吾輩の猫である

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 ――校内で動物を飼育することは、学校長によって認められた部活動の範囲内を除き、これを禁ずる。



 「いいかお前たち、体育は戦争だ」
 体育教師の貴志はいつものように物騒なことを言った。
 「ひとたび校庭という戦場に立ったら、そこには男や女、運動部も文化部もない。お前たちはみんな一人の兵士だ。小さな油断が死を招くと思え。いいな。
 それではまず準備体操を行う。戦争のかなめは情報収集と事前の準備だ。この二つで勝敗が決まると言っても過言ではない。準備を怠るな。いくぞ、ラジオ体操第一!」
 7月に入ったばかりの空はいやになるくらい晴れわたり、弘長隆史たちの頭を容赦なくあぶっていた。
 「ただでさえ暑いのに貴志の授業なんて受けたくないよな」隆史の横で清家仁がぼやく。
 「水泳とか屋内ならまだしもハードル走だぜ。本当に死にそうだよ」
 「清家仁」貴志が屈伸しながらサングラスをきらりと光らせた。
 「は、はい」
 「戦場で私語は慎め。上官の指示を聞き逃すぞ。罰としてお前だけはラジオ体操第二までやれ」
 「で、でも俺あんなの覚えてません」
 「お前は銃の使い方を習っていないからといって、敵に出会っても無抵抗で撃たれるのか。勘でやれ」
 「は、はあ……」

