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4月8日更新

蠣崎季広 △
最北端の大名。安東家に臣従していたが、先祖代々敵対していたアイヌと和睦し、13人の娘を近隣の大名に嫁がせて力を蓄え、息子の代の飛躍につなげた。ちなみに息子の幼名は天才丸。

松前慶広 △
蠣崎季広の三男。二人の兄を姉に暗殺されたため家督を継いだ。
徳川家に接近することで安東家の支配から脱し、徳川の名を用いて蝦夷の全域を支配した名君。

南条広継 ×
蠣崎家。蠣崎季広の長女をめとる。だが野心家の嫁は二人の兄を暗殺し、娘婿をそそのかして謀叛させ殺された。
無実の広継も自害を命じられると、生きたまま棺桶に入り「棺桶の上に松を逆さに埋め、成長したら無実だと思ってくれ」と生き埋めにされた。
三年後、逆さ松は無事に育ち広継の潔白を訴えたという。

安東愛季 ▲
北斗七星に例えられた世紀末救世主大名。
分裂していた安東家を統一し、近隣はもちろん信長、秀吉とも通じ大いに国力を上げた。
戦国大戦では何かといえば北斗の拳のセリフを口走るらしい。

九戸政実 ▲
南部家。南部晴政の娘婿だった弟が後継者争いに敗れると反乱を起こした。
戦いは優勢に進んだが、南部家は秀吉に援軍を要請。大軍に攻められ降伏し斬首となった。
秀吉の天下統一はこれで完全に実現したといえる。

伊達実元 △
伊達輝宗の叔父。
兄の伊達晴宗と父の伊達稙宗との争いでは父に味方するも、晴宗の勝利後も重用された。
その後は伊達家の最長老として息子の伊達成実とともに活躍した。

留守政景 ×
伊達輝宗の弟。伊達家の重臣として活躍。関ヶ原では伊達家の総大将として上杉家を攻めるも、時勢を見極めるため積極的には戦わなかった。

片倉重長 ▲
片倉景綱の子。大坂夏の陣で後藤又兵衛を討ち取り「鬼の小十郎」と呼ばれる。
戦後には真田幸村の次男を「幸村の親戚の子」と偽って保護し、娘を「戦場で拾った」と偽り妻とした。
父にも劣らぬ名将で、美男子でもあり、小早川秀秋に付きまとわれたという。

遠藤基信 △
伊達家。中野宗時の謀叛を密告し伊達輝宗に取り立てられた。
以降は伊達家の外交を一手に担うほか、若い片倉景綱を抜擢した。
伊達輝宗が暗殺されるとそれに殉死した。

中野宗時 △
伊達家。筆頭家老として権勢を振るったが、謀叛を企み追われた。
家臣を失いどうにか脱出し、帰参を願い出たが許されないまま没した。

後藤信康 △
伊達家。黄色い母衣をまとい「黄後藤」と呼ばれた猛将。
辺境の城主を任されると「暇だから戦場に送ってくれ」と言った戦闘狂で、そのせいか一時、伊達家を追放されている。
なぜか「暇なのに戦場に送ってもらえなかった」とか「自慢の馬が戦場で使われなかった」ことに激怒し崖から身投げしたという伝説が残るが、普通に畳の上で死んでいる。

原田宗時 ×
伊達家。18歳にして城主を任されるなど武勇をうたわれたが、朝鮮出兵で風土病にかかり29歳で没した。
後藤信康とはライバルであり親友。

支倉常長 ▲
伊達家。伊達政宗の命でスペイン、ローマへわたり国王らと交流した外交活動をした。
交渉は失敗し、帰国時には徳川政権下で日本は鎖国しており成果は挙げられなかった。
しかし日本人初の太平洋横断、欧州との直接交渉をしたことにより歴史の教科書には必ず登場する。

屋代景頼 △
伊達家。片倉景綱とともに伊達政宗の側近で、政宗が朝鮮出兵などで留守にしている間、9年にわたり伊達家を切り回した。
だが農民の処罰をめぐって政宗の怒りを買い追放され、帰参もかなわないまま没した。

志村光安 △
最上家。勇猛で「いかなる強敵も降す」とうたわれた。
関ヶ原に際しては鮭延秀綱とともにわずかな兵で長谷堂城に籠り上杉軍を退けた。
巨大な亀を発見し、城を亀にちなんだ名に改名させた逸話でも知られる。

大崎義隆 ▲
大崎家の当主。伊達家に従属していたが、最上義光の支援を受けて独立し一度は伊達政宗に勝利した。
だが勢力を増す伊達家に抗し切れず降伏した。
小田原征伐では参陣しなかったため秀吉の怒りを買い所領を没収された。いったんはお家再興の許しを得たものの、旧臣の一栗放牛らが一揆を起こし(一揆は伊達政宗が扇動したとされる)話は潰れた。
その後は最上、上杉らの間を浪人として渡り歩き、やがて没した。

葛西晴信 △
葛西家の当主。大崎家と代々抗争した。伊達家と同盟し、信長に謁見し所領を安堵されるなど外交手腕に長じた。
だが大崎家を警戒するあまり秀吉の小田原征伐に参陣せず、秀吉の怒りを買い所領を没収された。
その後は放浪の末に死んだとも、秀吉軍と戦い敗死したとも言われる。

蘆名盛氏 △
蘆名家の最盛期を築いた名君。40歳で家督を息子の蘆名盛興に譲ったが、アル中により29歳で亡くなってしまう。
盛氏は妻を一人しか持たず、他に男子もいなかったため人質にしていた二階堂盛隆を養子に迎え、後見人として第一線に復帰した。
しかし他家から入った後継者に家臣は反発し、蘆名家の力は衰えていった。
また男子の幼児50~60人を養育したことからショタコン扱いされることも。

蘆名盛隆 △
二階堂盛義の子。蘆名家に人質にとられていたが、蘆名家が断絶の危機に陥ったため後継者として迎えられた。
盛隆は父とともに衰退していた二階堂家の再興に取り組んだため、蘆名家臣団の反発を招いた。
そのさなか、男色の相手だった腹心に斬られ23歳で死亡。寵愛が薄れたことを恨んでの犯行だったという。
生後1ヶ月で跡を継いだ息子も2年後に亡くなり、家督は蘆名義広に渡った。

蘆名義広 ▲
佐竹義重の次男。蘆名盛興、蘆名盛隆の急逝により蘆名家を継いだ。
しかし13歳の彼に家中をまとめられるはずもなく、伊達政宗に敗れ蘆名家は滅亡した。
その後は佐竹家に戻り細々と暮らした。

二階堂盛義 △
二階堂家の当主。蘆名家に攻撃され、嫡子の盛隆を差し出して降伏した。
蘆名家の後継者が亡くなると盛隆が蘆名家を継ぎ、いったんは二階堂家も再興したが、その盛隆も間もなく腹心に暗殺されると、すぐに伊達政宗によって滅ぼされた。
信長の野望で妙な顔グラフィックを付けられたため、カルト人気を博した。

松本図書助 ×
蘆名家。四宿老に挙げられた重臣だが、伊達方の田村家と戦い敗死した。
信長の野望シリーズでは「武将風雲録」で最弱クラスの能力値と名前のインパクトで人気を博し、「覇王伝」では息子(官名は同じ図書助)が登場したのに父の氏輔と業績を取り違えられるなどネタキャラとして定着している。

金上盛備 △
蘆名家。軍事・政治両面で活躍し「蘆名の執権」と呼ばれた。
蘆名家三代に仕えて重用され、最期は片倉景綱の軍に突撃し、蘆名家の滅亡と運命をともにした。

猪苗代盛国 ▲
蘆名家の重臣。独立の気風が強く父の代からたびたび反乱していた。
いったんは息子の猪苗代盛胤に家督を譲り隠居したが、溺愛する後妻にも息子が産まれるとそちらに家督を譲りたいと考え、伊達家に寝返り盛胤の城を勝手に明け渡した。
それに勢いを得た伊達軍は蘆名家を滅亡させ、勝利に貢献した盛国は伊達家の一門衆に準じる厚遇をされた。
その後も猪苗代家は幕末まで伊達家に仕え、野口英世は一族の子孫である。

猪苗代盛胤 ×
猪苗代盛国の嫡子。いったんは父に家督を譲られるも(ry
伊達家に敗北後は蘆名家当主の蘆名義広とともに佐竹家に仕えるも、やがて父と和解したのか故郷に帰り、その地で77歳まで生きている。

宇都宮広綱 △
下野の大名。父が戦死すると宿老の壬生家に居城を乗っ取られた。
まだ5歳の広綱は芳賀高定の助けで脱出すると、高定は謀略を駆使して父の仇や反乱分子を次々と暗殺。ついには北条家の援軍を得て居城を奪回した。
だが病弱な広綱は30歳を前に寝たきりになり、再び居城を乗っ取られる。
広綱は32歳で没し、宇都宮家の再興は秀吉の小田原征伐までかなわず、広綱の死の14年後であった。

芳賀高定 ▲
宇都宮家。宇都宮家の当主が戦死すると(ry
まだ二十代の高定は宇都宮広綱を擁し、居城を奪回した。
その後は40代で隠居し68歳で亡くなるまで表舞台には現れず、名目上、家を継いでいた芳賀家の家督を芳賀一族に返した。
私欲を持たず幼君を支え軍事・外交・策略に八面六臂の活躍を見せた彼こそ下野の諸葛孔明である。

宇都宮国綱 ▲
宇都宮広綱の子。父が病死すると9歳で跡を継いだ。
国内勢力の反抗で居城を乗っ取られたため、周辺の大名と通じて戦った。
秀吉に取り入ることに成功し、ようやく所領を安堵されたのは23歳のことである。(ちなみに小田原征伐では石田三成のもとで甲斐姫と戦っている)
秀吉には豊臣姓を与えられるほど信任されたが、突如として改易にあい(権力闘争に失敗したとも石高を詐称したとも言われる)朝鮮征伐での軍功を復帰の条件に奮闘するも、秀吉の急死により頓挫し、失意のうちに40歳で没した。

結城晴朝 ◯
下総の大名。小山家に産まれるが、結城家の叔父が急死し嫡子も亡くなっていたため結城家を継いだ。
実家の小山家は上杉、結城家は北条に加担したため父子で激しく争うこととなった。
だが親子で分かれてまで戦ったものの結局は北条も敵方に回り、秀吉の小田原征伐でようやく戦いは終わった。
秀吉の養子になっていた徳川秀康(家康の次男)を養子にもらい受け、家名の存続に努めるが、秀康が亡くなると跡を継いだ忠直は松平姓に戻ってしまう。
ショックを受けた晴朝は秀康の五男を結城家に迎え入れるも、晴朝の死後に彼もまた松平姓に復し、結城家は途絶えた。

結城朝勝 △
宇都宮広綱の次男。結城晴朝の養子に迎えられ跡を継いだ。
だが晴朝は秀吉に取り入り結城秀康をもらい受けたため、立場の無くなった朝勝は宇都宮家に帰った。
宇都宮家も間もなく改易されると佐竹、上杉と渡り歩き、大坂夏の陣では豊臣方につくも生き延びた。
晩年は宇都宮姓に復し、佐竹家の重臣・真壁氏幹の甥に跡を継がせ自身は神官になったという。

佐竹義宣 ◎
佐竹義重の子。隠居した父の跡を継ぐ。(が、父も現役で以降も普通に活動している)
豊臣政権では「六大将」に挙げられるほど重んじられた。秀吉が没すると福島正則らが専権をふるう石田三成の暗殺を企んだため、旧友(小田原征伐ではともに甲斐姫と戦っている)であった義宣は三成を救出した。その際には「三成のいない世はつまらん」という名言を吐いている。
関ヶ原では当然、豊臣方につこうとするも、徳川方からも誘いをかけられて身動きが取れず、中立を決め込んだため出羽へ転封となった。
その際には家康をして「今の世にはまれな困ったほどの律義者」と評され、また僻地だが広大な出羽の土地を見ると義宣は上機嫌になり、今もなお「御機嫌坂」という地名として残っている。

佐竹義久 △
佐竹家の分家の当主。佐竹義重の重臣として活躍した。
外交手腕に優れ、武田家との同盟を結び、秀吉には私的にも気に入られ豊臣姓や6万石を与えられるなど、義久も大名として遇された。
関ヶ原の戦いの後、中立を保ち微妙な立場となった佐竹家の所領安堵を家康に約束したと言われるが、直後に急死し、佐竹家は改易となった。
急病とも、義久の実力を危ぶんだ家康による暗殺ともされる。

和田昭為 △
佐竹家三代に仕えた宿老。
1571年、突如として白河家に出奔したため三人の息子や一族二十余人が殺された。
だがそれからわずか4年後、佐竹家と内通し白河家の当主を捕縛し、その功で佐竹家に帰参した。
その後は以前と同じ厚遇を受け、朝鮮征伐で当主が遠征の折には国元の留守居役を任されるなど、終生にわたり佐竹家に仕えた。

上杉憲政 ◯
山内上杉家の当主。関東管領を務めるが北条家に連敗し国を追われ、長尾景虎を養子に迎え入れ、関東管領も継がせ上杉謙信を誕生させた。
その後は隠居するが謙信の死後、家督争いで上杉景虎に加担し、上杉景勝に敗北。
和睦交渉に赴くも上杉景勝の家臣によって斬られた。

上杉憲賢 ×
深谷上杉家の当主。だったことくらいしか事績が残っていないが、なぜか信長の野望・武将風雲録では武蔵の大名として登場。だが以降のシリーズには全く登場しない。
しかもゲーム開始から1ターンで武田家に滅ぼされがち。

北条高広 ▲
上杉家。姓は「きたじょう」で北条氏康らはまぎらわしいため発給文書には「喜多条」と書いた。
粗忽だが無双の勇士とうたわれ、武田、北条と相次いで内通するもそのたびに許された。
上杉家の家督争いでは上杉景虎に味方するも敗北。織田、北条ら多くの大名のもとを流浪し没した。

北条景広 ▲
北条高広の嫡子。「鬼弥五郎」と呼ばれるほど勇猛で、上杉家の家督争いでは上杉景虎に味方した。
上杉景勝は「景広さえ討てば景虎はどうとでもなる」と景広を暗殺させ、景虎軍は崩壊した。

上杉景虎 ◯
北条氏康の七男。出家していたが、北条家が武田家に対抗するため上杉家との同盟を進め、上杉謙信の姪を景虎にめとらせ、謙信の養子にさせた。
謙信が没すると義兄の上杉景勝と家督を争うも、次々と腹心を暗殺されて孤立し、最期は家臣の謀反によって自害した。

柿崎景家 ▲
上杉家の重臣で筆頭格。常に先鋒を務め川中島の戦いでは武田軍を壊滅寸前まで追い詰めた。
謙信の没後は上杉景虎を支持するが、抗争が激化する前に病死した。俗説では信長と内通したため切腹させられたとされる。
「信長の野望」では武力はトップクラスなものの知力は最低クラスに設定されがちだが、実際には上杉家の政治・外交まで取り仕切った教養高い人物だったという。

本庄繁長 ▲
上杉家。12歳にして父の仇を討つなど勇猛で「上杉家の鬼神」とうたわれた。
独立気運が高くたびたび独立を企んだが、上杉謙信には重用された。
謙信没後の家督争いでは上杉景勝に味方し勝利に貢献。関ヶ原では伊達政宗を相手に善戦した。
晩年は野心も消えたのか上杉家が改易された後も仕え続け、一門衆と同様の扱いを受けた。
wikiの画像がやけにかっこいい。

新発田重家 ▲
上杉家。前半生の事績が本庄繁長そっくり。
だが家中での扱いが軽いことに不満を抱き謀反を起こした。重家の武勇と地の利を活かした戦術でたびたび上杉軍を撃退し、反乱も7年続いたが、秀吉の後ろ盾を得た上杉景勝に攻められ、最期は自害した。

色部勝長 △
謙信の二代前から仕える上杉家の宿老。
武勇に優れた他、家中の争いを調停して回った。
一時反乱した本庄繁長と戦い戦死した。

上杉景信 ×
上杉謙信の叔父か。上杉家の一門衆の筆頭として重きを置かれた。
謙信没後には上杉景虎を支持し戦うも、山浦国清に討ち取られた。

山浦国清 △
上杉家。村上義清の子(孫?)で、武田軍に追われて上杉家を頼り、謙信の養女をめとった。
上杉家のナンバー2として各地を転戦し活躍したが、関ヶ原の前後に事績が見えなくなり、改易された上杉家を見切って出奔したともされる。

村上義清 ◯
北信濃の大名。武田家と戦い当初は優勢に進めるも、武田信玄の反攻にあい、上杉謙信を頼って落ち延びた。
その後は上杉家の家臣となり、川中島の戦いでは武田信繁を討ち取った。
息子(孫?)の山浦国清は上杉家のナンバー2にまで上り詰めた。

長尾政景 △
上杉謙信の義兄。妻は綾御前。上杉景勝は息子。
謙信の家督相続に不満を抱き反乱したが、敗れると以降は一門衆の筆頭として活躍した。
だが38歳で宇佐美定満とともに謎の溺死を遂げた。定満による道連れの暗殺とも言われる。

直江景綱 △
上杉家の宿老。主に政治・外交を担当したが武勲も少なくない。
没すると男子がなかったため婿養子が跡を継いだが、婿養子も間もなく亡くなり、その未亡人をめとり直江家を継いだのが直江兼続である。

斎藤朝信 △
上杉家。「越後の鍾馗」と呼ばれた猛将。
謙信には深く信頼され、柿崎景家とともに軍事・政治・外交面でも活躍した。
本能寺の変の後に隠居した。

須田満親 △
上杉家。父は村上家に仕えていたが、武田軍に敗れ上杉家に降った。
上杉景勝に信任され、直江兼続に次ぐ地位にあった。
だが上杉家が秀吉ににらまれ改易が囁かれる中、嫡子が不祥事を起こして追放され、上杉家の改易も現実のものになると責任を取り自害した。
一時期、真田家の人質として真田幸村を預かっていた。

上条政繁 ×
上杉家。上杉景勝の重臣で、子供のいない景勝に代わり、自分の孫を秀吉へ人質として送るなど信頼された。
だが須田満親が台頭すると不満を抱き、秀吉のもとへ出奔し、間もなく没した。



