家別キャラ(中国~九州)

毛利家

毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利輝元 小早川秀秋
吉川広家 赤川元保

安国寺恵瓊 ◯
毛利家の臣。僧侶。秀吉と毛利家の和睦を仲介し、中国大返しのきっかけを作った。
関ヶ原の戦いでは西軍に所属し処刑された。


穂井田元清 ▲
毛利元就の四男。家内分裂を嫌った元就は元清ら側室の子は、正室の子である隆元、吉川元春、小早川隆景らより下の序列に置き、元清も毛利家を離れ穂井田家を継いだ。
だが軍才に秀でた元清は東部方面の守備を任され織田軍らを相手に善戦。次第に地位を強め、毛利輝元の代には筆頭家老となった。
その後、息子の秀元が毛利家を継いだため毛利家に復した。兄の小早川隆景と特に仲睦まじかったという。

毛利秀元 ◎
穂井田元清の子。男子に恵まれなかった毛利輝元の養子となり一時期は後継者に目されていた。
だが後に輝元に男子(毛利秀就)が誕生すると、秀元は後継者を辞退した。
勇猛で膂力に優れ朝鮮征伐で多くの軍功を立て、関ヶ原では22歳にして毛利家を率いて出陣。
しかし家康と内通する吉川広家に進路を遮断され、戦闘に参加できないまま撤退し、毛利家は減封となった。
その後は毛利秀就の後見人として辣腕をふるい、石高を大幅に上昇させる。
しかし次第に権力を強め、遊び人気質の秀就をないがしろにしたため仲は険悪となる。
秀元は毛利家を離れ徳川家に接近し、晩年は徳川家光の御伽衆となった。
文武両道に優れた他、古田織部の弟子となり教養高かったという。

毛利秀就 △
毛利輝元の子。関ヶ原で敗退した毛利家は改易、輝元は隠居させられ6歳の秀就が後を継いだ。
だが苦労知らずの三代目である秀就は遊蕩にふけり、夜遊びしすぎて昼間は寝不足で政務もろくにこなせなかった。
幕府からも軽く見られ不作法なことをしても「秀就は生まれつき不作法だから」と目こぼしされるほどで、遊び人として町人の噂の的にさえなった。
そのため後見人の毛利秀元にも軽んじられ、ついには秀元は独立を企て、幕府に仲裁された。
ちなみに信長の野望・武将風雲録で最後に登場する武将である。

小早川秀包 ▲
毛利元就の九男。小早川隆景に男子がなかったため小早川家を継いだ。
秀吉のもとへ人質として送られると、秀吉子飼いの武将として頭角を表し、数々の戦で軍功を立て筑後久留米の大名となった。また、ともに戦った立花宗茂と意気投合し義兄弟の契りを結んだという。
朝鮮征伐でも活躍するが、秀吉の縁戚である小早川秀秋が小早川家を継いだため廃嫡された。
関ヶ原では立花宗茂とともに大津城を陥落させるが、毛利秀元の本隊は吉川広家の暗躍で戦えないまま敗退。
筑後の所領を失い、急病にかかり翌年35歳の若さで没した。非常にイケメンだったともいう。

清水宗治 ◯
毛利家の名将。彼の守る高松城を攻めている際に本能寺の変が起こると、秀吉は信長の死を伏せたまま毛利家との和睦を進め、手こずっていた宗治の切腹と引き換えに撤退した。


福原貞俊 △
毛利家。大伯母が毛利元就の母で、代々毛利家の重臣。
大きな戦では常に主力を率いて戦い、毛利元就の死後には吉川元春、小早川隆景、口羽通良と並び四人衆と呼ばれた。
73歳で隠居し82歳で没した。子孫も代々、長州藩で家老になっている。
余談だが福原家の当主の名前は二~三代ごとに世襲制なのか、貞俊の父をはじめ8・10・13・15代当主は全員が福原広俊である。

天野隆重 ▲
毛利家。もともと大内家に従属していたが、陶晴賢が大内家を乗っ取ると毛利家に鞍替えした。
毛利の重臣・福原貞俊の妹をめとっていたため厚遇された。
ハイライトは尼子家との戦い。攻め寄せる山中鹿之介らを67歳の隆重はたった300の兵で何度も撃破した。
武将風雲録では開始時点で53歳なのに、それから30年以上働いてくれる貴重な戦力である。

口羽通良 ×
毛利家。行政手腕に優れ70歳で亡くなるまで辣腕を振るった。
彼や福原貞俊、天野隆重、当主の毛利元就ら主力が長寿を保ち、長年に渡り活躍したのが毛利家の隆盛に一役買っただろう。

熊谷信直 △
毛利家。敦盛で知られる鎌倉時代の勇将・熊谷直実の子孫。
もともと安芸武田家に仕え、父は毛利家と戦い敗死していたが、大内家に攻められ救援された際に毛利元就の人柄を間近に見て、考えを改めた。
その後、武田家と争い毛利家に降る。娘(ものすごい醜女ともされる)を吉川元春に嫁がせ一門衆となり、吉川軍の主力として、先祖譲りの勇猛さを見せた。

乃美宗勝 △
毛利家。小早川水軍を率いた。大内家との戦いでは縁戚である村上水軍を味方につけ、勝利のきっかけとなった。
自身も吉川元春に並ぶ猛将として知られ、生涯で15通もの感状を得ている。
朝鮮征伐の途上に病死。嫡子が信長に内通した疑いで暗殺されたが、最期まで毛利家に尽くした。

能島武吉 ▲
村上(能島)水軍の頭領。毛利家に臣従していたがたびたび反抗し、戦うことも多かった。
関ヶ原に際し息子が戦死し、主家の毛利家も減封、海賊禁止令で村上水軍は壊滅した。
300年後、武吉が著した兵法書を日露戦争の海戦で東郷平八郎が参考にしたという。