家別キャラ(近畿~四国)

朝廷

近衛前久

正親町天皇 ◯
即位した頃、天皇家は貧窮していて3年間も即位の礼ができないありさまだった。
だが織田信長が天皇家を援助しその後ろ盾を得ると、たがいに利用し合い権力を盛り返す。
病が篤くなると子の誠仁親王ではなく孫の後陽成天皇に譲位した。
信長と昵懇だった誠仁親王と反発し合っていたためと考えられる。

後陽成天皇 △
祖父の正親町天皇から譲位され16歳で即位した。
当時の天下人だった秀吉とは父と信長のようにたがいに利用し合った。
秀吉が没すると、秀吉の息のかかった長男を出家させ、三男に跡を継がせたところも父と似ている。
源氏物語や伊勢物語の注釈を著すなど博識で、余談だが最後に火葬された天皇である。

後水尾天皇 △
父の後陽成天皇から譲位されるが、家康の息がかかっていたため父子の仲は険悪だった。
後に徳川秀忠の娘を妻に迎えさせられる&隠し子の母を追放される&春日局に大奥を牛耳られる等のコンボで徳川家とも険悪になり、激怒した後水尾天皇は幕府に通告せず次女に譲位した。これには即位した女性は結婚できない制度を利用し、天皇家の嫡流から徳川家の血縁を排除する狙いもあった。
その後は娘を傀儡に院制を布き、権勢を振るった。30人もの子をもうけたり遊郭へお忍びで出かけたりとやりたい放題だったが、文化的素養も高く寛永文化をもたらしもしている。

足利家

足利義昭 一色藤長

足利義輝 ▲
室町幕府13代将軍。松永久秀や三好三人衆によって暗殺された。
剣豪としても知られ、暗殺の際には数本の刀を畳に刺し、刃こぼれしたら取り替えながら数十人を斬り捨てた。
この逸話は「日本刀は数人斬ったら脂で切れ味が無くなる説」の傍証として、義輝自身が剣豪であり刀の切れ味を熟知していたこと(だから何本も予備を用意した)、この際に使ったのは足利家に伝わる名刀揃いだったこと(日本屈指の名刀ですら数人しか斬れない)から有名。

細川家

細川忠興 有吉立之 吉田重勝

稲富祐直 △
稲富流砲術を開いた鉄砲の達人。だが細川ガラシャを見捨てて逃げたり、鎧を二枚着て戦場に出たり、素人に対決で負けたりとヘタレエ
ピソードに事欠かない。

細川伊也 △
細川幽斎の娘。一色義定に嫁いだが秀吉の命により夫を殺され出戻りした。その際には激怒し兄の忠興にナイフで切りつけたという。
後に再嫁したが夫に「足を揉んでくれ」と言われ激怒。また出戻りしかけたが父に説得されしぶしぶ帰った。

細川藤孝 ◎
足利義昭の側近。信長、秀吉、家康に重用された。数多くの文化や行儀作法を会得した歩く人間国宝。
息子の細川忠興は戦国DQN四天王の一人。


松井康之 △
細川家。足利義輝に仕えていたが、義輝が暗殺されると細川藤孝とともに逃亡し、信長に仕えた。
秀吉の鳥取城攻め、小田原征伐、文禄・慶長の役で水軍を率いて活躍し、秀吉からは18万石で大名に取り立てられようと誘われたが、細川家の腹心だった康之は固辞したという。
関ヶ原に際しては豊後の留守を預かり、攻め寄せた大友軍を黒田如水とともに撃退した。


細川ガラシャ ☆
明智光秀の娘。細川忠興に嫁ぐ。
病弱な息子のため、夫に隠れてキリシタンとなる。それまでは気性が激しかったが入信後は穏やかになったという。
関ヶ原に際して石田三成は諸大名の妻子を人質にしようとするが、ガラシャはそれに抵抗し死を選んだため、三成は強硬に出られなくなり、西軍の戦力は著しく減退した。
ガラシャの死はローマにまで伝わり戯曲として描かれた。