4月30日更新

教如 ◯
顕如(本願寺光佐)の子。本願寺光寿とも。
信長との戦いで朝廷からの仲裁を無視して徹底抗戦を主張したため父から絶縁された。石山本願寺を退去すると越中から紀伊まで転々としながら一向一揆を扇動した。
信長が死ぬと赦免され父のもとに戻り、父も亡くなると跡を継ぎ法主になった。
だが強硬派だったため秀吉ににらまれ、退位を命じられたが、その後も院制を振るった。
本願寺は証如の強硬派と、弟を中心とする親秀吉派に分裂し、21世紀の現在もなお東西に分かれている。

七里頼周 △
一向宗。もともとは下級武士だったが顕如に見込まれ加賀の一向一揆を統括し「加州大将」と呼ばれた。
だが地位を得た頼周は増長し勝手に処刑を行うなどしたため家臣の反乱や農民一揆を招き、その隙をついた信長軍に攻められ敗走した。
加賀まで逃げ延びたもののその後は消息を絶ち、信長軍に討ち取られたとも言われる。

七里頼照 ▲
一向宗。越前の一向一揆を統括した。朝倉家の滅亡後、いったんは越前を支配するものの、加賀から呼び寄せた七里頼周とともに専横をきわめたため、反乱や一揆を招き、その隙をついた信長軍に攻められ、逃げる途中で門徒に討たれた。

下間頼竜 △
一向宗。主に政治・外交を担当し、教養高く堺の商人と交流し茶会に参加するなどした。(そのためか武将風雲録ではザコ武将のわりにまあまあの茶器を持っている)
教如の腹心として活動し、本願寺の分裂後も付き従った。
ちなみに息子は頼竜の死後、叔父の池田輝政のもとへ出奔し大名まで出世している。

畠山義続 △
能登の大名。家中の内部分裂を招いた責任を取り、隠居して息子の畠山義綱に家督を譲ったが、その後も権勢をふるった。
だが遊佐続光ら重臣に謀叛を起こされ息子ともども能登を追放され、六角家に落ち延びる。
上杉らの援護を得てたびたび能登奪回に動いたが、果たせぬまま息子と相次いで病死した。
有名な武田信玄の肖像画は、実は彼を描いたものだとする説がある。

畠山義慶 ×
畠山義綱の子。父と祖父が遊佐続光らに追放されると13歳にして傀儡の当主として擁立された。
が、数年後に急死。遊佐続光らに暗殺されたと思われる。

長連龍 ▲
畠山家。遊佐続光らの専横に対抗するため、父の命で信長に援軍を要請しに行くも、到着直前に父ら一族は遊佐続光によって皆殺しにされた。
出家していた連龍は還俗して織田家に仕え、遊佐続光らと激しく戦った。
その後は前田家の家老として代々仕えていく。

遊佐続光 △
畠山家の重臣。当主の畠山義続父子を追放し、跡を継がせた畠山義慶も暗殺、織田家に通じ台頭した長続連も殺し能登を牛耳った。
だが織田の大軍に攻められて降伏するも、信長は長一族を皆殺しにしたことを許さず処刑したとも、撤退中に長連龍に追撃され斬られたとも言われる。

温井景隆 ×
畠山家の重臣。遊佐続光とともに専横をきわめた。織田軍の侵攻からは無事に逃げ延び上杉家に仕えるも、前田利家と戦い戦死した。

神保長職 △
越中の大名。越中をほぼ統一するも上杉家に対して反抗・従属を繰り返した末に家中は長職の親上杉派と、息子の神保長住ら親織田派に分裂。
その隙をついて重臣の小島職鎮に家中を牛耳られ、神保長住は織田家に出奔、挙句の果てに長職は亡くなる寸前に親織田家に鞍替えと一気に国力を傾けた。
長職の死後、5年ももたずに神保家は上杉軍によって滅ぼされた。

神保長住 △
神保長職の嫡子。父と争い織田家に出奔した。
織田軍の越中侵攻の先鋒として地の利と人脈を活かし、旧神保家の勢力を次々と切り崩した。
だが上杉方の小島職鎮に敗北し、失脚。追放されその後は消息不明。

神保長城 ×
神保長職の次子。兄が出奔したため神保家を継いだ。
だが長職の晩年のご乱心で国力は傾いており、上杉軍によってあっけなく滅ぼされ消息を絶った。

神保氏張 △
神保家の庶流。妻は信長の姉。
血縁からか織田方(反上杉)についたため、晩年に親上杉派に転向した神保長職によって追放された。
その後は佐々成政に仕え越中侵攻で活躍。成政が肥後一揆を招いた責任を取り切腹すると家康に拾われた。

小島職鎮 ▲
神保家の宿老。上杉家への対応をめぐり家中が混乱した隙をつき勢力を強めた。
神保家に仕えたまま実質的に上杉家の家臣となり、越中を統括した。
一向一揆に攻められた際に援軍の到着を待たずに開城してしまい、援軍に大損害を与えたものの必死の弁解で無罪になったり、ヘタレと思いきや織田家の先鋒の神保長住を撃破したりと高い適応力を見せたが、老齢のため間もなく亡くなった。

氏家守棟 △
最上家の軍師。数々の献策で戦を勝利に導いた。
特に延沢満延の重臣を離反させ、戦わずに降伏させた逸話が有名。

小笠原長時 ▲
北信濃の大名。村上義清とともに武田信玄と戦うも敗北。同族の三好長慶を頼り大坂へ逃れた。
足利義輝らを動かし外交的手段で返り咲きを図るも、果たせぬまま長慶が亡くなると、信玄と戦う上杉家を頼った。
その後は織田家に移り、北信濃攻略のための旗印として使われた後、蘆名家に軍師として迎えられ、その地で没した。

木曽義昌 ▲
北信濃の大名。武田家の侵攻に抗せず降伏。木曽は交通の要衝で守りも固かったことから、信玄は義昌に娘をめとらせ一族として従属させた。
だが次代の武田勝頼とはそりが合わず、義昌は信長と通じて反乱を起こし、武田滅亡の引き金となった。なおこの際に武田家に人質に出していた母と長男長女を殺されている。
間もなく信長が本能寺で死ぬと、混乱をついて北信濃を治めていた森長可の暗殺を企むも失敗。逆に次男を人質に取られ協力させられた。
その後は家康→秀吉と機を見て主家を鞍替えしていくも、秀吉の怒りを買って木曽を追われ、失意のうちに没した。

武田信豊 △
武田信繁(信玄の弟)の子。父が戦死すると跡を継ぎ、武田家の重臣となった。黒備えを率いたという。
だが長篠の戦いでは不利を悟るやいち早く撤退し、武田勝頼らの怒りを買った。
木曽義昌が織田家に寝返ると討伐を命じられたが敗北し、退却中に味方の裏切りに遭い自害した。

仁科盛信 △
武田信玄の五男。仁科家を継いだ。
上杉家との国境を守っていたが織田信忠軍5万に包囲される。降伏勧告を拒否し500の兵とともに全員討ち死にした。
領民には慕われ、現在も墓所には献花が絶えないという。

小山田信茂 △
武田信玄の従弟。長篠の戦いでは主力を率い、3分の1が戦死する奮闘を見せた。
だが信長が侵攻すると、武田勝頼を居城に招くと見せかけて裏切り、武田家滅亡の契機となった。
しかし信長は信茂に「不忠者」と激怒し息子ともども処刑させた。

穴山梅雪 △
武田信玄の従兄。
長篠の戦いではいち早く戦線放棄し、その後は織田家に内通し、武田家滅亡の危機から逃れた。
本能寺の変の際には徳川家康とともに京に招かれており、逃亡中に落ち武者狩りに襲われ殺された。
家康はその後どさくさにまぎれて武田家の旧領を手に入れており、邪魔になりかねない梅雪を暗殺したとも言われる。

武田義信 △
武田信玄の嫡子。傅役の飯富虎昌らが企んだ信玄暗殺に関与したとされ幽閉され、後に謎の死を遂げた。
義信は今川義元の娘をめとっており、義元の死後に今川領への侵攻を考えた信玄によって排除されたと考えられている。

武田信繁 ▲
武田信玄の弟。人格者で文武両道に優れ、武田家の副将格だった。
川中島の戦いで戦死すると信玄は号泣し、敵対する上杉謙信ですらその死を惜しんだという。
ちなみに真田幸村の本名・真田信繁は、武田信繁にちなんで付けられたものである。

武田信廉 ▲
武田信玄の弟。信玄に生き写しで影武者を務め、信玄が急死すると数年間、信玄を演じた。
だが軍才はなかったようで武田家滅亡に際し、たいした抵抗もできずに撤退。残党狩りで捕らえられ処刑された。
武将としては凡人だが、武士としては極めて珍しく書画の才に恵まれ多くの作品を残している。

飯富虎昌 ▲
武田家の宿老。「甲山の猛虎」とうたわれた猛将で無数の軍功を誇る。
だが信玄の嫡子・武田義信を擁して謀叛を企み、弟の山県昌景の密告によって露見し切腹させられた。
武田義信をかばって罪をかぶったとも、絶大な権力を持つ虎昌を信玄が煙たがったとも言われる。
虎昌の率いた赤備えは猛将の代名詞として山県昌景、井伊直政、真田幸村らに受け継がれた。

真田昌輝、真田信綱 △
真田昌幸の兄たち。勇猛だったが長篠の戦いで戦死し、真田家は三男の昌幸が後を継ぐ事になった。
昌輝は信玄に「我が両目」と評され、真田幸村の名「左衛門」は信綱にちなんで付けられたように、昌幸・信之・幸村らチート親子に隠れがちだが名将だった。

秋山信友 ×
武田家の重臣。多くの戦功を立てた。wikiの絵がかっこいい。
長篠の戦いの敗北後、最前線で織田軍の侵攻をはね返し続けた。
だが大軍に包囲されて観念し降伏。挨拶に出向いたところを信長によって捕らえられ処刑された。

葛山信貞 ×
武田信玄の六男。信濃の名家・葛山家を継ぐ。武田家滅亡に際し、兄の武田勝頼とともに自刃した。

姉小路頼綱 ▲
飛騨の大名。もともとは三木家だったが父とともに飛騨国司の姉小路家を乗っ取る。
武田・上杉の間を巧みに泳ぎつつ織田家にも通じ、上杉謙信が没すると混乱に乗じて息子や弟らと骨肉の争いの末に飛騨統一に成功した。
しかし間もなく後ろ盾にしていた柴田勝家が秀吉に敗れると幽閉され、失意のうちに没した。
ちなみに父は中納言、頼綱は大納言を自称したが、信長の前では空気を読んで信長より下位の中納言を名乗っている。
「信長の野望」シリーズでは全国最低クラスの国力と兵力を誇るが、斎藤家や織田家と婚姻しているのでなかなか滅亡しない。


成田氏長 ▲
北条家。甲斐姫の父。はじめは上杉家に仕えていたが後に北条家に鞍替え。
織田軍が侵攻してくると降伏し、信長が死ぬと北条家に出戻りと巧みに立ち回った。
小田原征伐にあたっては忍城を守り、石田三成の大軍の猛攻に屈せず、小田原落城まで耐え抜いた。
その後は蒲生家に仕え、甲斐姫が秀吉の側室になると下野の大名に封じられた。

北条氏繁 △
北条綱成の嫡子。父にも劣らぬ名将で下総方面の軍権を任され、里見・佐竹・結城家と戦った。
外交手腕も巧みで北条氏康からも信頼されたが、隠居した父よりも早く病死した。
教養もあり、多数の絵画を残した他、鷹の飼育をさせても名人芸だったという。

伊東一刀斎 ▲
伝説的な剣豪。諸国を遍歴し無敗を誇った。剣豪の中でも最強説があるが事績は判然としない。
やはり剣豪として知られる神子上典膳や、大谷吉継の師であるとか、中国の剣豪と扇で戦い勝利したとか伝わる。

板部岡江雪斎 ▲
北条家。外交・寺社奉行を担当した。執権北条家の子孫だという。
徳川家との同盟をまとめたり、小田原征伐にあたっては秀吉との和睦のために奔走した。
その際に秀吉に気に入られ、北条家の滅亡後には御伽衆に迎えられた。
信玄の没後に「本当に信玄は死んだのか」探りに行くも、武田信廉が演じる影武者に騙された逸話がある。

里見義弘 △
安房の大名。北条家との激戦の末に里見家の最大勢力を築く。
しかし後ろ盾にしていた上杉家が北条家と同盟したため、やむなく北条家と和睦した。
死に際しまだ9歳の息子と、跡継ぎの弟・里見義頼(義弘の庶子ともされる)に平等に領地を分けたため、里見家分裂のきっかけとなった。

里見義頼 ×
里見義弘の弟(または庶子)。義弘の死後、義弘の嫡子を出家させ里見家の全権を握った。
その後は巧みな外交戦術で北条・武田・豊臣の間を泳ぎまわり、家名を存続させた。

里見義康 △
里見義頼の嫡子。父が没すると15歳で跡を継いだ。
小田原征伐に遅参したことで減封となるが、秀吉の側近としてじわじわと勢力を盛り返し、一方で家康とも通じ、関ヶ原では東軍に参加。12万石にまで加増された。

里見忠義 △
里見義康の嫡子。父の死で10歳で跡を継いだ。
義理の祖父である大久保忠隣の失脚に連座し、山陰地方へ改易となった。
その後も立て続けに減封されついには百人扶持にまで転落。男子がいないまま忠義も没し大名・里見家は滅亡した。
里見義弘以後、当主がいずれも短命に終わり運にも恵まれなかった。

正木頼忠 ▲
里見家の重臣。父は里見家と北条家の戦いが激化するとそれに乗じて独立したが、すぐに里見家に復した。
人質として北条家に送られていた頼忠は北条一族の娘をめとっていたため殺されはしなかったが軟禁された。
父が亡くなると跡を継ぐため居城に帰り、里見義頼の家督相続に協力した。
小田原征伐で北条家が滅亡、正木家は改易された里見家に代わり安房に転封になると頼忠は隠居した。
娘が徳川家康の側室となり、徳川頼宣を産んだため、それに従い余生を過ごした。

徳川頼宣 ◯
家康の十男。覇気に富み、家康には格別に目をかけられた。
14歳にして大坂夏の陣に参加。年若いため周囲の者は無理をせずまたの機会に功を立てよと諌めたが、頼宣は「14歳の時が二度あるのか」と激怒し家康を感嘆させた。
その後は徳川秀忠が「家康が目をかけた弟だろうと容赦しない」と見せつけるために紀伊へ転封となり当地の発展に尽くした。
由井正雪の乱が起こると関与を疑われたが「他家の大名が関与していたら大騒動だが、私が反乱を起こすはずがない。容疑者が私で良かったではないか」と堂々と釈明した。
徳川家の長老格で、泰平の世にはそぐわない戦国武将の気質のため幕府からは煙たがられ、領地に帰さず江戸城に長年にわたり留め置かれたという。

松平信康 ▲
徳川家康の長男。織田信長の命令により母とともに切腹させられた。
信長の暗殺を企んだとも、家康と不仲だったとも言われ理由は判然としない。


津田信澄 △
織田信勝の子。若くして勇猛で知られた。
本能寺の変に際し、明智光秀の娘婿だったことから謀叛を疑われ殺された。
殺したのは信長の三男の織田信孝で、織田家でもナンバー5だった後継者争いのライバルをどさくさで排除したと見られる。

織田信包 △
織田信長の弟。信長・お市とは母が同じで厚く信頼された。
目立った活躍はないが織田家ではナンバー3の地位にあり、野心を持たなかったため豊臣政権でも重用された。

織田秀信 ◯(幼児時代だけでいいかも)
織田信長の長男・織田信忠の子。信長・信忠が本能寺の変で討たれると、羽柴秀吉は3歳の秀信を擁立し、後見人の地位に収まり織田家を実効支配した。
関ヶ原の戦いでは岐阜城を守り、前哨戦で東軍に敗れた。その5年後に26歳の若さで病死。信長に生き写しの容貌だったという。

池田元助 ×
池田恒興の長子。勇猛だったが長久手の戦いで徳川軍に敗れ父とともに戦死した。

朝倉景健 △
朝倉義景の遠縁。姉川の戦いでは朝倉軍の総大将を務めた。坂本の戦いで森可成を討ち取るも、義景は一族の裏切りで自刃し、織田家に降伏した。
越前一向一揆が起こると抗しきれずに降伏。一揆の指揮官である七里頼照の首を手土産に帰参を図るも、信長に許されず切腹を命じられた。

朝倉景鏡 △
朝倉義景の従兄弟。義景と仲違いし、織田家と内通し義景を自刃させた。
その後は越前を統治するも一向一揆が起こり、包囲されると突撃して戦死した。

筒井順慶 ▲
大和の大名。幼少時に父が亡くなったため叔父の木阿弥が還俗し後見人となり、順慶が筒井家を継いだ。
順慶が長じると叔父は再び出家しこのことから「元の木阿弥」という言葉が生まれた。
本能寺の変に際しては、息子が明智光秀の娘をめとっていたことから光秀に援軍を期待されるも、洞ヶ峠で待機し、明智軍の敗走を見てから羽柴秀吉に協力したため「洞ヶ峠を決め込む」という言葉が生まれた。
その後、気苦労が絶えないせいか胃痛にかかるも、秀吉の命で無理をおして出陣し、病状を悪化させ36歳で没した。

筒井定次 ▲
筒井順慶の甥。順慶に男子がなかったため後を継いだ。
勇猛であり築城術に長け、古田織部と交流するなど優れた人物だったが、そのため畿内に近い大和を治めていることを警戒され、突如として秀吉に伊賀へと改易された。
それでやさぐれたのか伊賀では地元の国士はもちろん、島左近、松倉右近ら重臣たちとも対立し、酒色に溺れたという。
関ヶ原では東軍に属し所領安堵されたものの、今度は家康によって突如お家取り潰しとなった。
そして大坂冬の陣に際し、豊臣家と通じたとして切腹を命じられた。
二度の改易、切腹の理由は全て筒井家を警戒した時の権力者によるでっち上げとされる。

