家別キャラ(中国~九州)

大友家

大友宗麟 戸次鑑連 立花道雪 高橋紹運 一条兼定 立花誾千代

朝倉一玄 △
大友家の家臣。島津軍に攻められると城を捨てて逃げ出し、城に入った敵軍を謎の兵器「留守の火縄」で城ごと爆破した。

大友義統 ◯
大友宗麟の嫡子。酒乱で優柔不断で臆病。戦国で一、二を争う無能とされる。
九州に圧倒的な勢力を誇っていたはずが家督を継ぐやあっという間に国を傾けた。
島津家に滅ぼされる直前、秀吉の九州征伐で救われる。が、関ケ原の戦いで西軍に味方し、大軍を集めるも黒田官兵衛の寄せ集め部隊に完敗し、流罪となった。


妙林尼 △
大友家。吉岡家に嫁ぎ吉岡妙林とも呼ばれる。
島津家の侵攻に対し、息子が本城へ入っていたため留守の居城を守った。妙林尼は農民や遠征に同行しなかった老兵たちを指揮し、16度にわたり攻撃を跳ねのけた。
島津軍は攻略をあきらめ妙林尼と和睦したが、妙林尼は秀吉軍の接近を聞くと島津軍に偽装投降を申し出、酒でもてなし帰って行くところを追撃し、さんざんに打ち破った。
その後は歴史から姿を消すが、近年になって町おこしに利用され再評価が進んでいる。

奈多夫人 ×
大友宗麟の正室。神宮の娘だったためか宗麟を筆頭にキリスト教に傾倒していく大友家に激しく反抗し、夫らに棄教を迫ったためキリシタンからは伝説的な迫害者の名前からイザベルと呼ばれた。
だが息子らもキリシタンになっていくと、それに反対する奈多と宗麟の仲も悪化し、ついには一方的に離縁された。
晩年は丸くなり侍女らのキリスト信仰を咎めなくなったという。

吉岡長増 △
大友家の最長老。大友宗麟の父に解任されたが、死に際し長増を重職につけるよう言い遺したため復帰した。
。毛利家が筑前をほぼ支配下に置いた時、山中鹿之介や能島武吉らを蜂起させ、さらに後方の周防を奇襲攻撃し九州から毛利軍を追い出した。
その後も大友家の中心人物として実質的に主導しており、一度は隠居しようとしたが引き止められるほどだった。

臼杵鑑速 ×
大友家。吉岡長増とともに外交を一手に担い吉岡、吉弘鑑理とともに「三老」に数えられる。
政治・軍事全面で活躍し、死後に大友家が島津軍に大敗すると、立花道雪は「臼杵と吉岡の死後、大友家の政治は無道でしかない」と嘆いた。

吉弘鑑理 ×
大友家。三老の中では武断派で、主要な合戦のほとんどに参加した。
龍造寺隆信が臣従を申し出てきた時、その野心を見抜いていた鑑理は一蹴したため「頼みがいのないヤツ」と恨まれた手紙が残っている。晩年は病気がちだった。

田原親賢 ▲
大友家。妹の奈多が大友宗麟に嫁いだため専権を振るった。
臼杵鑑速の目が黒いうちはおとなしくしていたが、鑑速が没すると台頭した。
耳川の戦いで総指揮をとるも島津軍に大敗し、大友家の滅亡を決定づけたため無能とされるが、島津家の記録には「最も奮闘したのは田原親賢」と記されており、本人はがんばっていたらしい。
その後は大友家の衰退後も当主の大友義統に付き従う。改易されるとやむなく中川家に仕えたが、関ヶ原に際し挙兵した義統のもとに馳せ参じた。
だが黒田如水に敗北した義統が降伏すると中川家に戻り、今度は西軍と戦い討ち死にした。

一萬田鑑実 △
大友家。父や叔父を大友宗麟に粛清されたが、忠誠心を失わず宗麟に仕え続けた。
数々の戦で活躍し、島津家が台頭すると一族の多くが寝返ったが、鑑実は大友家を裏切らなかった。
しかし戦後、一族の寝返りを理由に大友義統に自害を命じられた。
城には住まず麓に館を建て、桜を眺めながら村人とともに酒を酌み交わしていたという。