石山本願寺

本願寺顕如 下間頼廉

教如 ◯
顕如(本願寺光佐)の子。本願寺光寿とも。
信長との戦いで朝廷からの仲裁を無視して徹底抗戦を主張したため父から絶縁された。石山本願寺を退去すると越中から紀伊まで転々としながら一向一揆を扇動した。
信長が死ぬと赦免され父のもとに戻り、父も亡くなると跡を継ぎ法主になった。
だが強硬派だったため秀吉ににらまれ、退位を命じられたが、その後も院制を振るった。
本願寺は証如の強硬派と、弟を中心とする親秀吉派に分裂し、21世紀の現在もなお東西に分かれている。


七里頼周 △
一向宗。もともとは下級武士だったが顕如に見込まれ加賀の一向一揆を統括し「加州大将」と呼ばれた。
だが地位を得た頼周は増長し勝手に処刑を行うなどしたため家臣の反乱や農民一揆を招き、その隙をついた信長軍に攻められ敗走した。
加賀まで逃げ延びたもののその後は消息を絶ち、信長軍に討ち取られたとも言われる。


七里頼照 ▲
一向宗。越前の一向一揆を統括した。朝倉家の滅亡後、いったんは越前を支配するものの、加賀から呼び寄せた七里頼周とともに専横をきわめたため、反乱や一揆を招き、その隙をついた信長軍に攻められ、逃げる途中で門徒に討たれた。


下間頼竜 △
一向宗。主に政治・外交を担当し、教養高く堺の商人と交流し茶会に参加するなどした。(そのためか武将風雲録ではザコ武将のわりにまあまあの茶器を持っている)
教如の腹心として活動し、本願寺の分裂後も付き従った。
ちなみに息子は頼竜の死後、叔父の池田輝政のもとへ出奔し大名まで出世している。

河内畠山家

畠山高政 ×
河内の大名。三好家と交戦→和睦→交戦→和睦→交戦をエンドレスに繰り返した。
その他にも河内を奪われ紀伊に逃げる→河内を奪い返す→河内を奪われ紀伊に逃げるや、家臣に追放される→三好家の援助で復帰→家臣に追放されるを繰り返し、最後は河内の居城に戻れないまま、信長に居城を破棄された。
最後は失意のまま河内~紀伊を放浪し、キリスト教に目覚めたりといろいろ悲しい。

雑賀衆

雑賀孫市

鈴木左太夫 ×(雑賀孫市がいれば十分)
雑賀衆の頭目。雑賀孫市の一人。鉄砲隊を率い石山本願寺とともに信長と戦った。
度重なる信長軍の侵攻によって雑賀衆は内部分裂を起こし、信長死後に秀吉へ降伏。
だが危険視する秀吉によって暗殺(または自害を命令)された。

鈴木重秀 ×(雑賀孫市がいれば十分)
鈴木佐太夫の子。雑賀孫市の一人。陽気で目立ちたがりで、行く先々に若い男女が集まったといい無双の孫市は彼が主なモデルになっている。
熱心な一向宗徒で、石山本願寺と連携し信長を苦しめ、下間頼廉と並び「大坂之左右之大将」とうたわれた。
だが本願寺が信長と和睦すると一転して信長に接近し、雑賀衆に追われることに。小牧・長久手の戦いに際しては家康方についた雑賀衆に対し秀吉方で戦った。その後は紀伊へ戻ることなく大坂で没したという。
外見はヤタガラスの旗を掲げ、魚鱗の具足をまとい、愛山護法と名づけた火縄銃を手に、右肩から血を流す仏像画(孫市の身代わりになって負傷した)を携えと、厨二心を刺激してやまない。

鈴木重朝 ×(雑賀孫市がいれば十分)
鈴木佐太夫か重秀の子。雑賀孫市の一人。
雑賀衆の滅亡後は秀吉に仕える。関ヶ原の戦いでは鳥居元忠を討ち取った。
敗戦後は伊達政宗→家康と仕え旗本になり、子孫は鈴木から雑賀へ改姓し当主は孫一の名を継承した。