宇喜多忠家 △
宇喜多直家の弟。副将格として兄を支えたが、暗殺魔の兄を警戒し、近づくときにはくさりかたびらを着込んだという。
兄が没すると幼い宇喜多秀家を後見したが、お家騒動を逃れて出家し隠居した。
なお息子は坂崎直盛、娘は戦国裏最強の富田信高夫人である。

坂崎直盛(宇喜多詮家) ▲
宇喜多忠家の子。宇喜多秀家と対立し徳川家に仕える。関ヶ原で軍功があり大名に昇進、家康から坂崎姓を賜る。
大坂夏の陣にて、家康の「千姫(豊臣秀頼の妻。家康の孫娘)を助けた者に千姫を与える」のおふれに発奮し、燃え落ちる城内から千姫を救出した。
しかし千姫は醜男に加えて火傷を負った直盛を嫌い、家康もまた家名の低さに難色を示し、千姫は本多忠刻(千姫が一目惚れしたイケメン)に嫁ぐことに。
激怒した直盛は千姫強奪計画を企み、家臣に暗殺されたとも、柳生宗矩に説得され自害したともされる。

花房正成 ◯
宇喜多家。勇猛で28歳の若さで宇喜多軍を率い、秀吉のもとで戦った。備中高松城の水攻めを献策したのも正成とされる。
だが宇喜多秀家に疎まれて宇喜多家を退去。しかし忠誠心はいささかも衰えず、関ヶ原で宇喜多家が滅亡すると、再興のために奔走し、八丈島に流された秀家を援助した。
前田家からは仕官の話もあったが、宇喜多家のためにそれを固辞したという。
その後は家康に召し抱えられ旗本となるも、「花房家が続く限り宇喜多家を助けよ」と遺言している。

戸川秀安 △
宇喜多三老の筆頭。宇喜多直家に最も信頼され、直家の晩年には代わって政務を取り仕切った。
直家の死後に隠居した。なお秀安の秀は豊臣秀吉から拝領したものである。

長船貞親 △
宇喜多三老の一人。武勇に優れ自ら首級を挙げたり、黒田官兵衛に勝利したこともある。
戸川秀安の隠居後は政務を任され、幼い宇喜多秀家の名代として出陣するほどだったが、妹婿に恨まれ暗殺された。

岡家利 △
宇喜多三老の一人。各媒体に岡利勝の名で登場することも多いが正確には家利。
出陣すること40度の剛勇を誇った他、長船貞親が亡くなると宇喜多家の政務を取り仕切った文武両道の将。
だが信長の野望では政治50・戦闘50に設定されがち。

戸川達安 ▲
宇喜多家。戸川秀安の子。小早川隆景を破るなど勇猛で宇喜多家の主力だった。
隠居した父をはじめ宇喜多三老が全員いなくなると国政を任された。
だが宇喜多秀家に疎まれて徳川家に去った。戸川家の文書によると関ヶ原で島左近を討ち取ったという。

赤松義祐 △
播磨の大名。隠居後も権力を振るっていた父を追放し実権を奪った。
父は娘婿の赤松政秀を擁立し激しく争ったが、父の死で和解した。
だが政秀の野心は消えておらず、足利義昭を通じて信長を動かし、義祐を攻撃させる。
窮地に陥ったが、まだ畿内まで勢力を伸ばす余力のない織田軍が撤退すると、義祐は一転して織田家に臣従し、その援軍を得て政秀を破った。その後の赤松家は秀吉に降伏し、勢力拡大にあわせ自然と権力は消滅していった。

赤松則房 ▲
赤松義祐の子。勢力は秀吉に自然吸収されたものの、播磨の守護として秀吉に敬意を払われた。
豊臣軍として重要な戦のことごとくに参加し、播磨・阿波に石高を与えられたが、事績が極端に少なく、創作などで便利に扱われがち。

別所長治 ▲
東播磨の大名。早くから織田家に臣従していたが、秀吉が中国方面の司令となると、当時21歳の長治は若さにはやってか成り上がりの秀吉に反発し、謀叛を起こした。
波多野秀治・荒木村重・毛利輝元と連携し一時は優勢に戦うも、竹中半兵衛による「三木の干殺し」によって2年間の籠城を強いられた末、城兵の助命と引き換えに切腹した。享年23歳。

武田元明 ▲
若狭の大名。応仁の乱では東軍の副将を務めたほどの名家だったが、勢力は著しく衰退していた。
元明も朝倉家によって越前に拉致られ、若狭を実質的に支配された。
やがて織田家の援助を得た旧臣によって奪回されるものの、今度は丹羽長秀が元明に代わって若狭を実効支配した。
本能寺の変に際し、元明は明智光秀に連動して蜂起し、いったんは丹羽長秀の居城を陥落させたものの、光秀が間もなく敗死したため孤立無援となり、長秀によって謀殺(または切腹)された。

斯波義銀(津川義近) ▲
将軍・足利家の分家で尾張の守護を務める名門だったが、尾張は勢力を拡大した織田家に牛耳られていた。
今川家と内応したとして追放されるが、信長の弟(信包)に娘を嫁がせるなどして返り咲き、正統な尾張守護として傀儡に使われた。その際に信長に遠慮し斯波の名を捨て津川義近に改名した。
その後、弟が織田信雄の重臣となったものの、信雄のご乱心で殺され、秀吉に仕える。
足利義昭・山名豊国らと名門御伽衆として活躍し、さらに斯波家の分家である最上義光らとの交渉に当たる。
だが北条氏直の助命を嘆願したところ秀吉に「増長している」と怒りを買い失脚。名門中の名門のため命こそ取られなかったが、政治的権力は失った。

香宗我部親泰 ▲
長宗我部元親の弟。副将格で軍事・外交とあらゆる面に長じた。
だが朝鮮征伐の途上で息子ともども病死。以降は元親に諫言できる者がいなくなり、長宗我部家の滅亡の遠因となった。

長宗我部信親 ◎
長宗我部元親の嫡子。父譲りのイケメンかつ長身かつ勇猛で、信長に「養子に迎えたい」とまで言わしめ、「信」の一文字を譲り受けるほどだった。
だが九州征伐で功に逸った仙石秀久が無謀な策を打ち出すと、「これで敗北は決まったが、逃げ出しては恥となる。死んで名誉を残そう」と奮戦し、わずか22歳で戦死した。
以降、悲嘆に暮れる元親は著しく判断の衰えを見せ、長宗我部家は没落の道をたどることとなった。

吉良親貞 △
長宗我部元親の弟。父からは兄よりも期待されていた。
元親の命で吉良家を継ぐ。元親に代わって総大将を任されることもあるほど勇猛だったが、若くして亡くなった。

谷忠澄 ◎
長宗我部家の重臣。神主だったが元親に見出され、外交を担当した。
織田・徳川家との同盟をとりつけ長宗我部家の四国統一に貢献するが、秀吉は四国征伐を決意。いったんは阿波・讃岐の割譲で講和にこぎつけるものの、やはり秀吉軍に攻められてしまう。
敗退した忠澄は、元親に兵力差を説いて降伏を促すが、元親は激怒して忠澄に切腹を申し渡した。
だが忠澄は死を恐れずにさらに説得を続け、ついには降伏を承知させた。
その後、忠澄は長宗我部信親(元親の嫡子)とともに秀吉の九州征伐に従軍するが、仙石秀久の失策で信親は島津軍に討ち取られてしまう。
忠澄は命を賭して島津軍のもとへ信親の遺体の受け渡しを申し入れ、無事に遺体を取り戻した。

福留儀重 △
長宗我部家。土佐の童謡で「蛇もマムシもそこをどけ」と謳われた猛将。
禁酒令を破った主君を諌めるなど豪胆だったが、長宗我部信親とともに戦死した。

久武親直 ◯
長宗我部家。重臣だった兄が戦死すると重用されたが、その兄は「私がもし戦死しても決して親直を取り立てないように」と言い残していた。
長宗我部信親が戦死し後継者問題が起こると、親直は長宗我部盛親を推薦し、反対派を次々と粛清させた。
ついには盛親の兄までも暗殺させるに及び、お家騒動を招いたとして家康の怒りを買い、追放処分&長宗我部家は改易となった。
親直は奸臣として誰からも忌み嫌われるも、加藤清正に拾われたという。

吉良親実 ▲
吉良親貞の子。お家騒動の折に長宗我部盛親の後継に反対したため久武親直の讒言で切腹させられた。
後に彼とともに殉死した七人の家臣が怨霊となって甦ったのが、有名な妖怪「七人みさき」である。
なお皮肉なことに子孫は久武親直と同じく加藤家に仕えている。

依岡左京 ▲
長宗我部家。もともとは一条家に仕えたが、一条兼定を隠居させた老臣らに激怒し、老臣を討ち果たして長宗我部家に降った。
本能寺の変の際には隠密として京に潜伏しており、信長暗殺の報をいち早く元親に届けた。
秀吉の四国征伐では、講和の交渉中に根来の僧兵に秀吉暗殺を持ちかけたという。
その後、九州征伐で長宗我部信親とともに戦死。事績がどれもこれも劇的すぎて、かなり創作が混じっている気がする。

穂井田元清 ▲
毛利元就の四男。家内分裂を嫌った元就は元清ら側室の子は、正室の子である隆元、吉川元春、小早川隆景らより下の序列に置き、元清も毛利家を離れ穂井田家を継いだ。
だが軍才に秀でた元清は東部方面の守備を任され織田軍らを相手に善戦。次第に地位を強め、毛利輝元の代には筆頭家老となった。
その後、息子の秀元が毛利家を継いだため毛利家に復した。兄の小早川隆景と特に仲睦まじかったという。

毛利秀元 ◎
穂井田元清の子。男子に恵まれなかった毛利輝元の養子となり一時期は後継者に目されていた。
だが後に輝元に男子(毛利秀就)が誕生すると、秀元は後継者を辞退した。
勇猛で膂力に優れ朝鮮征伐で多くの軍功を立て、関ヶ原では22歳にして毛利家を率いて出陣。
しかし家康と内通する吉川広家に進路を遮断され、戦闘に参加できないまま撤退し、毛利家は減封となった。
その後は毛利秀就の後見人として辣腕をふるい、石高を大幅に上昇させる。
しかし次第に権力を強め、遊び人気質の秀就をないがしろにしたため仲は険悪となる。
秀元は毛利家を離れ徳川家に接近し、晩年は徳川家光の御伽衆となった。
文武両道に優れた他、古田織部の弟子となり教養高かったという。

毛利秀就 △
毛利輝元の子。関ヶ原で敗退した毛利家は改易、輝元は隠居させられ6歳の秀就が後を継いだ。
だが苦労知らずの三代目である秀就は遊蕩にふけり、夜遊びしすぎて昼間は寝不足で政務もろくにこなせなかった。
幕府からも軽く見られ不作法なことをしても「秀就は生まれつき不作法だから」と目こぼしされるほどで、遊び人として町人の噂の的にさえなった。
そのため後見人の毛利秀元にも軽んじられ、ついには秀元は独立を企て、幕府に仲裁された。
ちなみに信長の野望・武将風雲録で最後に登場する武将である。

小早川秀包 ▲
毛利元就の九男。小早川隆景に男子がなかったため小早川家を継いだ。
秀吉のもとへ人質として送られると、秀吉子飼いの武将として頭角を表し、数々の戦で軍功を立て筑後久留米の大名となった。また、ともに戦った立花宗茂と意気投合し義兄弟の契りを結んだという。
朝鮮征伐でも活躍するが、秀吉の縁戚である小早川秀秋が小早川家を継いだため廃嫡された。
関ヶ原では立花宗茂とともに大津城を陥落させるが、毛利秀元の本隊は吉川広家の暗躍で戦えないまま敗退。
筑後の所領を失い、急病にかかり翌年35歳の若さで没した。非常にイケメンだったともいう。

清水宗治 ◯
毛利家の名将。彼の守る高松城を攻めている際に本能寺の変が起こると、秀吉は信長の死を伏せたまま毛利家との和睦を進め、手こずっていた宗治の切腹と引き換えに撤退した。

隈部親永 △
隈部家の当主。はじめは大友家に仕えたが、同じ大友傘下の赤星家と反目し、龍造寺家に鞍替えした。
龍造寺家が滅びると島津家、秀吉の九州征伐により豊臣家に仕えるが、肥後一揆を扇動した。
豊臣軍により鎮圧されると首謀者の親永と、肥後の大名だった佐々成政は切腹させられた。
信長の野望では珍妙な顔グラフィックを付けられカルト人気を博す。

東郷重位 △
島津家の剣豪。示現流の開祖。兵法指南にとどまらず島津家の中枢に関与したという。
示現流は「二の太刀いらず」と言われる先手必勝の剣術で現在も警視庁で用いられる他、「チェスト」の掛け声でも有名。

丿貫(へちかん) ×
伝説的な茶人。数々の奇行で知られるが、秀吉には高く評価された。
友人の千利休が権力におもねるのを批判し、茶の湯に招いた時に落とし穴に落とした逸話で有名。


5月19日更新

朝比奈泰能 ×
今川家。太原雪斎に並ぶ重臣だった。桶狭間の戦いの3年前に病死したが、一部の史料で桶狭間に参戦しており、家中の動揺を抑えるため死を伏せられていた可能性があるとか。
また、武田家に駿河を落とされるまで存命しており、今川氏真らを逃がして自刃したという伝承もある。

朝比奈泰朝 △
今川家。朝比奈泰能の子。桶狭間では前線で戦っている間に今川義元が戦死し撤退した。
以降は徳川家康らが離反する中、今川氏真を支え続け、籠城戦では徳川軍の猛攻を5ヶ月に渡り跳ね返した。
氏真が伊豆へ追放された際にも同行し、上杉家などから援助を引き出そうとした。だが氏真が徳川家へ庇護を求めた際には姿が見えず、それ以前に亡くなったと思われる。

朝比奈信置 ▲
今川家。朝比奈家の分家筋。軍略に優れ、同じ駿河守の官位を持つ吉川元春・板垣信方と並び「戦国の三駿河」と呼ばれた。
今川家が滅亡すると武田家に仕え、信玄に「信」の字を与えられるなど、武田の重臣からも一目置かれた。
武田家が滅亡すると、信長の命で自刃した。伝承では山本勘助を今川家に推挙したが、受け入れられなかったという。

岡部元信 ▲
今川家。桶狭間の戦いでは今川義元の戦死後も籠城を続け、義元の首と引き換えに開城に応じた。ちなみにその帰り道に腹いせに織田方の城を一つ落としている。
今川家の滅亡後には武田家に降伏。前線を守るが徳川軍に攻められ、降伏を申し出るも許されず大久保彦左衛門と戦い討たれた。
その後すぐに兄(父?)の岡部正綱が徳川家に鞍替えしており、元信の最期は武田家に見捨てられたと思われる。

岡部正綱 △
今川→武田→徳川家。岡部元信の兄(父?)。
桶狭間で今川義元が討たれた後も今川家を支えたが、滅亡すると武田家に迎えられた。信玄は「一万の兵を得るのはたやすいが(正綱のような)将を一人得るのは難しい」と喜んだ。
その後は三方ヶ原の戦いなどで活躍するが、岡部元信の戦死を機に徳川家に仕え、武田家の家臣の切り崩しや、武田家の滅亡後には旧臣の登用に奔走する。
だがその際に連日酒宴を催したため、急性アルコール中毒で没したとされる。

寿桂尼 ▲
今川義元の母。聡明で夫の存命中から法制定に関わった。
夫が急死し跡を継いだ息子も幼かったため、元服するまで自らが今川家を切り回したため「女戦国大名」と呼ばれる。
その後、長男・次男が相次いで亡くなると出家していた今川義元を還俗させ、跡を継がせた。なお義元の代に今川家は京文化を取り入れているが、それは武田信玄と公家の娘の婚姻を仲介するなど、京と太いパイプを持つ寿桂尼の影響だという。
義元が戦死すると70過ぎの老齢ながら第一線に復帰し政務に関わった。今川家滅亡の前年に死去。その際には今川家を守るため鬼門の方角に葬るよう遺言したという。

飯尾連竜 △
今川家。桶狭間で今川義元が戦死し家中が動揺する中、妻にそそのかされて重臣を暗殺し、混乱に拍車をかけた。
徳川家に内通しようとするも露見し、今川軍に攻められる。籠城戦で次々と今川家の重臣を討ち取り、さらに戦力を減退させた末に和睦。だが今川氏真によって暗殺された。
伝承ではその後、妻が再び籠城戦を続けた末に戦死したという。

天野景貫 ×
今川家。桶狭間の敗戦後に今川家が衰退すると徳川家に鞍替えした。
しかし武田家に攻撃されると再び鞍替え。徳川軍の切り崩しに奔走した。
武田家も衰退すると北条家に逃れ、以降は消息を絶つ。

菅沼定盈 ▲
今川→徳川家。桶狭間の戦い後に徳川家へ鞍替え。居城は徳川・今川・武田の三ヶ国の中心に位置したため今川・武田にたびたび奪われ、自身も武田軍の捕虜にされたこともある。
しかし何度窮地に陥っても徳川家への忠義を失わなかったことを高く評価され、最終的には2万石を与えられ、関ヶ原に際しては江戸城の留守居役を任され、徳川二十八神将にも名を連ねた。

大久保忠世 ▲
徳川十六神将。弟に大久保忠佐と大久保彦左衛門。
分家筋だが勇猛な忠世の活躍で本家をしのぐ地位に成り上がった。
長篠の戦いでは信長に「まるで良き膏薬のように敵に貼り付いて離れない」と信長らしい「膏薬侍」なるあだ名を与えられた。
また人格者であり、一時出奔した本多正信の帰参を図ったり、血気にはやる井伊直政をたしなめたという。

大久保忠隣 ▲
大久保忠世の長子。父に劣らず勇猛で、三方ヶ原の戦いや伊賀越えでは体を張って家康を守った。
徳川秀忠の家老になるが、関ヶ原では真田昌幸への攻撃を主張したため本戦に間に合わなかった。
その後、家康の後継者に結城秀康を推し、文官派の筆頭でもある本多正信・正純と、武官派の筆頭格だった忠隣が対立。
本多父子の暗躍によってか、忠隣は突如として改易を命じられ、失脚したまま没した。死後、忠隣や父・忠世らの軍功をかんがみ、子供らは帰参が許された。