佐伯惟教 △
大友家。大友宗麟と対立し西園寺家に逃れ10年を過ごした。
毛利の水軍に対抗するため宗麟に招かれて帰参し、水軍を率い、立花道雪の跡を継ぎ腹心となった。
その後、宗麟はキリスト教国を造るため島津領に侵攻。惟教は持久戦を、田北鎮周は速攻を主張し意見が対立。主将の田原親賢は意見をまとめられず、全軍の士気も低いため田北鎮周はなかば捨て鉢に突撃した。
これに引きずられるように大友軍もずるずると前進し、島津家久が後方から迫ると田原親賢は退却を命令。混乱した大友軍は崩壊し、惟教も息子ともども戦死した。この耳川の戦いの惨敗で大友家は滅亡へと突き進むこととなる。

志賀親守 △
大友家。大友宗麟の家督相続に貢献し、子の大友義統の側近としても活躍。
だが耳川の戦いでは合戦に反対していたため積極的に戦わなかったり、島津軍が侵攻してくると裏で内通したりと狸爺。
このとき息子の志賀親度は島津軍に加わって戦ったため戦後に処刑されたが、親守は表立っては反抗しなかったため不問に付された。
また孫の年齢から逆算して60歳は過ぎていた頃に「親守を村に赴任させたら任地を離れて女あさりに出かけてしまう。大友家の存亡の秋に困る」と嘆く宗麟の手紙が残されている。
ちなみに息子の志賀親度は主君・大友義統の妾を寝取っており、エロさはばっちり遺伝している。

志賀親次 △
志賀親度の子。島津家の侵攻に際し父と祖父が内通するなか、小勢で島津軍を何度も破った。島津義弘は「天正の楠木正成」と賞賛。秀吉も絶賛し、大友家の家臣を招いた際に重臣の田原親賢よりも親次を上座につけるほどだった。
そのため大友家中での地位は飛躍的に上がったが、大友義統には妬まれてしまい、保護していたキリシタンを留守中に追放された。
その後、朝鮮出兵で誤報に騙されて撤退を進言したところ、敵前逃亡と見なした秀吉に激怒され、大友家は改易。主家を失った親次はさまざまな大名のもとを渡り歩き、細川家に落ち着いた。


土持親成 ×
日向の国人衆。大友家の援助を受け伊東家と戦った。だが島津家に敗れた伊東義祐が大友家へ逃げると、島津家と結び大友家と戦うことに。
大友の大軍と伊東の残党に攻められ捕縛され自害した。初期の信長の野望では日向出身なばかりに仇敵の伊東家の家臣として登場する。

立花誾千代 ☆
立花道雪の娘。男子がいなかったため、立花宗茂を婿にとるまで立花家の当主だった。
関ヶ原に際し進軍していた加藤清正が家臣から「行く手の立花領は道雪を慕う民が多く残り、娘が兵を率いています」と聞くと迂回していったという話が有名。

龍造寺家

龍造寺隆信 鍋島直茂

慶誾尼 △
龍造寺隆信の母。夫が死ぬと鍋島家に嫁いだため鍋島直茂の継母でもある。
大友家の大軍に城を包囲された際、降伏しようとした隆信らを62歳の彼女が「大の男が鼠のように怯えるな。男なら命を賭けろ」と薙刀を手に叱咤したため、奮起した龍造寺軍は大友軍を蹴散らした。
その後、隆信が戦死すると鍋島直茂に後事を託すとともに76歳の彼女も政務に携わった。92歳で逝去。

鍋島勝茂 ▲
鍋島直茂の子。父を全面的に補佐した。鍋島家は龍造寺家から穏便に大名職を譲り受けたが、龍造寺家の当主たちが悶死したり、たびたび幕府に復権を願い出たり、直茂の子が急死したことから化け猫騒動が巻き起こり、歌舞伎などでは鍋島父子は悪役に描かれる。
父の陰で目立たないが軍事・政治ともに優れた。個人的には父とは不仲だったという。

龍造寺政家 ▲
龍造寺隆信の嫡子。父が戦死すると跡を継いだが、病弱で臆病だったため重臣で叔父の鍋島直茂が実権を握った。
一揆の鎮圧を命じられると「祈祷師が駄目だって言うし、神社の木が倒れて縁起が悪い」と断り秀吉を呆れさせたため、直茂に大名職を譲らされた。
その後、息子が失意から自害すると後を追うように没した。

百武賢兼 ×
龍造寺四天王。百人に匹敵する武勇から百武の姓を龍造寺隆信に与えられた。
沖田畷の戦いで討ち死に。かつて龍造寺家を助けた蒲池家を攻めるよう命じられたが、涙を流して拒絶したという逸話や、妻も夫に劣らず剛毅で薙刀を手に兵を指揮したという話が伝わる。