 自分なりのラジオ体操第二を踊る清家を横目に、隆史たちはぞろぞろとハードルのそばに移動する。元・陸上選手だったという貴志がいきいきとハードル走のコツを語っていると、隆史の脇を赤城英雄がつついた。
 「なんだよ、お前も怒られるぞ」
 「あれ見ろよあれ」
 英雄が指さす先を見ると、白黒ぶちの猫が校庭の隅を歩いていた。まだ子猫といってもいい小さな猫だ。首輪はしていない。
 「生物部が飼い始めたんかな」英雄は口もとをゆがめた。幼少期を九州で過ごした彼は、祖母に夜な夜な化け猫伝説を語られ、大小を問わず猫が苦手なのだ。
 「まさか猫は飼わないだろ」
 「赤城英雄と弘長隆史。私語は慎めと言ったばかりだ」貴志のサングラスがふたたびきらめいた。
 「でも先生、あれ」
 英雄に背後を指され、振り向いた貴志が固まった。
 「せ、戦場に猫をつれてくるとは何事だ」
 「学校につれてくることが問題だと思います」
 「うるさい、とにかく追うぞ。赤城英雄、弘長隆史。ついてこい」言い捨てて貴志は走り出す。こちらに向かってのんきに歩いてきた子猫は、全速力で接近する迷彩シャツにサングラスの男を見て、あわてて逃げだした。
 「清家仁も来い」罰ゲームを終え清家にも声をかけ、貴志は走る。
 「なんで猫相手にも全力なんだよあの人」貴志のあとを必死に追いながら英雄がなげいた。
 「体育は戦争なんだろ。戦争より猫が大事なんか」
 「赤城英雄、私語は慎め」走りながらも貴志の聴覚は衰えていない。
 追われる子猫は、開いていた扉からするりと校内に入った。人間4人の先頭を走る貴志は、距離こそ縮めていないが見失わない程度の位置につけている。スポーツ万能の英雄がそれにつづき、インドア派の隆史と清家は息もたえだえで追走に手一杯のありさま。
 「なあ、俺たち、ついてく意味、あるのか」
 「ない」あえぎながら言う清家に隆史は断言した。
 「戦場で、上官の、命令は、絶対、なんだよ」
 小さくてもさすがに猫の足は速く、貴志の脚力でもまだ追いつけない。子猫はまるで人間たちがちゃんとついてきているか確認しているように、何度もうしろを振り返りながら廊下を疾走していく。
 「しめた、行き止まりだ」貴志が快哉を上げた。猫が曲がった廊下の先はどんづまりで、逃げ場がない。気合の入った貴志の足がうなりを上げ、ぐんぐんと速度を上げる。貴志の手が背中に届きそうになった瞬間、突き当たりの教室の中に猫と貴志はもつれるように飛び込んだ。
 隆史はゴールテープを切る心持ちでしんがりで教室に入った。息を整えながら入り口のプレートを見ると「美術室」と書かれていた。
 「いったいどうしたんだい、貴志センセも、弘長君も」
 意外な声を聞いて目を向けると、そこには北条丈文が立っていた。
 「どうして、北条さんが、ここに」清家が呆然とつぶやいた。新聞部いや三上塚高校一の名物男のことは、もちろん彼も知っている。
 「授業中だろお前は。こんなところでなにしてるんだ」さすがに貴志の息は乱れていない。
 「だから授業の手伝いですよ。木下センセに頼まれて地球儀を取りに来たんです」
 北条の背後で石膏像が立ち上がった――と隆史は一瞬、錯覚した。それなりに長身の北条よりさらに横にも縦にもでかいそれは、新聞部副部長兼柔道部副部長の十文字剛だった。
 「よお、弘長。俺は最近は新聞部に顔出してねえから、ひさしぶりだな」3日ほどじっとしていれば国土地理院も山として認定しそうな十文字の巨体に、隆史は慣れていたが初対面の清家と英雄は圧倒されているようだった。
 「十文字剛、お前は3年だろ。なぜここにいる」軍人だけに規則に厳しい貴志がなおも問う。
 「だから地球儀が地理準備室にもどこにもなくて、困ってたら十文字がここにあるって教えてくれたんですよ」
 「昨日の放課後に美術部が持ち歩いてるのをたまたま見たんだ。――それより、貴志先生こそいったいどうしたんだ」
 「そ、そうだ猫だ。猫はどこに行った」
 北条の出現に気を取られてうっかりしていたが、猫がどこにもいない。
 「どこだ。どこに行った。おとなしく出てこい」貴志は声を荒げるが、美術室には机が並んでいるだけで、隠れる場所など見当たらない。窓は閉じているし、生徒の作品や道具類はすべて隣の準備室にしまわれ、そこにもしっかりと鍵がかけられている。それに。
 「お前たち、猫を見なかったか」
 「いいえまったく。だから、いったいどうしたんです」
 猫が逃げ込んだ先には、北条と十文字がいたのだ。追っていた4人と、北条たちの目をかいくぐって猫はどこに消えてしまったのか。
 「それは面白いですねえ。でもやっぱりなにも見てませんよ」事情を聞いた北条はにやにやしながら言った。
 「それにもし猫がいたら十文字のヤツが見逃すわけがない」
 「かわいいか? その猫かわいかったか?」一本背負いだけでインターハイを制したこともある十文字は顔と巨体に似合わず小動物に目がないのだ。
 「そんな馬鹿な話があるか。北条丈文、十文字剛、お前たちは私語に夢中で見逃したんだろ」
 「貴志センセがあれだけ騒々しく駆け込んできたんですよ。びっくりして僕たちはすぐに振り向きました。でも猫なんて見てませんね」
 「俺が駆け込むより先に猫が入ったから、俺に気を取られて猫は見逃したんじゃないか」
 「でも先生と猫はほとんど同時に美術室に入ったぜ」英雄が異議を唱える。遅れていた隆史もそれは見ていた。
 「じ、じゃあ赤城英雄。俺の次に入ったお前がなにかしたんだろう」
 「英雄は猫嫌いです。おまけに猫アレルギーでさわったら体中にじんましんが出ます」
 「む、むう……」清家の助言に貴志はぐうの音も出ない。
 隆史は頭の中で状況を整理する。子猫は貴志とほぼ同時に美術室に入った。それはすぐ後につづいていた英雄も、後方にいた隆史も清家も見ている。しかし猫の姿は消え、偶然教室にいた北条たちもまったく見ていない。猫は美術室に入った瞬間にかき消えてしまったことになる。

 「そんなに難しく考えることはないよ」隆史の脳内を見透かしているように、北条が言った。
 「これはそんなに難しい問題じゃない。状況から見ても動機から見ても、猫を隠した犯人は一人だし、その手段は非常にシンプルだ」
 「隠した? 北条さんは誰かが意図的に猫を隠したって言うんですか?」
 「そのとおり。そしてもちろん、猫はいまもこの教室内にいるよ。弘長君には、ただそれが見えていないだけさ」




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