山田長政 ×
大久保忠佐の家臣だったが、貿易船に乗りタイへ渡ると、傭兵として活躍した。
スペイン艦隊を二度に渡り撃退した功績で王女をめとり、タイ王家の重臣となるが、後継者争いの末に暗殺された。
一説に白人に先駆けオーストラリアを発見したとも言われる。

平岩親吉 ▲
徳川十六神将。家康の人質時代からの重臣。松平信康(家康の長男)が信長に切腹を命じられると傅役の親吉は「代わりに私の首を差し出してくれ」と申し出たといい、信康の死後も家康の信頼は揺るがず、子供のいない親吉に自分の八男を養子に与えるほどだった。
誠実な人柄で知られる一方で、加藤清正の暗殺に関与(遅効性の毒を仕込んだ饅頭を親吉が先に食べ、清正を安心させた。清正の死後、間もなく親吉も死亡し、この逸話は歌舞伎の演目になっている)したとも言われる。

渡辺守綱 △
徳川十六神将。家康とは同い年で槍に優れ「槍の半蔵」と呼ばれた。
しかし熱心な一向宗徒だったため三河一向一揆では、家康と戦った。戦後、帰参するとあらゆる戦で先鋒を務めた。
大坂冬の陣では徳川義直(家康の九男)を補佐し74歳で出陣。家康の死の4年後に没した。

高力清長 ▲
徳川家。家康の人質時代からの重臣。軍事はもちろん政治手腕に優れ、奉行を務めると寛大な性格から「仏の高力」と呼ばれた。
その後も家康の一の側近で、本能寺の変に際しては伊賀越えで家康をかばい銃創を受けた。
小牧・長久手の戦い後に秀吉のもとへ使者として赴くと大いに気に入られ、豊臣姓を与えられるほどだった。
並外れて正直かつ誠実な人柄で、軍船を建造した際には余ったわずかな金を返却し、かえって家康に褒美として与えられたという。

天野康景 ▲
徳川家。高力清長とともに家康の人質時代からの重臣。同じ奉行を務めた高力は「仏」、本多重次は「鬼」、康景は「公平」と評された。
甲賀忍者の統率、江戸町奉行と多方面に渡り活躍したが、配下の足軽が徳川領の材木泥棒を成敗し、本多正純に「公儀にあだなすことを勝手にするな」と言われたことに激怒し、地位を捨てて出奔した。
康景はそのまま出家し、帰参しないまま没したが、息子は許されて旗本となったという。
足軽をかばい、己の信念に従った、まさに「公平」を重んじた男の晩年だった。

安藤直次 ▲
徳川家。武勇に優れ小牧・長久手の戦いで池田勝入、森長可を討ち取った。
誠実な人柄で信頼され、年を重ねると政治でも頭角を現し、老中を16年にわたり務めた。
一方で大坂夏の陣では61歳にして参謀・諸大名の統率・徳川頼宣(家康の十男)の副将を任じられた。
乱戦の中で息子が討ち死にしたが、遺体を収容しようとする家臣を引き止め「犬にでも食わせろ」と一顧だにせず采配を振るったという。

成瀬正成 ▲
徳川家。家康に小姓として仕え、17歳にして根来鉄砲隊を任された。
秀吉の目にも止まり5万石で招かれたが、家康への忠誠厚く「それ以上言うなら切腹する」と涙ながらに固辞したという。
鉄砲隊・堺奉行・老中・徳川義直(家康の九男)の傅役と要職を歴任した。(大坂の陣では安藤直次と同等の役割をこなし、この二人は事績も職歴も非常に似ている)
大坂冬の陣で豊臣家の裏をかいて全ての堀を埋め立て大坂城を無力化させたり、臨終の床で「家康の眠る日光に行きたい」と言い、家臣が布団を担ぎ「日光に向かう駕籠の中です」と偽った逸話も有名。

松平忠吉 ◎
家康の五男。美男子かつ勇猛で器も大きかったという。
関ヶ原の戦いでは初陣にして義父の井伊直政とともに抜け駆けし、福島正則を出し抜いて先陣を切った。
だが島津豊久を討ち取るものの、井伊直政ともども負傷し、その傷が元で直政は2年後、忠吉も7年後に28歳の若さで没した。

松平忠直 ◯
結城秀康の長男。叔父の徳川秀忠に気に入られ、その娘をめとり、越前を統治した。
大坂冬の陣で用兵ミスを祖父の家康に責められたことに発奮し、夏の陣では玉砕覚悟の突撃を敢行。「命知らずの越前兵」とうたわれるほどで、真田幸村をも討ち取った。
しかし戦後の論功行賞で不満を抱いてやさぐれ、ついには妻の暗殺まで企んだため隠居を命じられた。

徳川義直 ▲
家康の九男。儒教を重んじ剛直な人柄で、甥の将軍・徳川家光にも直言をはばからなかったため煙たがられた。
長じると自ら政務を取り仕切り、今日の名古屋や東海地方の発展は義直なくしてありえなかったとまで言われる。
一方で書物を収集し、しかもそれを死蔵することなく公開し日本初の図書館を造ったり、剣術では柳生新陰流の4世に任じられている。
また家光が危篤になると大軍を率いて上京し、すわ反乱かと驚かせたが、義直は「将軍逝去で万一のことがあった時には江戸を守る」と言うなど、非常に現代的な発想を持っていたが、それゆえに周囲の人間からは誤解されることも多かったという。

阿部正次 ×
徳川家。父の阿部正勝は家康の人質時代からの側近。
大坂夏の陣で家康の意向を図りかね、誰もが大坂城への突入を躊躇する中、真っ先に城内へ進入し、一番首を挙げたため戦功第一とされた。
その後は大坂城代となり、没するまで務め上げた。

本多忠政 △
本多忠勝の嫡子(三男)。稲姫の弟で、その夫の真田信之とは懇意だった。
関ヶ原では徳川秀忠の下につき、真田昌幸に道を阻まれたため本戦に間に合わなかった。
大坂夏の陣では毛利勝永に敗れたものの多くの首級を奪った。
だが父の死後、遺産相続をめぐり弟の本多忠朝と対立。相続は認められたものの家康に「黙って受け入れた弟のほうが忠勝に似ているな」と皮肉られたという。

本多忠朝 ▲
本多忠勝の次子(四男)。
父が死ぬと遺産のほとんどを兄に奪われたが、かえって武骨な忠勝に似ていると家康には讃えられた。
だが大坂冬の陣では泥酔したところを襲撃され敗走。汚名返上のため夏の陣で毛利勝永に突撃を仕掛け、討ち死にした。
その際には「我が墓を訪れる者は酒嫌いになるべし」と言い遺し、現在は禁酒の神様として参拝客が絶えないという。

大道寺政繁 △
北条家の三代に仕えた家老。内政手腕に優れ、大きな戦にも必ず参戦した。
秀吉の小田原征伐では果敢に戦うも城を囲まれて降伏。逆に北条方の領地の道案内役となり、城の弱点を教え、自身も激しく戦い秀吉軍を大いに助けた。
だが戦後、秀吉に北条家を抵抗させた戦犯として(寝返りを快く思わなかったとも)切腹を命じられた。

松田憲秀 ▲
北条早雲以来の家老の家柄。北条家の縁戚でもある。
内政・外交手腕に長け、伯父の北条綱成とともに各地を転戦もした。家臣団の中では大名クラスの権力を持っていた。
秀吉の小田原征伐では当初は徹底抗戦を主張するものの、堀秀政の工作で内応を決意。しかし次男の密告によって露見し監禁され、戦後には秀吉に「不忠者」として切腹を命じられた。なお戦いのさなかに割田重勝に馬を盗まれている。
別説として、北条家の家名を保つため勝手に秀吉と和睦の交渉をしたため監禁されたとも言われる。

北条氏規 ▲
北条氏康の五男。幼少期は今川家に人質として預けられ、一時期は今川義元の養子だった。その頃に幼い徳川家康とも知己だったという。
長じると北条家の外交を担当し、上杉・武田・徳川・伊達らの間を駆け回り、旧知の家康との間には多くの書状が残されている。
秀吉の小田原征伐では事前に水面下で和睦の交渉を進めるも結局は開戦に。氏規は300の兵で4万の秀吉軍に善戦するも降伏。以降は北条軍の説得に当たった。
戦後は北条氏直に同行し出家するも、氏直が間もなく没すると領地を与えられ、小身の身ながら敬意を払われた。

河合吉統 ×
朝倉家。筆頭家老で「一乗谷奉行人」と称され行政全般に関与したが、織田軍と戦い戦死した。
信長の野望では政治70武力28くらいでアイコンがかっこいい。

朝倉景隆 ×
朝倉景健の父。一族内での地位は高く、加賀一向一揆との戦いのさなかに朝倉宗滴が病死すると代わって指揮をとった。が、敗走した。
姉川の戦いを前に自分も息子も相次いで亡くなり、末子の景健だけが残った。

一色義道 ×
丹後の大名。かつては室町幕府の四傑に数えられた名家だがこの頃には没落していた。
義道は足利義昭に接近して信長に通じ勢力の盛り返しを図ったが、比叡山の焼き討ち後に僧侶をかくまったため織田軍に攻められ、逃げる途中に部下の裏切りにあい殺された。
悪政を敷いていたため、人望がなく次々と部下の離反を招いたという。

一色義定 △
一色義道の子。父から死の間際に家督を譲られた。一色家を攻めた明智光秀・細川藤孝は勇猛な義定に手を焼き、藤孝の娘(伊弥)と結婚させ和睦を結んだ。
その後は名目上の丹後守護として藤孝の指揮下で戦うが、本能寺の変後には光秀方につき敗北。(藤孝は光秀に従わなかった)
戦後、秀吉に謀叛の嫌疑をかけられ、細川軍に攻められ自害した。

松井康之 △
細川家。足利義輝に仕えていたが、義輝が暗殺されると細川藤孝とともに逃亡し、信長に仕えた。
秀吉の鳥取城攻め、小田原征伐、文禄・慶長の役で水軍を率いて活躍し、秀吉からは18万石で大名に取り立てられようと誘われたが、細川家の腹心だった康之は固辞したという。
関ヶ原に際しては豊後の留守を預かり、攻め寄せた大友軍を黒田如水とともに撃退した。

山名祐豊 △
但馬の大名。但馬と因幡に分かれていた山名家を統一した。
秀吉軍の猛攻に抗しきれず織田家に投降し、但馬守護の地位を安堵されると、山中鹿之介ら尼子軍とともに毛利・波多野と戦った。
だが重臣が勝手に毛利家と和睦を結んでしまい、激怒した信長軍に城を包囲され、そのさなかに70歳で没した。
築城技術に優れ、機に臨んで多くの城を改修し戦いを有利に進めている。
信長の野望シリーズでは因幡山名家を継いだ甥の山名豊国に吸収され、豊国の家老ポジションで登場しがち。

赤尾清綱 ×
浅井家。海北・雨森と並び「浅井三将」と呼ばれる家柄で、城内に館を与えられるほど信頼されていた。
遠藤直経とともに浅井久政を追放し浅井長政を当主に据えたり、朝倉家との交渉を担当した。
浅井家の滅亡に際し切腹したが、嫡子は清綱の働きと忠義に感心した信長によって助命されたという。

海北綱親 △
浅井家。軍事を担当した。
秀吉を何度も苦戦させ「我が兵法の師」とまで言わせた。
浅井家の滅亡に際し戦死したと言われていたが、近年になってその40年前に戦死した記録が見つかり、同名の通称を使っていた息子だったという説が出てきている。
また五男に海北派を開いた絵師の海北友松がいる。

雨森弥兵衛 ×
浅井家。赤尾・海北と並ぶ重臣だが弥兵衛は雨森一族の誰のことか不明。
一族の雨森清次は兄が姉川の戦いで討ち死にし跡を継いだが、浅井家も滅亡したため降伏した。
この頃から同じ浅井家の阿閉貞征の麾下に入っており、当主の戦死で雨森家が没落していたと思われる。
その後、阿閉貞征は本能寺の変で明智光秀に加担し滅亡。雨森清次はそれを機に隠棲したが、息子は後に堀尾家に仕えている。

堀尾吉晴 △
豊臣→徳川家。父は岩倉織田家の重臣だったが信長によって滅ぼされたため、吉晴は秀吉に仕えた。
秀吉のもとで着々と出世を重ね、小田原征伐の後には関東に転封になった家康の旧領・遠江に12万石を与えられた。
関ヶ原に先立ち家康に接近していたが、開戦直前、宴会中に加賀井重望に襲われ重傷を負いながらも返り討ちにした。おかげで本戦には参加できなかったが、息子が参戦し24万石に倍増した。
その後、隠居していたが息子が先に没すると幼い孫の後見役として復帰した。

織田信安 ×
尾張北部の守護。信長の幼なじみだったが、長じると斎藤義龍・織田信行らと結び信長と戦った。
だが長男を差し置いて次男に跡を継がせようとしたため長男によって追放され、流浪のうちに家も滅亡しやむなく斎藤家に仕えた。
斎藤家が滅びると京に逃れたが、信長から罪を許されて招かれ、後に安土城内の総見寺の住職となった。

織田信広 ×
信長の庶兄。一族の重鎮として活躍し、信長が出陣する際には留守居役を務めた。
後に斎藤義龍と結び、織田家の乗っ取りを企むが、信長に察知されて降伏。意外にも信長は赦免し、以降は忠誠を誓った。
織田家では年長者だったため一族のまとめ役となり、主に京で公家や足利義昭らとの交渉を担当した。
しかし長島一向一揆の鎮圧に出陣し、逃げる敵軍を追うも捨て身の反撃にあい戦死した。

織田信光 ×
信長の叔父。信長の家督相続に協力するも、信長(あるいは信長と対立する弟の織田信勝)によって暗殺された。
創作などでは信長の初期の理解者として描かれがち。

織田信友 ×
尾張の守護代で、織田家の本家に当たる。
織田信勝を擁立し信長に対抗するも敗北。傀儡としていた尾張守護の斯波義統を暗殺し兵力を吸収するが、斯波義統の息子は信長を頼る。「主君殺しの織田信友を討つ」という格好の大義名分を得た信長に攻撃され、織田信光によって討たれた。

中村一氏 △
豊臣家。若い頃は村の暴れ者で知られた。
長じると鉄砲隊を率いて多くの軍功を立てた。関ヶ原では先見の明から東軍につくも、開戦前に没した。
城を雑賀衆に囲まれた際、海から大ダコに乗った僧侶と無数のタコが現れ窮地を救ったという伝説がある。

田中吉政 ◯
豊臣→徳川家。前半生は不明で近江の村人だった説があり、大名となってからも気さくに村を練り歩き民と言葉を交わしたという。
豊臣秀次の筆頭家老だったが秀次の切腹の際には「よく諫言していた」と評価され罪に問われるどころか加増された。
関ヶ原では東軍に属し(吉政の故郷の?)近江を逃亡していた石田三成を捕えた。
死罪確実の三成を手厚く遇したため三成も「他の誰かに捕まるならお前で良かった」と感謝した。
内政手腕に優れ、統治した岡崎・八幡・柳川のいずれも現代の発展の基礎を作ったと言われている。
また大らかな性格でキリスト教も仏教も保護し、また着物に家紋を付けさせた際、左右を逆にされてしまったが怒るどころかせっかくだからと逆の家紋を正式に採用したという。

蜂須賀家政 ▲
蜂須賀小六の長男。父とともに秀吉軍の主力として活躍。四国攻めの後に秀吉は今までの軍功から小六に阿波を与えようとしたが、小六は秀吉の側を離れたくないと断ったため、やむなく家政に阿波を与えたという。
秀吉の死後はいち早く家康に接近したため、豊臣家の怒りを買い追放されたが、かえって家康の信頼を得た。
息子の蜂須賀至鎮に家督を譲り隠居していたが、至鎮が早逝すると孫の後見人として復帰。戦国を知る長老格として徳川家光の御伽衆も務めた。
伊達政宗には「阿波の古狸」と評された他、小六をはじめ蜂須賀家の当主はみな大の釣り好きで、阿波踊り誕生のきっかけを作ったのも家政だという。

蜂須賀至鎮 ×
蜂須賀家政の長男。家康の養女をめとっていたため、関ヶ原では東軍に参戦。
家督を継ぐと優れた内政手腕で領地を大いに発展させたが、父に先立ち35歳の若さで没した。
聡明かつ人徳ある名君で、それを物語る多くの逸話が残っているという。

滝川雄利 ▲
伊勢の木造一族。僧侶だったが滝川一益に見込まれて娘婿となった。
信長にも才を認められ織田信雄の家老となり、北畠具教を暗殺した。
織田信雄、豊臣秀次と仕えた主君が次々と改易になるも、自身は特に咎めを受けず、着々と出世を重ねた。
そのラッキーボーイ&サゲチン体質は関ヶ原でも発揮され、西軍で戦ったのに出家しただけで許され(というかもともと出家している)家康の御伽衆になった。
なにげに信長→秀吉(羽柴姓まで与えられやはり御伽衆になっている)→家康と天下人全員に見込まれている謎多き男である。

丹羽長重 ▲
丹羽長秀の長男。父が亡くなると123万石を継いだが、なんやかやと理由を付けられ4万石にまで落とされた。
いったん12万石に加増され参議の地位を得て「小松宰相」と呼ばれるものの、関ヶ原で西軍に味方しご破産に。
だが不屈の長重は徐々に出世を重ね、最終的には10万石にまで盛り返す。関ヶ原で西軍に属しながら10万石の大名へ復帰したのは彼と立花宗茂だけである。
築城技術に優れたのと、長年の苦労を買われ徳川秀忠の御伽衆に抜擢(他のメンバーと比べ長重は若く、軍功も少なかった)されたのが勝因だろうが、度重なる転封のせいで丹羽家の財政はどん底だったという。