円城寺信胤 ×
龍造寺四天王。沖田畷の戦いでは龍造寺隆信の名を名乗って島津軍に突撃し、主君を逃がそうとした。

江里口信常 ×
龍造寺四天王。鍋島直茂が龍造寺家に仕える際につけられた12人の家臣の一人。
沖田畷の戦いでは龍造寺隆信が戦死すると、島津軍の兵に化けて島津家久に接近し、左足を負傷させた。
家久は「無双の豪の者。一族が無事なら取り立てたい」と賞賛した。

成松信勝 ×
龍造寺四天王。かつて大友宗麟の従弟を討ち取った。
沖田畷の戦いでは龍造寺隆信の戦死を聞くと、島津軍に斬り込んで討ち死にした。

木下昌直 ×
龍造寺四天王の五人目。京の出身だが龍造寺隆信の武勇に惚れ込み仕えたという。
沖田畷の戦いでは殿軍を務めて討ち死にしたとも、四天王で唯一生き残ったとも言われる。

有馬家

有馬晴信 △
肥前の大名。代表的なキリシタン。龍造寺家に従属していたが島津家と結び龍造寺隆信を討ち取る。
秀吉が侵攻してくるとすかさず島津家から寝返る時勢を読める男。
当初はキリシタンを迫害していたが突如として熱心なキリシタンに転じ数万の信徒を保護。秀吉が禁教令を出してからも個人的には信仰を続けた。熱心すぎて領民の子供を集め奴隷として欧州に送ろうとしたことも。
南蛮貿易で力を蓄えていたが、貿易団がポルトガル領で諍いを起こし殺されたことに激怒し、ポルトガル船を報復で攻撃した。これを聞いた本多正純の家臣・岡本大八が「家康が黒船を沈めたことを喜んでいる。賄賂を払えば旧領を返してくれるだろう」と持ちかけると、晴信は喜んで払った。
だがこれは岡本大八の詐欺で、それを知った家康は二人に死を命じる。キリシタンの晴信は自害できず、家臣に首を斬らせたという。

大村家

大村純忠 △
初のキリシタン大名。財政回復のためポルトガル船を受け入れキリシタンを保護したため、一時は日本の信徒の半数が大村領にいたという。長崎を発展させたのは純忠といって過言ではない。
自身も熱心な信者となるが、神社や先祖の墓を壊し、僧侶を殺害するなどエスカレートし反発を招いた。
龍造寺家に従属していたが沖田畷の戦いでは空砲を撃つなど積極的に戦わなかったため本領安堵。秀吉の九州征伐でもすぐに降伏した。
6万の領民をキリシタンにするなど、九州にキリスト教国を築き上げ、棄教令が出される前に幸せなまま没した。
ちなみに跡を継いだ息子は改宗しキリシタンを迫害したため、キリシタンに毒殺されている。

隈部家

隈部親永 △
隈部家の当主。はじめは大友家に仕えたが、同じ大友傘下の赤星家と反目し、龍造寺家に鞍替えした。
龍造寺家が滅びると島津家、秀吉の九州征伐により豊臣家に仕えるが、肥後一揆を扇動した。
豊臣軍により鎮圧されると首謀者の親永と、肥後の大名だった佐々成政は切腹させられた。
信長の野望では珍妙な顔グラフィックを付けられカルト人気を博す。

伊東家

伊東義祐 ▲
日向の大名。朝廷に働きかけ地方大名では異例の高位である従三位を得た。
巧みな戦略で日向を統一するが、驕り高ぶって奢侈と京風文化におぼれ無双シリーズのの今川義元状態に。
島津家がじわじわと勢力拡大するも、佞臣たちに報告を握りつぶされる劉禅状態へグレードアップし、気がついたら城を囲まれ、決死の雪山越えで大友家へ逃げる。だが大友家も島津家に大敗すると立場を失い、伊予の河野家を頼った。
後に一族が仕えていた縁から息子の伊東祐兵は秀吉に仕えたものの、義祐は「従三位のまろが秀吉ごときに頭を下げられるか」と拒否し、お供を1人つれて中国地方を気ままに放浪。
だがそのお供も撒いて遊んでいた折に病気に倒れ、息子のもとへ向かう途中、船の中で動けなくなり、面倒がった船頭に砂浜に捨てられた。
なんとか息子の嫁に発見されるも死亡。最期は袁術状態だった。

