家の再興は秀吉の小田原征伐までかなわず、広綱の死の14年後であった。


芳賀高定 ▲
宇都宮家。宇都宮家の当主が戦死すると(ry
まだ二十代の高定は宇都宮広綱を擁し、居城を奪回した。
その後は40代で隠居し68歳で亡くなるまで表舞台には現れず、名目上、家を継いでいた芳賀家の家督を芳賀一族に返した。
私欲を持たず幼君を支え軍事・外交・策略に八面六臂の活躍を見せた彼こそ下野の諸葛孔明である。


宇都宮国綱 ▲
宇都宮広綱の子。父が病死すると9歳で跡を継いだ。
国内勢力の反抗で居城を乗っ取られたため、周辺の大名と通じて戦った。
秀吉に取り入ることに成功し、ようやく所領を安堵されたのは23歳のことである。(ちなみに小田原征伐では石田三成のもとで甲斐姫と戦っている)
秀吉には豊臣姓を与えられるほど信任されたが、突如として改易にあい(権力闘争に失敗したとも石高を詐称したとも言われる)朝鮮征伐での軍功を復帰の条件に奮闘するも、秀吉の急死により頓挫し、失意のうちに40歳で没した。

里見家

里見義堯

里見義弘 △
安房の大名。北条家との激戦の末に里見家の最大勢力を築く。
しかし後ろ盾にしていた上杉家が北条家と同盟したため、やむなく北条家と和睦した。
死に際しまだ9歳の息子と、跡継ぎの弟・里見義頼(義弘の庶子ともされる)に平等に領地を分けたため、里見家分裂のきっかけとなった。

里見義頼 ×
里見義弘の弟(または庶子)。義弘の死後、義弘の嫡子を出家させ里見家の全権を握った。
その後は巧みな外交戦術で北条・武田・豊臣の間を泳ぎまわり、家名を存続させた。

里見義康 △
里見義頼の嫡子。父が没すると15歳で跡を継いだ。
小田原征伐に遅参したことで減封となるが、秀吉の側近としてじわじわと勢力を盛り返し、一方で家康とも通じ、関ヶ原では東軍に参加。12万石にまで加増された。

里見忠義 △
里見義康の嫡子。父の死で10歳で跡を継いだ。
義理の祖父である大久保忠隣の失脚に連座し、山陰地方へ改易となった。
その後も立て続けに減封されついには百人扶持にまで転落。男子がいないまま忠義も没し大名・里見家は滅亡した。
里見義弘以後、当主がいずれも短命に終わり運にも恵まれなかった。

正木頼忠 ▲
里見家の重臣。父は里見家と北条家の戦いが激化するとそれに乗じて独立したが、すぐに里見家に復した。
人質として北条家に送られていた頼忠は北条一族の娘をめとっていたため殺されはしなかったが軟禁された。
父が亡くなると跡を継ぐため居城に帰り、里見義頼の家督相続に協力した。
小田原征伐で北条家が滅亡、正木家は改易された里見家に代わり安房に転封になると頼忠は隠居した。
娘が徳川家康の側室となり、徳川頼宣を産んだため、それに従い余生を過ごした。