前田利長 ◯
前田利家とまつの長男。妻は信長の娘。早くから父とともに各地を転戦した。
利家が没すると加賀100万石を継いだが、周囲から対家康の急先鋒として担がれかけ、加賀へと帰国。
家康が謀叛を疑い討伐軍を出すと、いったんは豊臣家に援軍を請い応戦しようとするも、母まつの説得で翻意し、娘を徳川秀忠の妻として差し出すなどし、許しを得た。
その後は関ヶ原の西軍に呼応した隣国の大名を蹴散らしたため、本領安堵となった。

織田頼長 ×
織田有楽斎の長男。豊臣家に仕えていたが、乱交パーティーを主催していた公家の逃亡を助けたため追放された。
浪人をしていたが大坂冬の陣を機に豊臣家に復帰。雑兵1万の指揮を任されたが、豊臣軍の総大将の座を得られなかった頼長は攻め手の藤堂高虎と示し合わせて戦闘放棄した。そのため再び追放され、父の流派を継ぐ茶人となった。
妻が教如(本願寺光寿)の娘だったり、別名として織田秀信(信長の孫と同名)を名乗ったりと無頼漢の彼に権力を持たせるのを恐れたのか、父も幕府も領地を一切与えなかったという。

浅野幸長 △
浅野長政の長男。父に似ずバリバリの武断派で加藤清正・福島正則と並び称された。
石田三成憎しから関ヶ原では東軍に属したものの、あくまで豊臣家に仕えたため家康には警戒された。
大坂の陣を前に38歳の若さで没し、家康に暗殺されたとささやかれている。

浅野長晟 ▲
浅野長政の次男。兄の浅野幸長が急死すると跡を継いだ。かつて徳川秀忠の小姓で親徳川派の彼に浅野家を継がせるため、家康は幸長を暗殺したという説が根強い。
大坂の陣では家康の期待通りに東軍の主力として戦い塙団右衛門を討ち取る。
後に福島正則が改易されるとその領地を与えられるなど徳川家の信頼は厚かった。

加藤光泰 △
はじめ斎藤家に仕えたが滅亡後は秀吉に仕える。
多くの軍功を立てたが預けられた秀吉の領地で着服したため改易される。復帰後は甲斐を任され関東へ転封した家康に睨みを利かせる大役を命じられた。
朝鮮遠征では自ら志願して海を渡る。だが同地で病を得て(対立する石田三成に毒殺されたとも)帰国できずに没した。

金森長近 △
勢力争いに敗れた父に従い尾張に流れ着き織田家に仕えた。ちなみに長近の「長」は信長に与えられたもの。
柴田勝家の寄騎として戦うが、勝家が秀吉に敗死し降伏。以降は秀吉に仕えた。
武勇に優れた一方で茶人としても名高く、千利休が殺されるとその長男をかくまったという。

蜂屋頼隆 △
斎藤道三とともに斎藤義龍と戦うも、敗北して織田家に流れ着いた。
その後は織田家の重鎮として軍事・政治にフル回転。主要な戦のほとんどに参戦しており、創作などではきわめて地味に描かれるが、織田家でも十指に入る重臣である。
信長の死後は仕えていた織田信孝から離れ秀吉に接近するなど時勢を見極める目も持っていたようだ。

坂井政尚 △
織田家。柴田勝家、森可成、蜂屋頼隆と並び称されるがきわめて無名。
織田軍の主力として戦うほか、四人で京都の奉行もしていた。
比叡山の焼き討ちの際に朝倉軍残党と戦い、孤立して戦死した。
その最期は「一騎当千の働き比類なし」と記されている。

四王天政実 △
父は明智光秀に仕えた重臣。政実も本能寺で森蘭丸を討ち取ったという。
光秀の敗死後は浪人していたが青木秀以(秀吉の縁戚)に拾われ橋奉行となる。
その後、秀以が亡くなると領地に赴任した結城秀康に仕え、やはり橋奉行を命じられ、四王天家はその後9代にわたり橋奉行を務めたという。

佐久間正勝 △
佐久間信盛の子。正確には佐久間信栄が正しいらしい。
父とともに信長に仕えたが突如として追放された。父の死後に赦免され織田信雄に仕えるも、小牧・長久手の戦いで留守中に居城を滝川一益に奪われ、戦下手を悟ったのか以降は戦場に一切出ていない。
信勝の改易後は秀吉、家康に茶人・御伽衆として仕えた。

柴田勝豊 ▲
柴田勝家の甥。子の無い勝家の養子となるが、同じ養子で年少の柴田勝政が厚遇されるのに不満を募らせ、賤ヶ岳の戦いの際に大谷吉継の調略で、治めていた長浜城ごと秀吉に寝返った。
だが重病に掛かっていた勝豊は間もなく28歳の若さで没した。

柴田勝政 ×
柴田勝家の甥。武勇に優れたため子の無い勝家の養子となる。だが彼がひいきされたことにより柴田勝豊の寝返りを招いた。
その後の消息は不明だが賤ヶ岳の戦いで脇坂安治に討ち取られたとも、秀吉に仕えたとも伝わる。

稲葉貞通 ×
稲葉一鉄の嫡子。賤ヶ岳の戦いでは秀吉方につくも、信長の息子(織田信孝)と戦うのを心苦しく思い、隠居して息子に家督を譲る。だがその息子が九州征伐の折に秀吉の怒りを買ったため再び当主の座に着いた。
以降は小田原征伐や朝鮮遠征で活躍。関ヶ原では最初は西軍につくも、東軍に寝返り奮戦したため加増された。

氏家行広 ▲
氏家卜全の次男。父・兄が亡くなると跡を継いだ。
関ヶ原では家康の会津征伐に従軍中、石田三成の挙兵を聞くと家康に断りを入れて帰国。中立を宣言したが戦いが足元まで及んできたため西軍として参戦。戦後に改易となった。
浪人していたが大坂の陣では荻野道喜と名乗り豊臣家に復帰。家康は行広を惜しみ投降を呼びかけたが無視して奮戦し、最期は豊臣秀頼らとともに自刃した。

竹中重門 ×
竹中半兵衛の嫡子。父の跡を継ぎ豊臣家で活躍した。
関ヶ原では最初は西軍に属したがすぐに城を家康に明け渡して降伏。幼なじみの黒田長政とともに最激戦区に投入され、戦後には小西行長を捕らえる金星を挙げた。
その後、大名にはなれなかったが、大名に準じる扱いを受けた。ちなみに関ヶ原は竹中家の領土にある。

斎藤長龍 ▲
斎藤道三の末子。正確には斎藤利治らしい。
信長に斎藤家の正統後継者として取り立てられ、織田軍の主要な戦のほとんどに参戦。後に織田信忠の家老となる。
秀吉への援軍として重病をおして進軍中、本能寺の変に遭遇。信忠とともに奮戦し、信忠の死を見届けると、同族で明智光秀の重臣・斎籐利三と戦い討ち死にした。

遠藤慶隆 △
はじめ斎藤家に仕えたが滅亡すると織田家に仕えた。織田軍の主要な戦の多くに参加している。
信長の死後は織田信孝に仕える。賤ヶ岳の戦いに際し秀吉軍に包囲され餓死寸前となるまで抵抗するも、信孝が降伏したため以降は豊臣家に仕える。
しかし数年後、この時の抵抗を口実に減封にあう。しかも新しい領地を得られず町人の家に間借りし、太閤検地に訪れた奉行に泣きついてようやく領地を得る有り様だった。
その後は織田秀信の傘下に置かれるも、関ヶ原では東軍につく好判断を見せ、ようやく安定を得た。
13歳で家督を継いで以来、笑えるほど苦労と困難に見舞われているのでぜひwikiなどで調べて欲しい。

福原貞俊 △
毛利家。大伯母が毛利元就の母で、代々毛利家の重臣。
大きな戦では常に主力を率いて戦い、毛利元就の死後には吉川元春、小早川隆景、口羽通良と並び四人衆と呼ばれた。
73歳で隠居し82歳で没した。子孫も代々、長州藩で家老になっている。
余談だが福原家の当主の名前は二~三代ごとに世襲制なのか、貞俊の父をはじめ8・10・13・15代当主は全員が福原広俊である。

天野隆重 ▲
毛利家。もともと大内家に従属していたが、陶晴賢が大内家を乗っ取ると毛利家に鞍替えした。
毛利の重臣・福原貞俊の妹をめとっていたため厚遇された。
ハイライトは尼子家との戦い。攻め寄せる山中鹿之介らを67歳の隆重はたった300の兵で何度も撃破した。
武将風雲録では開始時点で53歳なのに、それから30年以上働いてくれる貴重な戦力である。

口羽通良 ×
毛利家。行政手腕に優れ70歳で亡くなるまで辣腕を振るった。
彼や福原貞俊、天野隆重、当主の毛利元就ら主力が長寿を保ち、長年に渡り活躍したのが毛利家の隆盛に一役買っただろう。

熊谷信直 △
毛利家。敦盛で知られる鎌倉時代の勇将・熊谷直実の子孫。
もともと安芸武田家に仕え、父は毛利家と戦い敗死していたが、大内家に攻められ救援された際に毛利元就の人柄を間近に見て、考えを改めた。
その後、武田家と争い毛利家に降る。娘(ものすごい醜女ともされる)を吉川元春に嫁がせ一門衆となり、吉川軍の主力として、先祖譲りの勇猛さを見せた。

乃美宗勝 △
毛利家。小早川水軍を率いた。大内家との戦いでは縁戚である村上水軍を味方につけ、勝利のきっかけとなった。
自身も吉川元春に並ぶ猛将として知られ、生涯で15通もの感状を得ている。
朝鮮征伐の途上に病死。嫡子が信長に内通した疑いで暗殺されたが、最期まで毛利家に尽くした。

鶴姫 ×
上野隆徳の妻。三村元親の妹。
毛利・宇喜多連合軍に敗れ三村元親は自刃し、上野隆徳の居城も毛利軍に囲まれた。
そのさなか、鶴姫は数十人の侍女とともに出撃し、包囲の一角を破った。
乃美宗勝を見つけると一騎打ちを挑んだが、宗勝は「女にふるう刃はない」と固辞。鶴姫は家宝の名刀を託すと城に戻り夫ともに自害したという。
戦国BASARAの鶴姫は、彼女とその数十年前に活躍した瀬戸内のジャンヌ・ダルクのほうの鶴姫の設定をミックスして造られたと思われる。

島津歳久 ▲
島津貴久の三男。兄の義久、義弘の副将・参謀を務めた。
秀吉の九州征伐にあたっては唯一、秀吉の実力を認め降伏を主張したが容れられなかった。
いざ開戦すると、戦況が不利になっても逆に徹底抗戦を主張し、秀吉の駕籠を狙撃しあわや討ち取るところだった。
後に梅北国兼が一揆を起こすとそれに歳久の家臣が多く参加していたこと、病で朝鮮遠征へ参加できなかったことから謀叛を疑われ、秀吉の命を受けた義久に攻撃された。
歳久は病で身動きすらろくにできず、また家臣の反抗心が強かったためいったんは逃走したものの、追いつかれると追手に首を取らせた。

島津忠良 △
島津義久らの祖父。島津の分家だが、父と祖父が相次いで殺され、元服するまでは母が当主を務め、長じると嫁入りと引き換えに忠良を当主に据えた。
やがて島津本家で後継者争いが起こると、実力者の忠良は息子の島津貴久を男子のいない本家の当主にすることを条件に協力を申し出、島津家の実権を握った。
その後は貴久を助け軍事・政治・外交すべてで辣腕をふるい「島津家の中興の祖」と呼ばれるまでになった。

梅北国兼 △
島津家。肝付家の一族で、国兼は頭角を現し島津家の水軍を任された。
だが秀吉の九州征伐や朝鮮遠征へ反抗し、一揆を起こした。
一時は加藤清正の居城を奪ったものの、清正の部下によって暗殺され、一揆はわずか3日で鎮圧された。

北郷時久 ×
島津家。日向に居城を構えていたが、早くから島津家に協力し、日向の大名・伊東家と戦った。
秀吉の九州征伐では伊集院忠棟とともに主力を率いて出撃するも、忠棟は合図を無視して進軍せず、孤立した時久は大敗した。
その後は居城を忠棟に奪われ、息子も早世とさんざんな余生を送った。

種子島時堯 ×
島津家。鉄砲が伝来した種子島の領主。
当時16歳で家督を継いでいた時尭は鉄砲に着目し、大金で二挺を購入。全国へ広まるきっかけとなった。

種子島久時 △
種子島時堯の次男。兄が早世したため跡を継いだ。
島津忠恒の家老で、鉄砲術に優れた。文禄・慶長の役で島津軍が猛威を振るったのは、久時の鉄砲術によるところが大きいと言われる。

伊集院忠棟 ▲
島津家の筆頭家老。秀吉の九州征伐にあたっては、戦前から水面下で秀吉と和睦交渉をしており、島津義久ら主戦派を説得していた。
しかし説得は実らず開戦になると「合図が聞こえなかった」と偽り命令を無視して戦場に現れず、島津軍を大敗させた。
そして自らを人質に、秀吉へ降伏を嘆願し、義久らも説き伏せたため、島津家は取り潰しを免れた。
だがそれをきっかけに石田三成ら豊臣家の中枢に近づき、権勢を強めたためか、島津忠恒(悪い方の家久)によって暗殺された。
島津家からは「国賊」と罵られる一方で、島津家を存続させた功臣ともされ、評価は二分している。

伊集院忠真 △
忠棟の嫡子。父が暗殺されるとすかさず反乱を起こした。
秀吉の仲裁で和解はしたものの、依然として不満を持ち、家中でも屈指の権力を持っていたため、関ヶ原の際には忠真の反乱を警戒し、西軍の主力となるはずだった島津義弘はわずか800の兵しか連れ出せなかった。
その後、狩りのさなかに島津忠恒の家臣によって暗殺された。同時に一族もまとめて殺され伊集院家は滅亡したが、さすがの悪い方の家久も気が咎めたのか、忠真の娘を養女にし、家康の甥に嫁がせている。

上井覚兼 △
島津家の重臣。多くの戦功を挙げる傍ら、義久の代には政治を取り仕切り、日向一国を任された。
島津家が秀吉に降伏すると隠居を強いられ、間もなく病死した。
十数年にわたり記した日記が現存し、島津家の政策や当時の大名家の日常を知る史料として著名。

新納忠元 ▲
島津家の重臣。武蔵守。島津家で剛勇の者を数える際、常に初めに指を折られることから「親指武蔵」とうたわれた。
秀吉の九州征伐では島津義久が降伏するまで独り抵抗を続けた。一方で夜営では火縄の灯りで古今和歌集を読む教養人で、長宗我部信親を討ち取った際には、遺体の引き取りに来た谷忠澄に「私がいれば戦死などさせなかった」と泣いて詫びる人情家でもあり、部下に大いに慕われた。
その死に際しては殉死を禁止されていながら殉死した者が2名、殉死の代わりに指を詰めた者が50余名に及んだという。

喜入季久 △
島津家。もとは島津姓で縁戚と思われる。
島津義久の代には家老として軍事・外交にフル回転。教養人でもあったという。
初見では絶対読めない名前はインパクト抜群。

木食応其 △
真言宗の僧。秀吉が根来寺(真言宗の総本山)を攻めた際に和睦交渉をし、逆に秀吉から援助を引き出した。
その後は豊臣家の外交役として活躍する他、全国を行脚し100近い寺社の造営に携わった。
関ヶ原では豊臣家との縁から西軍の城へ降伏勧告を行ったが、西軍との内通を疑われてしまい、難を逃れ隠居した。

富田勢源 ×
富田流をひらいた剣豪。鐘巻自斎の師。一説に佐々木小次郎の師とも。
朝倉家に仕え、名うての剣豪を相手に薪で真剣に勝ったという。
眼病を患い引退し、弟に家督を譲り出家した。
様々な流派の開祖とされ(著名だったため名前を勝手に利用されたと思われる)、漫画「喧嘩商売」の主人公が富田流であることからも有名に。

富田重政 ×
富田流の剣豪。越後守の官位にちなみ「名人越後」と呼ばれた。
前田利家の家臣として活躍し、冨田勢源の姪をめとった。
冨田勢源が引退し、跡を継いだ弟(重政の義父)に家督を譲られる。
前田家で1万石を与えられ、小田原征伐や関ヶ原でも活躍。大坂夏の陣では隠居の身(といってもまだ51歳)で参戦し19の首級を挙げた。

鐘捲自斎 △
鐘捲流をひらいた剣豪。弟子に伊東一刀斎、佐々木小次郎。
富田勢源(またはその弟)に師事し「富田の三剣」とうたわれた。
漫画「バガボンド」で一躍有名に。

御子神典膳 ×
里見家に仕えたが、出奔して伊東一刀斎の弟子に。後継者争いに勝利し一刀流を継いだ。
後に徳川秀忠に仕え小野忠明に改名。数々の戦で手柄を立てるが、傲慢な性格がたたり追放された。

6月5日更新

伊東義祐 ▲
日向の大名。朝廷に働きかけ地方大名では異例の高位である従三位を得た。
巧みな戦略で日向を統一するが、驕り高ぶって奢侈と京風文化におぼれ無双シリーズのの今川義元状態に。
島津家がじわじわと勢力拡大するも、佞臣たちに報告を握りつぶされる劉禅状態へグレードアップし、気がついたら城を囲まれ、決死の雪山越えで大友家へ逃げる。だが大友家も島津家に大敗すると立場を失い、伊予の河野家を頼った。
後に一族が仕えていた縁から息子の伊東祐兵は秀吉に仕えたものの、義祐は「従三位のまろが秀吉ごときに頭を下げられるか」と拒否し、お供を1人つれて中国地方を気ままに放浪。
だがそのお供も撒いて遊んでいた折に病気に倒れ、息子のもとへ向かう途中、船の中で動けなくなり、面倒がった船頭に砂浜に捨てられた。
なんとか息子の嫁に発見されるも死亡。最期は袁術状態だった。