相良家

相良義陽 ▲
肥後の大名。島津家と同盟し肥後の支配を確立したが、勢力拡大する島津家の前に降伏。阿蘇家への攻撃を命じられると阿蘇家の軍師で親友の甲斐宗運と戦うことに耐えられず、わざと無防備な陣を敷き、甲斐軍に討ち取られた。
THE・実直な逸話が多いので以下箇条書き。
・勤王家で知られ、近衛前久が勅使として来ると臣下の礼をとり、感動した前久は思わず島津家に強引に相良家との和睦を命じた。
・阿蘇家への攻撃を命じられると神社に自らの戦死を祈願した。
・阿蘇家との戦いを前に島津家は義陽から預かっていた人質を返した。(人質を返したら義陽が裏切ると島津家ですら思っていない)
・甲斐軍が迫っても義陽は動かず、床机に座ったまま斬り殺された。
・甲斐宗運はもちろん島津義弘も義陽の死に涙した。
・相良家の家臣は義陽の戦死した土地が踏み荒らされるのを不憫に思い、土手を作ってその上に廟を建てた。

丸目長恵 △
相良家の剣豪。あらゆる武術の他、書や和歌の達人でもあった。
もとは足軽だったが父とともに初陣で活躍し丸目の姓を与えられた。
後に京で上泉信綱に師事し一番弟子になるも、相良家に戻り島津家久(良い方)の策にはまる大失態を演じて謹慎処分に。
ますます兵法に打ち込むようになった長恵は他流試合で無敗伝説を築き、噂を聞いた上泉信綱に西国の教授を任されるほどに。やがて信綱のもとでさらに兵法を極めようとしたが、その直前に信綱は死去。長恵は悲嘆に暮れながらも数年の修行の後に「タイ捨流」を開いた。
後に相良家への帰参を許され、九州一円にタイ捨流を広めた。立花宗茂も弟子の一人である。


深水長智 △
相良家。代々、相良家の奉行を務める家柄で、長智は和歌の名手でもあり、主君の妻が難産のとき、厄除けの和歌を詠むと快癒したという。
主君が戦死するとそのとき産まれた嫡子を補佐。島津義久が病気だと聞くと願掛けのため一万の発句をし、秀吉の九州征伐が始まると秀吉の前で連歌を披露するなど和歌の才を活かし外交を有利に進めた。(ここまで来ると呪符使いか言霊使いである)
佐々成政が粛清された肥後一揆でも相良家は失態を演じながら、長智の交渉で事なきを得たという。
現在はどういう由縁があってか歯の神として信仰されているらしい。

犬童頼安 △
相良家。姓は「いんどう」と読む初見殺し。謀叛の罪で一族を残らず殺されたが4歳の頼安は出家することで許された。
長じると復讐を狙うが失敗し、修行の旅に出た。その後、相良家に帰参を許されると主力として活躍。
島津家の新納忠元に攻められ籠城すると、忠元と矢文で連歌の応酬をしながら戦い、感銘を受けた忠元の家臣の何人かが頼安に寝返った。
開城後、忠元は家臣を返すよう迫ったが、頼安はそれならもう一戦しようと断ったため忠元は諦めたという。
その後、主君の相良義陽が戦死すると、戦死した場所が踏み荒らされるのを不憫に思い、土手を造ってその上に廟を建てた。
生涯、相良家に仕え続け、没すると7人の家臣が殉死した。そのほとんどが新納忠元から寝返った家臣だという。

島津家

島津義弘 島津忠恒 島津豊久

島津義久 ◎
島津家の当主。生涯、薩摩から一歩も出ずに九州を統一した戦国最強のひきこもり。
弟の島津義弘とはたびたび対立したが、どちらも家名の存続を願っており、結束は固い。


島津歳久 ▲
島津貴久の三男。兄の義久、義弘の副将・参謀を務めた。
秀吉の九州征伐にあたっては唯一、秀吉の実力を認め降伏を主張したが容れられなかった。
いざ開戦すると、戦況が不利になっても逆に徹底抗戦を主張し、秀吉の駕籠を狙撃しあわや討ち取るところだった。
後に梅北国兼が一揆を起こすとそれに歳久の家臣が多く参加していたこと、病で朝鮮遠征へ参加できなかったことから謀叛を疑われ、秀吉の命を受けた義久に攻撃された。
歳久は病で身動きすらろくにできず、また家臣の反抗心が強かったためいったんは逃走したものの、追いつかれると追手に首を取らせた。