土橋守重 ×
雑賀衆。根来衆とも血縁を結び大きな勢力を持った。親信長派の鈴木家と対立し、最後は鈴木重朝によって暗殺された。
ちなみに名字は「つちばし」と読む初見殺し。

津田算長 ×
根来衆の頭目。鉄砲伝来を聞くと自ら種子島に渡り、種子島時堯が買った2丁の火縄銃のうち1丁を購入。
職人に複製させて津田流砲術を編み出し、根来の鉄砲隊を作り上げた。
彼が畿内に鉄砲を持ち込んだことで堺を通じ全国へ鉄砲が広まるきっかけとなった。

波多野家

赤井直政

波多野秀治 △
丹波の大名。石高から見て兵力は千にも満たなかったと思われるが、山岳地帯を活かしたゲリラ戦で織田軍を1年以上にわたり苦しめた。
指揮官だった明智光秀はこの苦戦を咎められたことを恨み、本能寺の変を起こしたという説もある。

山名家

山名豊国 △
名門山名家の当主。戦国期には弱体化しており、山中鹿之介の支援を受け毛利と戦うも敗北し降伏。
だが秀吉が鳥取城を攻めると戦力外と判断され城を追放されるも、結果的にいち早く秀吉、家康ら天下人に通じ家名を保った。
かつて自分を追放した相手の遺児を支援したり、信長に追放された名門の末裔に極端に卑屈に対応して家康にたしなめられたり、足利第
10代将軍にもらった羽織(古すぎて黒光りしている)を愛用したりと、たぶんお人好し。


山名祐豊 △
但馬の大名。但馬と因幡に分かれていた山名家を統一した。
秀吉軍の猛攻に抗しきれず織田家に投降し、但馬守護の地位を安堵されると、山中鹿之介ら尼子軍とともに毛利・波多野と戦った。
だが重臣が勝手に毛利家と和睦を結んでしまい、激怒した信長軍に城を包囲され、そのさなかに70歳で没した。
築城技術に優れ、機に臨んで多くの城を改修し戦いを有利に進めている。
信長の野望シリーズでは因幡山名家を継いだ甥の山名豊国に吸収され、豊国の家老ポジションで登場しがち。

筒井家

筒井順慶 ▲
大和の大名。幼少時に父が亡くなったため叔父の木阿弥が還俗し後見人となり、順慶が筒井家を継いだ。
順慶が長じると叔父は再び出家しこのことから「元の木阿弥」という言葉が生まれた。
本能寺の変に際しては、息子が明智光秀の娘をめとっていたことから光秀に援軍を期待されるも、洞ヶ峠で待機し、明智軍の敗走を見てから羽柴秀吉に協力したため「洞ヶ峠を決め込む」という言葉が生まれた。
その後、気苦労が絶えないせいか胃痛にかかるも、秀吉の命で無理をおして出陣し、病状を悪化させ36歳で没した。

筒井定次 ▲
筒井順慶の甥。順慶に男子がなかったため後を継いだ。
勇猛であり築城術に長け、古田織部と交流するなど優れた人物だったが、そのため畿内に近い大和を治めていることを警戒され、突如として秀吉に伊賀へと改易された。
それでやさぐれたのか伊賀では地元の国士はもちろん、島左近、松倉右近ら重臣たちとも対立し、酒色に溺れたという。
関ヶ原では東軍に属し所領安堵されたものの、今度は家康によって突如お家取り潰しとなった。
そして大坂冬の陣に際し、豊臣家と通じたとして切腹を命じられた。
二度の改易、切腹の理由は全て筒井家を警戒した時の権力者によるでっち上げとされる。


奥田忠高 ×
大和の国人衆。松永→筒井→豊臣秀長と大和を治めた大名に仕えていった。
関ヶ原では79歳にして活躍したため息子が旗本に取り立てられた。
武将風雲録では知力40武力20で、土岐頼次や奥山常陸介と最低クラスのパラメーターを競い合う。