相良義陽 ▲
肥後の大名。島津家と同盟し肥後の支配を確立したが、勢力拡大する島津家の前に降伏。阿蘇家への攻撃を命じられると阿蘇家の軍師で親友の甲斐宗運と戦うことに耐えられず、わざと無防備な陣を敷き、甲斐軍に討ち取られた。
THE・実直な逸話が多いので以下箇条書き。
・勤王家で知られ、近衛前久が勅使として来ると臣下の礼をとり、感動した前久は思わず島津家に強引に相良家との和睦を命じた。
・阿蘇家への攻撃を命じられると神社に自らの戦死を祈願した。
・阿蘇家との戦いを前に島津家は義陽から預かっていた人質を返した。(人質を返したら義陽が裏切ると島津家ですら思っていない)
・甲斐軍が迫っても義陽は動かず、床机に座ったまま斬り殺された。
・甲斐宗運はもちろん島津義弘も義陽の死に涙した。
・相良家の家臣は義陽の戦死した土地が踏み荒らされるのを不憫に思い、土手を作ってその上に廟を建てた。

丸目長恵 △
相良家の剣豪。あらゆる武術の他、書や和歌の達人でもあった。
もとは足軽だったが父とともに初陣で活躍し丸目の姓を与えられた。
後に京で上泉信綱に師事し一番弟子になるも、相良家に戻り島津家久(良い方)の策にはまる大失態を演じて謹慎処分に。
ますます兵法に打ち込むようになった長恵は他流試合で無敗伝説を築き、噂を聞いた上泉信綱に西国の教授を任されるほどに。やがて信綱のもとでさらに兵法を極めようとしたが、その直前に信綱は死去。長恵は悲嘆に暮れながらも数年の修行の後に「タイ捨流」を開いた。
後に相良家への帰参を許され、九州一円にタイ捨流を広めた。立花宗茂も弟子の一人である。

天久院 ×
池田恒興の娘。山崎家盛に嫁ぐが、関ヶ原のおりに夫が池田輝政(天久院の兄)の妻(家康の娘)を石田三成からかくまうのに必死で、自分のことをないがしろにしたのに激怒し、離縁状を叩きつけて出家した。
その後、弟や輝政の城で世話になっていた時、乱心者が大勢を殺した。天久院が薙刀を手に立ちはだかると乱心者は恐れて逃げ出し、彼女はそれを追い真っ二つに切り伏せた。
さらにある時、下女が行方不明になる事件が頻発したため、天久院は下女に変装して犯人を待ち伏せした。
はたして現れた犯人は天久院を抱えてさらおうとしたが、彼女はブルドッキングヘッドロックで倒し(原文は「後ろ首と額をつかんで倒した」なので間違いなくブルドッキングヘッドロック)そのまま殴り殺した。犯人は巨大な化け猫だったという。

妙印尼 △
由良成繁の妻。甲斐姫の祖母。
夫が亡くなり出家していたが、嘘の茶会に誘われた馬鹿息子2人が北条家に人質に取られてしまう。北条家は由良家に降伏を要求し城を包囲したが、当時71歳の妙印尼はそれを無視して籠城を続けた。人質を殺すぞという脅しに大砲を浴びせるなど頑強に抵抗したため、北条家は由良家の支城をいくつか明け渡すだけで引き下がり、人質を解放した。
その後、秀吉の小田原征伐に際し馬鹿息子2人は北条方についてしまったため、由良家の滅亡を危惧した妙印尼は300人を率いて秀吉方の前田利家軍に参戦。
77歳のババアの活躍に利家は感嘆し、秀吉も息子2人を助命し石高まで与えた。その際の宛名は息子ではなく妙印尼宛だった。
また現存する妙印尼の肖像画には、軍配を手にした姿が描かれているという。

妙林尼 △
大友家。吉岡家に嫁ぎ吉岡妙林とも呼ばれる。
島津家の侵攻に対し、息子が本城へ入っていたため留守の居城を守った。妙林尼は農民や遠征に同行しなかった老兵たちを指揮し、16度にわたり攻撃を跳ねのけた。
島津軍は攻略をあきらめ妙林尼と和睦したが、妙林尼は秀吉軍の接近を聞くと島津軍に偽装投降を申し出、酒でもてなし帰って行くところを追撃し、さんざんに打ち破った。
その後は歴史から姿を消すが、近年になって町おこしに利用され再評価が進んでいる。

奈多夫人 ×
大友宗麟の正室。神宮の娘だったためか宗麟を筆頭にキリスト教に傾倒していく大友家に激しく反抗し、夫らに棄教を迫ったためキリシタンからは伝説的な迫害者の名前からイザベルと呼ばれた。
だが息子らもキリシタンになっていくと、それに反対する奈多と宗麟の仲も悪化し、ついには一方的に離縁された。
晩年は丸くなり侍女らのキリスト信仰を咎めなくなったという。

足利氏姫 ×
古河公方・足利義氏の娘。本名は不明で足利氏の姫という意味。
父が没すると男子がいなかったため9歳で家督を継いだ。主家の北条家が滅亡すると、秀吉から敵対していた小弓足利家との結婚を命じられ、両足利家は80年ぶりに統一された。
だが結婚後も古河公方の居城(わずか300石)に住み続け、彼女の死後も孫の代まで当地を離れなかった。

二階堂阿南 ×
伊達輝宗の姉。政宗の伯母。
二階堂盛義に嫁ぎ、人質に取られた嫡子の盛隆が蘆名家を継いだ。
政宗によって蘆名家を滅ぼされるが、降伏勧告を拒否して抗戦し、落城すると自害しようとしたが伊達軍によって救われ、やむなく甥のいる岩城家に移った。(ちなみにこの頃、阿南を筆頭に輝宗の兄弟姉妹のほとんどは反政宗連合に加わっている)
その甥も亡くなると二階堂家と長年に渡り同盟し、妹の嫁いでいた佐竹家に移り、そこで没した。政宗に反抗し続けた生涯だった。

奥平亀 △
徳川家康の長女。信長の命で奥平信昌に嫁いだ。
奥平家と、娘が嫁ぎ懇意にしていた大久保家が改易となると、それを本多正純の謀略と思った亀は報復を考え、弟の徳川秀忠に正純が暗殺を企んでいると吹き込んだ。世に言う「宇都宮釣り天井事件」である。
事件の真偽も亀が黒幕かも不明だが、正純は間もなく改易→追放となった。
奥平家が改易になった際には、屋敷から私物はもちろん畳やふすま、さらには植木まで残らず持ち去ろうとしたり、創作では長篠の戦いに際し夫を助け武田軍の猛攻を防いだりと、気丈な逸話が多い。

藤代御前 ×
津軽為信に求婚されたが、夫を他ならぬ為信に殺されていたため拒絶した。
為信は兵を派遣して強引に連れ出そうとするが、武勇に優れていた御前も兵を集めており反撃に打って出た。だが抵抗むなしく「為信を末代まで呪ってやる」と言い遺し討ち死にした。
為信は臨終の床につくと御前の恨みを思い出し、御前の墓の上に自分の墓を建てさせ、霊を抑えこむよう命じたという。

井伊直虎 ×
「女地頭」と呼ばれた女性当主。井伊直政のはとこに当たる。
兄弟に男子がいなかったため井伊直親を婿養子に迎える予定だったが、直親は謀叛の疑いを掛けられ逃亡している間に正室を迎えてしまい、婚期を逸した。
そして父や一族の男子が次々と亡くなっていくと、直虎を名乗り井伊家の家督を継いだ。
やがて徳川家に従属するようになり、直親の遺児の井伊直政を養子に迎える。生涯未婚のまま没すると、直政が井伊家を継いだ。

おつやの方 ×
信長の叔母。男子に恵まれないまま夫が亡くなったため信長の五男・織田勝長を養子に迎え、幼い勝長に代わり当主となった。
しかし武田信玄が上洛を開始すると、おつやがそれに内応したため、上洛と見せて遠江の侵攻を考えていた信玄は一転して東美濃へ進撃した。
おつやは武田方の秋山信友と婚姻し、勝長は甲斐に送られたが、間もなく信玄が急死したため上洛は取りやめとなり、おつやは孤立した。
織田軍はおつやと秋山信友の籠もる城を包囲し、やむなくおつやは降伏。だが信友は挨拶に出向いたところを殺され、おつやも捕らえられ磔となった。(激怒した信長自らに斬られたともいう)
その後、勝長は武田家から返されたが、本能寺の変に際し兄・織田信忠とともに戦死している。

前田豪 △
前田利家の娘。子供のいない秀吉へ養女に出される。秀吉は「男ならば関白にしてやれた」と言うほどかわいがり、難産に苦しむ原因が狐のたたりだと聞くと、伏見稲荷に「豪から出ていかなければ日本中の狐を殺す」と恫喝の手紙を送りつけたという。
15歳で宇喜多秀家に嫁ぐが、関ヶ原の敗戦後、秀家は東軍に追われ島津家にかくまわれる。豪は秀家が亡くなったと偽るも、徳川家に降伏した島津家は秀家を差し出してしまい、息子とともに八丈島へ流罪となった。
まだ二十代の豪は前田家に戻されたが独身を貫き、秀家への援助を続けたという。
また末娘は誕生日から逆算すると秀家の逃亡中にどこかで会った際に身ごもったとしか考えられず、仲睦まじさがうかがえる。

山内千代 ▲
徳川政権下で土佐の大名となった山内一豊の妻。出自や本名は不明。
貧しかった頃に嫁入りの持参金で夫に馬を買ってやり、その馬が信長の目に止まり加増されたとか、髪を売って軍資金の足しにしたとか、様々な逸話が伝えられる。
子宝には恵まれず、甥の山内忠義が跡を継いだ。
司馬遼太郎の「功名が辻」で主人公に抜擢されたため夫の数倍は著名である。

望月千代女 △
甲賀忍者53家の筆頭・望月家の当主。同族で武田信玄の甥・望月氏に嫁いだ。
夫が川中島の戦いで討ち死にすると、くのいちの頭領となり、身寄りのない少女を数百人集めて歩き巫女(巫女として全国を放浪し情報収集するくのいち。お色気忍法を使う)を養育した。

新納梅窓 ×
島津忠良の母。夫と義父を早くに亡くしたため幼い忠良に代わり実質的に家を切り盛りした。
近隣の領主である島津運久に強引に求婚され(正室がいるからと断ったら正室を殺して再度求婚してきた糞野郎である)断りきれず、忠良に家督を譲ることを条件に結婚した。
その後、忠良は島津家の中興の祖と呼ばれるほどに成長し、梅窓の一族は新納忠元ら島津家の重臣を輩出した。

慶誾尼 △
龍造寺隆信の母。夫が死ぬと鍋島家に嫁いだため鍋島直茂の継母でもある。
大友家の大軍に城を包囲された際、降伏しようとした隆信らを62歳の彼女が「大の男が鼠のように怯えるな。男なら命を賭けろ」と薙刀を手に叱咤したため、奮起した龍造寺軍は大友軍を蹴散らした。
その後、隆信が戦死すると鍋島直茂に後事を託すとともに76歳の彼女も政務に携わった。92歳で逝去。

昌泉院 ×
福島正則の妻。家康の養女。
嫉妬深く、正則が側室の家から帰ると薙刀を手に玄関で仁王立ちして出迎えたため、正則は「戦場で敵に背中を見せたことはないが(退却するときですら前を向いたまま後ろ歩きで逃げたという逸話がある)女の嫉妬は恐ろしい」と恐れをなして逃げ出した。
ちなみに正則は関ヶ原の前夜に「妻子を人質に取られたぐらいで動揺するな」と味方を叱咤する強気な姿勢を外では見せる一方で、自分だけ堂々と側室を持てないことが悔しかったのか城下に「隠れて浮気した者は処刑する」というおふれを出している。

お田鶴 ×
今川家。飯尾連竜の妻。桶狭間で今川義元が戦死し家中が混乱する中、ライバルの井伊家の当主を毒殺させ、混乱に拍車を掛けた。
怒った今川軍に攻撃されると、大将を次々と討ち取りさらに今川家を傾けた挙句、いけしゃあしゃあと降伏したが飯尾連竜は今川氏真に暗殺された。
お田鶴は女城主となるが徳川軍と井伊家を継いだ井伊直虎に攻められ、世紀の女城主対決が実現したものの、敗れて自害した。
家康の妻(今川義元の姪でお田鶴とも旧知の仲か)はその死を惜しみ椿を手向けたため、椿姫の異名で様々な創作に登場する。

6月22日更新

朽木元綱 ▲
浅井家。信長が浅井長政の裏切りで窮地に立たされた時、松永久秀の説得で織田家に寝返った。
関ヶ原では西軍に属したが、小早川秀秋が寝返るとそれに呼応し逆転勝利のきっかけとなった。
しかし事前の約束が確認できなかったため減封された。

赤座直保 △
朝倉家。滅びると織田→豊臣に仕えた。
関ヶ原で朽木元綱らとともに寝返ったが、事前の約束が確認できなかったため所領を没収された。
その後は前田家に仕えるが、氾濫した川を検分中に落馬して溺死した。

小川祐忠 △
浅井家。滅びると信長に仕えたが本能寺の変では明智方についた。その後は柴田勝豊に、勝豊が秀吉に寝返ると豊臣家に仕えた。
勇猛で教養高かったため伊予7万石にまで出世したが、関ヶ原で朽木元綱らと寝返った時に事前の約束が確認できなかったため(他にも悪政を布いていたため、息子が石田三成の親友だったため、と言われる)所領を没収された。
その後は隠居したとも農民になったともされる。
ちなみにその息子はくじけずに豪商となり、子孫は大岡越前でおなじみ小石川養生所を造るなど武士から転げ落ちても不屈の闘志を見せている。

北畠具房 ×
北畠具教の子。信長に降伏するとまだ23歳なのに、12歳の織田信雄を養子にさせられ家を乗っ取られた。
父が暗殺されると3年間幽閉され、釈放された翌年に死去。馬にも乗れないほどの肥満体で「大腹御所の餅喰らい(モチでも食ってろデブ)」と呼ばれていた不摂生の身に3年の幽閉生活は酷だったのか。

北畠具親 △
北畠具教の弟。兄が暗殺されると興福寺の院主という地位を捨て、北畠家の残党を集めて蜂起。敗れて毛利家を頼った。
本能寺の変が起こると再び伊勢に戻り蜂起するがまたも敗北。蒲生家に拾われるが間もなく没した。
還俗してすぐに伊賀へ入り、二度目の蜂起に敗れた後も伊賀に戻っており、復讐のため忍術修行をしていたと考えると熱い。

木造具政 △
北畠具教の弟。分家の木造家を継いだ。信長が攻めてくるといち早く降伏し、北畠家を乗っ取った織田信雄の家老となる。
小牧・長久手の戦いで敗れた信雄が秀吉に降伏すると、信雄を見限ったのか城を去り、そのまま消息を絶つ。

神戸具盛 △
伊勢の国人衆。意欲的に勢力拡大に励み、一度は信長軍を撃退したが、敵わずと見るや織田信孝を養子に迎えた。
だが信孝を冷遇したため信長の怒りを買い幽閉→一族と重臣を処刑された。
釈放され、信孝も死ぬとその後釜に信孝の妻を嫁がせ、したたかに神戸家を存続させた。

奥山常陸介 ×
北畠家。信長に降伏後、北畠具教の暗殺を命じられるが仮病を使い逃げだし、そのまま出家した。
武将風雲録にのみ登場し、知力20武力40くらいの最低クラスのパラメーターを誇る。

関盛信 △
伊勢の国人衆。一族の神戸家らが信長に降伏する中、最後まで抵抗を続けた。
降伏後は織田信孝に仕えるが、神戸具盛と同じく信孝を冷遇したため仲良く幽閉された。
釈放されると蒲生家に仕え、滝川一益に奪われた居城を奪回するなど活躍。与力大名にまで出世した。

鳥屋尾満栄 △
北畠家の宿老。代官を務めるなど知勇兼備で忠誠心に厚い隠れた名将。
北畠具教が暗殺されると、幽閉されていた北畠具房の妻子を救出。北畠具親とともに残党を指揮するが信長軍に敗死した。

六角義治 △
六角義賢の嫡子。家督を継ぐと重臣を暗殺しお家騒動を勃発させた。足利義昭が三好三人衆に追われてきたのでかくまうが、官位につられて義昭を追放した。
信長包囲網に加わるが、気がついたら歴史の表舞台から姿を消した。
その後、豊臣秀次の弓矢の師範として復活。秀吉に御伽衆として仕えたが、御伽衆には足利義昭も名を連ねておりどんな会話を交わしたのか興味深い。

蒲生定秀 △
六角家の宿老。文武両道はもちろん、鉄砲鍛冶をいち早く招くなど先見性に優れた。
子供を重臣や付近の国人衆へ養子や嫁に送って独自の勢力を築き、六角家が衰えると主家をしのぐようになり、城を追われた六角義賢に金を貸し、きちんと返すよう求めた書状が残っている。
六角家が滅びる以前から信長に鞍替えし、息子や孫の蒲生氏郷ともども重用された。

蒲生賢秀 ▲
蒲生定秀の嫡子。父とともにいち早く信長に降った。
本能寺の変が起こると留守居役をしていた安土城から織田家の娘たちをつれて居城の日野城へ立てこもった。明智光秀からは莫大な恩賞で娘たちを引き渡すよう求められたが「信長の恩を忘れていない」と拒絶したため「日野の頑愚殿」と讃えられた。
一方で放棄した安土城は炎上→焼滅しており、職務放棄し居城に逃げ帰った臆病者という評価もある。

蒲生氏郷 ◎
蒲生賢秀の三男。蒲生家が信長に降伏した際に人質に出されたが、信長に大器を見込まれその娘婿となる。
以降は織田・豊臣家の主力として活躍。トップクラスの92万石に上ったが40歳で病死した。
政治手腕にも優れ、茶の湯では利休七哲に数えられ、話術も巧みな人格者、家臣思いの逸話が死ぬほど残されている完璧超人で、秀吉には頼りにされる一方で、決して敵に回してはいけないと最大限に警戒されていたという。

三雲成持 ×
六角家。蒲生家と同様に六角家の家臣というより同盟者に近い権力を持っていた。
織田家に降伏し領地を失い、再起をかけて織田信雄に仕えるが信雄も秀吉に敗北。かつての盟友・蒲生家→徳川家へ移り息子の代で念願叶い旧領へ復帰した。
三雲家は甲賀五十三家の一つで、成持の甥が猿飛佐助のモデルになったという説もある。