島津忠良 △
島津義久らの祖父。島津の分家だが、父と祖父が相次いで殺され、元服するまでは母が当主を務め、長じると嫁入りと引き換えに忠良を当主に据えた。
やがて島津本家で後継者争いが起こると、実力者の忠良は息子の島津貴久を男子のいない本家の当主にすることを条件に協力を申し出、島津家の実権を握った。
その後は貴久を助け軍事・政治・外交すべてで辣腕をふるい「島津家の中興の祖」と呼ばれるまでになった。

梅北国兼 △
島津家。肝付家の一族で、国兼は頭角を現し島津家の水軍を任された。
だが秀吉の九州征伐や朝鮮遠征へ反抗し、一揆を起こした。
一時は加藤清正の居城を奪ったものの、清正の部下によって暗殺され、一揆はわずか3日で鎮圧された。

北郷時久 ×
島津家。日向に居城を構えていたが、早くから島津家に協力し、日向の大名・伊東家と戦った。
秀吉の九州征伐では伊集院忠棟とともに主力を率いて出撃するも、忠棟は合図を無視して進軍せず、孤立した時久は大敗した。
その後は居城を忠棟に奪われ、息子も早世とさんざんな余生を送った。

種子島時堯 ×
島津家。鉄砲が伝来した種子島の領主。
当時16歳で家督を継いでいた時尭は鉄砲に着目し、大金で二挺を購入。全国へ広まるきっかけとなった。

種子島久時 △
種子島時堯の次男。兄が早世したため跡を継いだ。
島津忠恒の家老で、鉄砲術に優れた。文禄・慶長の役で島津軍が猛威を振るったのは、久時の鉄砲術によるところが大きいと言われる。

伊集院忠棟 ▲
島津家の筆頭家老。秀吉の九州征伐にあたっては、戦前から水面下で秀吉と和睦交渉をしており、島津義久ら主戦派を説得していた。
しかし説得は実らず開戦になると「合図が聞こえなかった」と偽り命令を無視して戦場に現れず、島津軍を大敗させた。
そして自らを人質に、秀吉へ降伏を嘆願し、義久らも説き伏せたため、島津家は取り潰しを免れた。
だがそれをきっかけに石田三成ら豊臣家の中枢に近づき、権勢を強めたためか、島津忠恒(悪い方の家久)によって暗殺された。
島津家からは「国賊」と罵られる一方で、島津家を存続させた功臣ともされ、評価は二分している。

伊集院忠真 △
忠棟の嫡子。父が暗殺されるとすかさず反乱を起こした。
秀吉の仲裁で和解はしたものの、依然として不満を持ち、家中でも屈指の権力を持っていたため、関ヶ原の際には忠真の反乱を警戒し、西軍の主力となるはずだった島津義弘はわずか800の兵しか連れ出せなかった。
その後、狩りのさなかに島津忠恒の家臣によって暗殺された。同時に一族もまとめて殺され伊集院家は滅亡したが、さすがの悪い方の家久も気が咎めたのか、忠真の娘を養女にし、家康の甥に嫁がせている。

上井覚兼 △
島津家の重臣。多くの戦功を挙げる傍ら、義久の代には政治を取り仕切り、日向一国を任された。
島津家が秀吉に降伏すると隠居を強いられ、間もなく病死した。
十数年にわたり記した日記が現存し、島津家の政策や当時の大名家の日常を知る史料として著名。

新納忠元 ▲
島津家の重臣。武蔵守。島津家で剛勇の者を数える際、常に初めに指を折られることから「親指武蔵」とうたわれた。
秀吉の九州征伐では島津義久が降伏するまで独り抵抗を続けた。一方で夜営では火縄の灯りで古今和歌集を読む教養人で、長宗我部信親を討ち取った際には、遺体の引き取りに来た谷忠澄に「私がいれば戦死などさせなかった」と泣いて詫びる人情家でもあり、部下に大いに慕われた。
その死に際しては殉死を禁止されていながら殉死した者が2名、殉死の代わりに指を詰めた者が50余名に及んだという。

喜入季久 △
島津家。もとは島津姓で縁戚と思われる。
島津義久の代には家老として軍事・外交にフル回転。教養人でもあったという。
初見では絶対読めない名前はインパクト抜群。


新納梅窓 ×
島津忠良の母。夫と義父を早くに亡くしたため幼い忠良に代わり実質的に家を切り盛りした。
近隣の領主である島津運久に強引に求婚され(正室がいるからと断ったら正室を殺して再度求婚してきた糞野郎である)断りきれず、忠良に家督を譲ることを条件に結婚した。
その後、忠良は島津家の中興の祖と呼ばれるほどに成長し、梅窓の一族は新納忠元ら島津家の重臣を輩出した。