九鬼守隆 △
九鬼嘉隆の子。関ヶ原で東軍につくが、父は家名を残すため西軍に属し戦った。
戦後、守隆は軍功と引き換えに父の助命を頼もうとしたが、その前に父は家臣の勧めで切腹してしまい、激怒した守隆はその家臣の首をノコギリで斬り落とした。
その後、病弱な長男ではなく五男に跡を継がせようとしたため、反対する三男と衝突。幕府はお家騒動を幸いと九鬼家を転封処分とし、代々引き継いできた水軍も奪われた。

土岐頼次 ×
松永家。斎藤道三に仕えていたが敗死したため松永久秀を頼った。なにその下克上つながり。
その後、秀吉→家康とうまく渡り歩き旗本になった。
武将風雲録では知力・武力ともに30ちょいの最低クラスのパラメーターを誇る。

奥田忠高 ×
大和の国人衆。松永→筒井→豊臣秀長と大和を治めた大名に仕えていった。
関ヶ原では79歳にして活躍したため息子が旗本に取り立てられた。
武将風雲録では知力40武力20で、土岐頼次や奥山常陸介と最低クラスのパラメーターを競い合う。

柳生石舟斎 ▲
剣術自慢だったが上泉信綱どころかその弟子にすら勝てず、未熟を悟り信綱に弟子入りし、新陰流の二代目となる。(石舟斎の流派は俗に柳生新陰流と呼ばれる)
華々しい名声とは裏腹に、矢で射られたり馬から落ちたりして重傷を負い、後継者の息子も鉄砲傷で剣を握れなくなると隠棲した。
その後、隠田を摘発されて所領を奪われ近衛前久に拾われる。後に家康に請われて奥義を披露し、ぜひ剣術指南役にと誘われるも、老齢を理由に辞退し、代わりに柳生宗矩を推挙した。

柳生利厳 ×
柳生石舟斎の孫。祖父直伝の新陰流の他、槍術と薙刀術も達人の腕前。祖父には将来を見込まれ、叔父の柳生宗矩が柳生家の再興を賭けて関ヶ原に赴いた時も、石舟斎は利厳を参戦させず、手元に置いて修行させていた。
しかし加藤清正に誘われると断りきれず、石舟斎は「利厳は短気で頑固なので、三回失敗するまでは殺さない」という約束を取り付けて出仕させた。
だが仕官は一年持たず、短気な利厳は一揆への攻撃に反対する同僚を殺すと、その足で一揆の首謀者20数名を斬り捨てて鎮圧し、清正に辞去を申し出た。
その後は武者修行の旅に出ていたが、家康に請われて徳川義直の師範に。義直には持てる全てを伝え、祖父から譲られた皆伝の免状や太刀も譲ったという。

足利義栄 ▲
室町幕府14代将軍。足利義輝を暗殺した松永久秀&三好三人衆によって将軍に擁立される。
だが信長の助力を得た足利義昭によって松永らは撃退され、義栄も若くして背中の腫れ物が悪化し死んだ。
・権力闘争に敗れ阿波に逃げた父のもとで生まれたため、将軍でありながら京に一歩も入れなかった。
・そもそも腫れ物が悪すぎて京まで外出できなかったっぽい。
・本人がやったこととして「寺に寄付をした」くらいの逸話しか残ってない。
・献金不足で将軍就任を一度断られた。(三好三人衆がなかば朝廷を脅迫して就任させたらしい)
・没日はもちろんのこと享年すらよくわかっていない。
・wikiにすら画像がない。(肖像画が一切無い?)
などなど不憫なエピソードに事欠かない。

京極高次 △
浅井久政の孫。足利家に仕えていた父から信長の元へ人質として送られる。
本能寺の変では妹の京極竜子が嫁いでいた武田元明とともに明智方につき敗北。竜子が秀吉の側室になったため許された。
その後、もともと浅井家の主家だった京極家の名声を買われ、淀君の妹・初をめとり豊臣家の一門衆となったため、七光りの「蛍大名」と陰口をたたかれた。
だが関ヶ原に際して、高次は西軍の立花宗茂ら数万の大軍を足止めして本戦に参加させず、勝利に貢献した。
戦後、家康は高次を激賞し10万石近くを与えた。

毛利秀頼 ×
織田→豊臣家。斯波義統の息子か。勇猛で数々の戦で軍功を立て、武田家が滅びると南信濃を統治した。
だが本能寺の変が起こると放棄し逃げ出した。その後は秀吉に仕えて手柄を立て、最終的には再び南信濃に10万石を与えられた。
所領は息子ではなく、娘婿の京極高知(高次の次男)に譲った。豊臣姓を許されたためもう一人の「豊臣秀頼」でもある。

鈴木左太夫 ×(雑賀孫市がいれば十分)
雑賀衆の頭目。雑賀孫市の一人。鉄砲隊を率い石山本願寺とともに信長と戦った。
度重なる信長軍の侵攻によって雑賀衆は内部分裂を起こし、信長死後に秀吉へ降伏。
だが危険視する秀吉によって暗殺(または自害を命令)された。

鈴木重秀 ×(雑賀孫市がいれば十分)
鈴木佐太夫の子。雑賀孫市の一人。陽気で目立ちたがりで、行く先々に若い男女が集まったといい無双の孫市は彼が主なモデルになっている。
熱心な一向宗徒で、石山本願寺と連携し信長を苦しめ、下間頼廉と並び「大坂之左右之大将」とうたわれた。
だが本願寺が信長と和睦すると一転して信長に接近し、雑賀衆に追われることに。小牧・長久手の戦いに際しては家康方についた雑賀衆に対し秀吉方で戦った。その後は紀伊へ戻ることなく大坂で没したという。
外見はヤタガラスの旗を掲げ、魚鱗の具足をまとい、愛山護法と名づけた火縄銃を手に、右肩から血を流す仏像画(孫市の身代わりになって負傷した)を携えと、厨二心を刺激してやまない。

鈴木重朝 ×(雑賀孫市がいれば十分)
鈴木佐太夫か重秀の子。雑賀孫市の一人。
雑賀衆の滅亡後は秀吉に仕える。関ヶ原の戦いでは鳥居元忠を討ち取った。
敗戦後は伊達政宗→家康と仕え旗本になり、子孫は鈴木から雑賀へ改姓し当主は孫一の名を継承した。

土橋守重 ×
雑賀衆。根来衆とも血縁を結び大きな勢力を持った。親信長派の鈴木家と対立し、最後は鈴木重朝によって暗殺された。
ちなみに名字は「つちばし」と読む初見殺し。

津田算長 ×
根来衆の頭目。鉄砲伝来を聞くと自ら種子島に渡り、種子島時堯が買った2丁の火縄銃のうち1丁を購入。
職人に複製させて津田流砲術を編み出し、根来の鉄砲隊を作り上げた。
彼が畿内に鉄砲を持ち込んだことで堺を通じ全国へ鉄砲が広まるきっかけとなった。

畠山高政 ×
河内の大名。三好家と交戦→和睦→交戦→和睦→交戦をエンドレスに繰り返した。
その他にも河内を奪われ紀伊に逃げる→河内を奪い返す→河内を奪われ紀伊に逃げるや、家臣に追放される→三好家の援助で復帰→家臣に追放されるを繰り返し、最後は河内の居城に戻れないまま、信長に居城を破棄された。
最後は失意のまま河内~紀伊を放浪し、キリスト教に目覚めたりといろいろ悲しい。

三村家親 ×
備中の大名。勢力拡大に熱心で、尼子方が多い備中の国人衆で初めて毛利家を頼った。家親は勇猛で知られたため、その一報を聞いた毛利元就は「これで備中は手に入った」と喜んだという。
期待通りに備中を統一すると備前、美作へと勢力を伸ばし宇喜多直家を相手に優勢だったが、直家に暗殺者を差し向けられ、射殺された。
鉄砲で暗殺された戦国初の人物かもしれない。

三村元親 ×
家親の子。父が暗殺されると跡を継ぐが宇喜多家に連戦連敗。
そして毛利家が宇喜多家と同盟すると反発して毛利方から離反した。
すかさず毛利軍の侵攻を受けまたも連戦連敗し、追い詰められて最期は切腹を申し出た。

黒田職隆 △
小寺家。官兵衛の父。隠居していたが、離反した荒木村重の説得に赴いた官兵衛が幽閉されると、当主に復帰した。
主家の小寺家も荒木方についたが、職隆は織田方につくことを選んだ。その後、小寺家が滅亡すると当主の息子を密かにかくまい養育し、長じると黒田家に仕えさせた。
城下に長屋を建てて行商人や下級武士を集め情報収集したり、官兵衛のピンチに出撃して救出したりと、息子に劣らず知勇兼備だった。

浦上政宗 ×
備前の大名。父の仇の赤松家と争っていたが(といっても浦上家は赤松家の当主を暗殺し下克上しており報復を受けた形)尼子家が侵攻してくると手を結び抵抗。いったん敗れて堺へまで逃れたものの、旧領を奪い返し、政宗は赤松家の筆頭家老となる。
だが尼子家と同盟しようとしたため弟の浦上宗景らの反発を招き、尼子晴久が没すると孤立。赤松家の当主を追放して復権を図るも、息子の結婚式のさなか、追放した赤松家当主の娘婿に襲撃され戦死。何かとドラマティックな人生だった。

浦上宗景 ×
浦上政宗の弟。尼子家と同盟した兄と対立し、毛利家を頼り独立勢力を築く。
しかし毛利家からも独立色を強め、さらに家臣の宇喜多直家が離反し孤立。
播磨へ追放され数年は抵抗を続け、一度は居城を奪回したものの、鎮圧された。その後は黒田家に仕えたらしい。

三好康長 △
三好長慶の叔父。三好義賢の副将格。義賢の死後は三好三人衆とともに信長と戦う。
三好勢が次々と敗退する中、最後まで抵抗したが、降伏すると信長、秀吉に重用され、四国方面の調略を担当した。
後に豊臣秀次を養子に迎えたため、秀次は豊臣姓になる前、三好秀次と名乗っていた。

三好長治 ×
三好義賢の子。信長に敗北し本国の阿波へ撤退。そこで悪政を敷き、反対勢力を攻め滅ぼしたため猛反発を受け、阿波守護の異父兄・細川真之とも敵対。長宗我部・細川軍に敗れ戦死した。

細川真之 ×
三好家。阿波守護の父は三好義賢に殺され、母の小少将も奪われ、自身は傀儡として利用された。(三好長治は小少将と義賢の子)
三好長治を討ち取ると、長治の弟・十河存保と対立。敗北し討たれた。

小少将 ×
戦国屈指の美女で細川持隆→三好義賢→篠原自遁→長宗我部元親の妻となった。
強いられた結婚ではなく自ら望んで(三好義賢とは夫の生前から不倫していた)次々と嫁ぎ、夫や息子のことごとくが不遇な最期を遂げている。
妲己かなにかの生まれ変わりのような妖女である。

篠原長房 △
三好義賢の重臣。死後は三好三人衆とともに戦い、フロイスによるとむしろ長房が中心人物で三人衆を率いていたという。
一度は信長から畿内を奪回するものの、信長は朝廷を動かし包囲網を解散させたため、長房も阿波へ撤退。
弟の篠原自遁や三好長治が小少将の讒言で長房を疎んじるようになると、長房は嫌気が差したのか引きこもるようになり、それを謀叛の兆しと受け取った三好長治によって討たれた。
知勇兼備の名将で体格も良く、時に他人に妬まれるほどだったが、初期の信長の野望では政治30武力50の低評価。
しかし近作では武力こそ30に下がったが知略・政治が70オーバーと再評価されている。

七条兼仲 ×
三好家。神から怪力を授かるために鏡餅を奉納した逸話で知られ、現在も170キロの餅を担いで歩行距離を競う伝統行事として残っている。
十河存保のもとで長宗我部家と戦い敗死。信長の野望では知力10武力90の脳筋。

池田勝正 ▲
摂津の大名。当主の子ではなかったが武勇に優れたため跡を継いだという。
三好家とともに信長に抵抗したが、降伏後は信長に気に入られ逆に加増され、和田惟政・伊丹家とともに摂津を治めた。
三好三人衆が足利義昭を襲撃した時には単騎で切り込み、金ヶ崎の戦いでも秀吉・光秀とともに殿軍を務めた。
だが一族や重臣の荒木村重が三好家と内通すると、中心人物を斬り殺して出奔。池田家から離れ信長のもとで戦うが、荒木村重が信長方につくと、それに反発してか隠居した。(放浪の旅に出たともいう)

池田知正 △
池田勝正の前の当主の子。荒木村重と共謀し勝正を追放し池田家当主の座を奪回した。
だが信長包囲網に加わって没落し、池田家も村重に乗っ取られ、やむなく信長に降伏するとよりによって村重の配下につけられた。
村重が信長に反乱するとそれに加わるが、高山右近らの寝返りで窮地に立たされる。村重は「城を明け渡して降伏しよう」と言って知正を油断させ、密かに城を脱出してしまう。
残された知正は信長に降伏するも、村重の説得に失敗して恐れをなし、妻子を見捨てて淡路に逃亡した。(妻子や城の女房衆122人が処刑された)
その後、秀吉→家康に仕えて家名を残した。

中川清秀 △
池田家。池田家を乗っ取った荒木村重が信長に反乱すると、従弟の高山右近とともに信長に寝返った。
その後は丹羽長秀らのもとで戦う。本能寺の変では外様の立場から明智光秀に味方になるよう誘われるが、義兄弟の契りを結んだ秀吉が迅速に畿内へ戻ってきたため、逆に秀吉の先鋒として戦った。
戦後、秀吉が「瀬兵衛(清秀の名)、骨折り」と声をかけると気分を害した清秀は「猿め、もう天下をとった気か」と言い返し、秀吉は聞こえぬふりをして通り過ぎたという。
その後、柴田勝家との戦いで佐久間盛政に敗死した。
ちなみに村重が反乱した理由の一つとして、清秀の家臣が石山本願寺へ兵糧を横流しした責任追求を恐れた、というものがあげられ、しかも当初、村重は早々と信長に降伏しようとしたが、それを清秀が説得して翻意させており、清秀は村重の反乱の理由を作り、退路を断ち、最後は信長に寝返って敗北の原因を作ったという、ほとんど疫病神である。

河野通直 ×
伊予の大名。河野家の最後の当主。
跡を継いだ頃にはすでに河野家は衰退しており、なすすべもなかった。
秀吉の四国征伐に際し籠城したが敵うはずもなく、自ら先頭に立ち城内の子供たちの助命を嘆願した。この逸話は城の石碑に現在も残されている。
人格に優れ、24歳に没したがその他にも多くの美談を持つが、祖父も同姓同名で事績がややこしい。

来島通康 ×
村上(来島)水軍の頭領。河野通直(孫の方)の父。多くの作品で来島姓で登場するが実際には村上通康。
河野通直(祖父の方)の家督相続を助け、政治・軍事全面で支えた。
厳島の戦いでは毛利家に援軍として赴き活躍し、その時の恩から毛利元就は河野家と同盟を結び、さらに通康の娘を息子にめとらせた。そうして産まれた子が毛利秀元である。

来島通総 △
来島水軍の頭領。四男だったが母が主家である河野家の娘だったため家督を継いだ。
いち早く秀吉方についたため、本家から追われる身となったが、秀吉からは出身地にちなんで「来島」と親しく呼びかけられ、姓も村上→来島に改めた。
数々の戦で水軍を率い活躍したが、朝鮮出兵で討ち死にした。

能島武吉 ▲
村上(能島)水軍の頭領。毛利家に臣従していたがたびたび反抗し、戦うことも多かった。
関ヶ原に際し息子が戦死し、主家の毛利家も減封、海賊禁止令で村上水軍は壊滅した。
300年後、武吉が著した兵法書を日露戦争の海戦で東郷平八郎が参考にしたという。

尼子晴久 ×
出雲の大名。尼子経久の子。旧名は尼子詮久。
謀将とうたわれた父の跡を継ぐが、父の反対を押し切った毛利攻めで大敗。一気に国力を傾けたが、巧みな内政戦術や地盤固めで盛り返し、徐々に失地を回復した。
しかし脳溢血で47歳で急死。以降の尼子家は滅亡へと突き進む。

尼子義久 ▲
尼子晴久の子。父が急死し21歳で跡を継いだ。父が地盤固めのため大半の一族や国人衆を粛清しており、いきなり窮地に立たされる。
義久は父の死を隠したが毛利元就はそれを察知すると、争っていた石見への不干渉を提案。義久が喜んで応じると、元就はその隙に石見に駐屯していた尼子家臣を次々と調略。さらに出雲へ攻め込むと尼子家に不満を抱いていた国人衆らが続々と毛利家に寝返り戦線が崩壊。
義久は降伏し、毛利家の客分として1610年まで生きた。

尼子勝久 ▲
尼子一族。父が尼子晴久に粛清されたため出家した。尼子家が滅びると山中鹿之介らによって担ぎ出され、お家再興を狙うが毛利軍に敗北。以降は秀吉に仕える。
しかし秀吉軍の主力が前線に出ている間に毛利の大軍に包囲されると、秀吉の撤退勧告を無視して籠城を続け、降伏後に自害した。
その際には山中鹿之介らに「僧侶だった私を大将にしてくれてありがとう」と感謝したと伝承される。

吉岡長増 △
大友家の最長老。大友宗麟の父に解任されたが、死に際し長増を重職につけるよう言い遺したため復帰した。
。毛利家が筑前をほぼ支配下に置いた時、山中鹿之介や能島武吉らを蜂起させ、さらに後方の周防を奇襲攻撃し九州から毛利軍を追い出した。
その後も大友家の中心人物として実質的に主導しており、一度は隠居しようとしたが引き止められるほどだった。

臼杵鑑速 ×
大友家。吉岡長増とともに外交を一手に担い吉岡、吉弘鑑理とともに「三老」に数えられる。
政治・軍事全面で活躍し、死後に大友家が島津軍に大敗すると、立花道雪は「臼杵と吉岡の死後、大友家の政治は無道でしかない」と嘆いた。

吉弘鑑理 ×
大友家。三老の中では武断派で、主要な合戦のほとんどに参加した。
龍造寺隆信が臣従を申し出てきた時、その野心を見抜いていた鑑理は一蹴したため「頼みがいのないヤツ」と恨まれた手紙が残っている。晩年は病気がちだった。

田原親賢 ▲
大友家。妹の奈多が大友宗麟に嫁いだため専権を振るった。
臼杵鑑速の目が黒いうちはおとなしくしていたが、鑑速が没すると台頭した。
耳川の戦いで総指揮をとるも島津軍に大敗し、大友家の滅亡を決定づけたため無能とされるが、島津家の記録には「最も奮闘したのは田原親賢」と記されており、本人はがんばっていたらしい。
その後は大友家の衰退後も当主の大友義統に付き従う。改易されるとやむなく中川家に仕えたが、関ヶ原に際し挙兵した義統のもとに馳せ参じた。
だが黒田如水に敗北した義統が降伏すると中川家に戻り、今度は西軍と戦い討ち死にした。

一萬田鑑実 △
大友家。父や叔父を大友宗麟に粛清されたが、忠誠心を失わず宗麟に仕え続けた。
数々の戦で活躍し、島津家が台頭すると一族の多くが寝返ったが、鑑実は大友家を裏切らなかった。
しかし戦後、一族の寝返りを理由に大友義統に自害を命じられた。
城には住まず麓に館を建て、桜を眺めながら村人とともに酒を酌み交わしていたという。

佐伯惟教 △
大友家。大友宗麟と対立し西園寺家に逃れ10年を過ごした。
毛利の水軍に対抗するため宗麟に招かれて帰参し、水軍を率い、立花道雪の跡を継ぎ腹心となった。
その後、宗麟はキリスト教国を造るため島津領に侵攻。惟教は持久戦を、田北鎮周は速攻を主張し意見が対立。主将の田原親賢は意見をまとめられず、全軍の士気も低いため田北鎮周はなかば捨て鉢に突撃した。
これに引きずられるように大友軍もずるずると前進し、島津家久が後方から迫ると田原親賢は退却を命令。混乱した大友軍は崩壊し、惟教も息子ともども戦死した。この耳川の戦いの惨敗で大友家は滅亡へと突き進むこととなる。

志賀親守 △
大友家。大友宗麟の家督相続に貢献し、子の大友義統の側近としても活躍。
だが耳川の戦いでは合戦に反対していたため積極的に戦わなかったり、島津軍が侵攻してくると裏で内通したりと狸爺。
このとき息子の志賀親度は島津軍に加わって戦ったため戦後に処刑されたが、親守は表立っては反抗しなかったため不問に付された。
また孫の年齢から逆算して60歳は過ぎていた頃に「親守を村に赴任させたら任地を離れて女あさりに出かけてしまう。大友家の存亡の秋に困る」と嘆く宗麟の手紙が残されている。
ちなみに息子の志賀親度は主君・大友義統の妾を寝取っており、エロさはばっちり遺伝している。

志賀親次 △
志賀親度の子。島津家の侵攻に際し父と祖父が内通するなか、小勢で島津軍を何度も破った。島津義弘は「天正の楠木正成」と賞賛。秀吉も絶賛し、大友家の家臣を招いた際に重臣の田原親賢よりも親次を上座につけるほどだった。
そのため大友家中での地位は飛躍的に上がったが、大友義統には妬まれてしまい、保護していたキリシタンを留守中に追放された。
その後、朝鮮出兵で誤報に騙されて撤退を進言したところ、敵前逃亡と見なした秀吉に激怒され、大友家は改易。主家を失った親次はさまざまな大名のもとを渡り歩き、細川家に落ち着いた。

鍋島勝茂 ▲
鍋島直茂の子。父を全面的に補佐した。鍋島家は龍造寺家から穏便に大名職を譲り受けたが、龍造寺家の当主たちが悶死したり、たびたび幕府に復権を願い出たり、直茂の子が急死したことから化け猫騒動が巻き起こり、歌舞伎などでは鍋島父子は悪役に描かれる。
父の陰で目立たないが軍事・政治ともに優れた。個人的には父とは不仲だったという。

龍造寺政家 ▲
龍造寺隆信の嫡子。父が戦死すると跡を継いだが、病弱で臆病だったため重臣で叔父の鍋島直茂が実権を握った。
一揆の鎮圧を命じられると「祈祷師が駄目だって言うし、神社の木が倒れて縁起が悪い」と断り秀吉を呆れさせたため、直茂に大名職を譲らされた。
その後、息子が失意から自害すると後を追うように没した。

百武賢兼 ×
龍造寺四天王。百人に匹敵する武勇から百武の姓を龍造寺隆信に与えられた。
沖田畷の戦いで討ち死に。かつて龍造寺家を助けた蒲池家を攻めるよう命じられたが、涙を流して拒絶したという逸話や、妻も夫に劣らず剛毅で薙刀を手に兵を指揮したという話が伝わる。

円城寺信胤 ×
龍造寺四天王。沖田畷の戦いでは龍造寺隆信の名を名乗って島津軍に突撃し、主君を逃がそうとした。

江里口信常 ×
龍造寺四天王。鍋島直茂が龍造寺家に仕える際につけられた12人の家臣の一人。
沖田畷の戦いでは龍造寺隆信が戦死すると、島津軍の兵に化けて島津家久に接近し、左足を負傷させた。
家久は「無双の豪の者。一族が無事なら取り立てたい」と賞賛した。

成松信勝 ×
龍造寺四天王。かつて大友宗麟の従弟を討ち取った。
沖田畷の戦いでは龍造寺隆信の戦死を聞くと、島津軍に斬り込んで討ち死にした。

木下昌直 ×
龍造寺四天王の五人目。京の出身だが龍造寺隆信の武勇に惚れ込み仕えたという。
沖田畷の戦いでは殿軍を務めて討ち死にしたとも、四天王で唯一生き残ったとも言われる。

有馬晴信 △
肥前の大名。代表的なキリシタン。龍造寺家に従属していたが島津家と結び龍造寺隆信を討ち取る。
秀吉が侵攻してくるとすかさず島津家から寝返る時勢を読める男。
当初はキリシタンを迫害していたが突如として熱心なキリシタンに転じ数万の信徒を保護。秀吉が禁教令を出してからも個人的には信仰を続けた。熱心すぎて領民の子供を集め奴隷として欧州に送ろうとしたことも。
南蛮貿易で力を蓄えていたが、貿易団がポルトガル領で諍いを起こし殺されたことに激怒し、ポルトガル船を報復で攻撃した。これを聞いた本多正純の家臣・岡本大八が「家康が黒船を沈めたことを喜んでいる。賄賂を払えば旧領を返してくれるだろう」と持ちかけると、晴信は喜んで払った。
だがこれは岡本大八の詐欺で、それを知った家康は二人に死を命じる。キリシタンの晴信は自害できず、家臣に首を斬らせたという。

大村純忠 △
初のキリシタン大名。財政回復のためポルトガル船を受け入れキリシタンを保護したため、一時は日本の信徒の半数が大村領にいたという。長崎を発展させたのは純忠といって過言ではない。
自身も熱心な信者となるが、神社や先祖の墓を壊し、僧侶を殺害するなどエスカレートし反発を招いた。
龍造寺家に従属していたが沖田畷の戦いでは空砲を撃つなど積極的に戦わなかったため本領安堵。秀吉の九州征伐でもすぐに降伏した。
6万の領民をキリシタンにするなど、九州にキリスト教国を築き上げ、棄教令が出される前に幸せなまま没した。
ちなみに跡を継いだ息子は改宗しキリシタンを迫害したため、キリシタンに毒殺されている。

土持親成 ×
日向の国人衆。大友家の援助を受け伊東家と戦った。だが島津家に敗れた伊東義祐が大友家へ逃げると、島津家と結び大友家と戦うことに。
大友の大軍と伊東の残党に攻められ捕縛され自害した。初期の信長の野望では日向出身なばかりに仇敵の伊東家の家臣として登場する。

深水長智 △
相良家。代々、相良家の奉行を務める家柄で、長智は和歌の名手でもあり、主君の妻が難産のとき、厄除けの和歌を詠むと快癒したという。
主君が戦死するとそのとき産まれた嫡子を補佐。島津義久が病気だと聞くと願掛けのため一万の発句をし、秀吉の九州征伐が始まると秀吉の前で連歌を披露するなど和歌の才を活かし外交を有利に進めた。(ここまで来ると呪符使いか言霊使いである)
佐々成政が粛清された肥後一揆でも相良家は失態を演じながら、長智の交渉で事なきを得たという。
現在はどういう由縁があってか歯の神として信仰されているらしい。

犬童頼安 △
相良家。姓は「いんどう」と読む初見殺し。謀叛の罪で一族を残らず殺されたが4歳の頼安は出家することで許された。
長じると復讐を狙うが失敗し、修行の旅に出た。その後、相良家に帰参を許されると主力として活躍。
島津家の新納忠元に攻められ籠城すると、忠元と矢文で連歌の応酬をしながら戦い、感銘を受けた忠元の家臣の何人かが頼安に寝返った。
開城後、忠元は家臣を返すよう迫ったが、頼安はそれならもう一戦しようと断ったため忠元は諦めたという。
その後、主君の相良義陽が戦死すると、戦死した場所が踏み荒らされるのを不憫に思い、土手を造ってその上に廟を建てた。
生涯、相良家に仕え続け、没すると7人の家臣が殉死した。そのほとんどが新納忠元から寝返った家臣だという。

7月8日更新

稲姫 ☆
本多忠勝の娘。真田信之に嫁ぐ。気丈かつ聡明で多くの逸話が残されている。
・子宝に恵まれないと自ら信之に側室を取るよう勧めた。
・関ヶ原に際し義父の真田昌幸が(おそらく人質に取ろうと)孫に会いたいと城に立ち寄ろうとすると、稲はそれを拒否し逆に昌幸の家臣らの家族を人質にとった。だがその後、稲のほうから子供をつれて会いに行き昌幸を感心させた。
・大坂の陣で二人の息子が無事に帰ると「本多家は男子が一人戦死したのだから、あなた達のどちらかが死んでいれば面子が立ったのに」と言い放った。

阿国 ☆
歌舞伎の原型となるかぶき踊りを創設した。
伝説的な人物で詳しい業績はほとんどわかっていない。
彼女について「へうげもの」で大胆かつ画期的な解釈がされている。

細川ガラシャ ☆
明智光秀の娘。細川忠興に嫁ぐ。
病弱な息子のため、夫に隠れてキリシタンとなる。それまでは気性が激しかったが入信後は穏やかになったという。
関ヶ原に際して石田三成は諸大名の妻子を人質にしようとするが、ガラシャはそれに抵抗し死を選んだため、三成は強硬に出られなくなり、西軍の戦力は著しく減退した。
ガラシャの死はローマにまで伝わり戯曲として描かれた。

立花ギン千代 ☆
立花道雪の娘。男子がいなかったため、立花宗茂を婿にとるまで立花家の当主だった。
関ヶ原に際し進軍していた加藤清正が家臣から「行く手の立花領は道雪を慕う民が多く残り、娘が兵を率いています」と聞くと迂回していったという話が有名。

綾御前 ☆
上杉謙信の姉。上杉景勝の母。
実子のいない謙信は景勝を養子としたが、上杉景虎との後継者争いが起こると、景虎に娘が嫁いでいたためか綾は景虎に味方した。
戦後は景勝の庇護を受けた。

真田信之 ☆
真田昌幸の長男。真田幸村の兄。
「信濃の獅子」と呼ばれるほど勇猛で、徳川家康に見込まれ、本多忠勝の娘・稲姫をめとった。
関ヶ原に際して父・兄と敵味方に分かれ、訣別の意思を示すため信幸→信之に改名したという。
非常に長命で、お家騒動で2歳の孫が当主になったため93歳にして現役復帰した。(しかも同年に没した)
温厚だったというが、初対面の稲に頭をはたかれそうになって怒気を露わにたしなめたり、幸村らの抵抗で関ヶ原の本戦に間に合わなかった徳川秀忠に逆恨みされたため、反抗の意志を込めてか「家康から拝領した短刀」が入っているとして保管させた箱に、関ヶ原を前に石田三成との間で謀議を交わした書状を隠していた(なんと明治時代になってその事実が発覚した)りと、内には激しさを秘めていた。

早川殿 ☆
北条氏康の娘。今川氏真に嫁ぐ。
今川家の没落後も生涯にわたり氏真に連れ添った。ちなみに武田・北条・今川の三国同盟で結婚した夫婦で唯一離別しなかった。

前田まつ ◯
前田利家に12歳で嫁ぎ11人の子をもうけた。記録に残る限り戦国最多タイ記録。
秀吉夫妻とは家が隣同士で親友付き合いをしており、娘を秀吉の養女に出したり、利家が柴田勝家についた時にはまつが秀吉と直談判し降伏を受け入れさせた。
利家の死後、跡を継いだ息子の前田利長が謀叛の疑いをかけられ、家康との戦いを決意した際には説得して翻意させ、自ら江戸へ出向いて人質になることで処分を免れさせた。
秀吉夫妻のように、利家との間に面白い逸話が多く、佐々成政に城を囲まれた際、倹約に励むあまりろくに兵も集めていなかった利家に「銭に刀を持たせて戦わせたらどうですか」と皮肉を浴びせたのは有名。

京極マリア ×
浅井長政の姉。熱心なキリシタンで、バテレン追放令が発せられた後も、娘の京極竜子が秀吉の側室だったため信仰を続けた。
戦国BASARAでなぜかプレイアブルキャラとして登場する。

京極竜子 △
京極マリアの娘。武田元明に嫁ぐが、夫は明智光秀に加担して後に暗殺された。
絶世の美女で名門の娘だったため秀吉の側室となり、淀君と激しく寵を競った。
だが豊臣家の滅亡後、淀君の侍女を保護したり、豊臣秀頼の遺児を弔ったりと終生にわたり豊臣家へ貢献した。

大政所 △
豊臣秀吉の母。大政所はもともと関白の母の尊称だが現在は秀吉の母を指すことが多い。
徳川家康がなかなか秀吉に従わなかった時、秀吉はまず妹を家康に嫁がせ、つづいて大政所を実質的に人質として送りつけた。
妹と母を差し出された家康はさすがに臣従を誓った。
秀吉には生涯大切にされ、その死を聞いた秀吉は卒倒したという。

朝日姫 △
秀吉の妹。家康への懐柔策として44歳にして強制的に夫と離縁させられ、家康に嫁いだ。
それ以前の業績はほとんど不明で、誰が夫だったのかもよくわかっていない。
嫁いでからわずか4年後に死去。「へうげもの」では秀吉そっくり。

智(日秀尼) △
秀吉の姉。豊臣秀次、秀勝、秀保らを産んだ。
秀次が処刑され、夫は連座して流罪。秀吉の養子になっていた秀勝も朝鮮で病没。秀保も17歳で謎の死を遂げると出家した。
後陽成天皇の命で建立された瑞龍寺の貫首となり92歳まで生きた。

豊臣秀保 ×
智の子。秀吉の甥。
兄の豊臣秀次と同じく悪名高く、妊婦の腹を割いたとか様々な世界残酷物語が伝わるが真偽は不明。
17歳で没し、病死とも秀次の連座とも、家臣に道連れにされたとも言われる。

豊臣秀勝 ×
智の子。秀吉の甥で養子となる。同名で織田信長の子から秀吉の養子になった羽柴秀勝とまぎらわしく、秀吉が邪魔になった羽柴秀勝を暗殺して豊臣秀勝にすげ替えたというトンデモ学説すらある。
事績はいろいろ矛盾していてよくわからないが、岐阜宰相と呼ばれ朝鮮出兵中に病没したのは確か。

正親町天皇 ◯
即位した頃、天皇家は貧窮していて3年間も即位の礼ができないありさまだった。
だが織田信長が天皇家を援助しその後ろ盾を得ると、たがいに利用し合い権力を盛り返す。
病が篤くなると子の誠仁親王ではなく孫の後陽成天皇に譲位した。
信長と昵懇だった誠仁親王と反発し合っていたためと考えられる。

後陽成天皇 △
祖父の正親町天皇から譲位され16歳で即位した。
当時の天下人だった秀吉とは父と信長のようにたがいに利用し合った。
秀吉が没すると、秀吉の息のかかった長男を出家させ、三男に跡を継がせたところも父と似ている。
源氏物語や伊勢物語の注釈を著すなど博識で、余談だが最後に火葬された天皇である。

後水尾天皇 △
父の後陽成天皇から譲位されるが、家康の息がかかっていたため父子の仲は険悪だった。
後に徳川秀忠の娘を妻に迎えさせられる&隠し子の母を追放される&春日局に大奥を牛耳られる等のコンボで徳川家とも険悪になり、激怒した後水尾天皇は幕府に通告せず次女に譲位した。これには即位した女性は結婚できない制度を利用し、天皇家の嫡流から徳川家の血縁を排除する狙いもあった。
その後は娘を傀儡に院制を布き、権勢を振るった。30人もの子をもうけたり遊郭へお忍びで出かけたりとやりたい放題だったが、文化的素養も高く寛永文化をもたらしもしている。

孝蔵主 ▲
ねね→徳川秀忠に仕えた筆頭上臈(主席秘書)。本名は不明。生涯未婚だった。
秀吉が天下人となると妻のねねも政治の中枢に関わったため、孝蔵主はその秘書として伊達政宗への問責、小早川秀秋の転封、豊臣秀次の出頭要請などを取り仕切り「表のことは浅野長政、奥のことは孝蔵主」と言われるほどの権勢を誇った。
だが1610年、突如としてねねの下を離れ徳川秀忠に仕えた。その理由は不明で戦国史上の謎の一つである。

宝蔵院胤栄 △
興福寺・宝蔵院の院主。十文字槍とそれを用いた宝蔵院流槍術を考案した。弟子として可児才蔵が有名。
上泉信綱のもとで新陰流を学ぶなど多くの流派を修めたが、晩年は僧侶が殺生を教えることに矛盾を感じ、弟子に全ての武具を譲り僧侶に専念した。

宝蔵院胤舜 ×
興福寺・宝蔵院の院主。宝蔵院流槍術の二代目。
多くの創作で宮本武蔵と戦っている。