彼女の傘は濡れていた

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 弘長隆史は店員の案内を断り、視線を走らせた。入口が見えるテーブルに座った北条丈文が手を上げる。それなりに長い脚を組んだ姿がそれなりに様になっている。
 「遅かったじゃないか」
 「そうですか?」携帯で時間を確認すると、待ち合わせ時刻の5分前だった。
 「北条さんが早すぎるんですよ」
 「デートだったらもっと早く来ただろう」
 「デートじゃありません。気持ち悪いことを言わないでください」
 今日は新聞部の定例会議だった。会議といっても気分転換と親睦会を兼ねて、部員が校外で集まり雑談するというだけの話である。
 だが今日は集まりが悪く、部長の伊達と3年の井上、十文字は欠席。はっきりと確約がとれたのは隆史と北条だけだった。
 「あと何人か来ると思うから、会議はそれからにしよう」
 「ええ」
 「ところで弘長君、なにか面白い話があるんだろう」北条は口の端だけで笑った。
 「さっきから上の空だ。なにをずっと考えているんだい」
 「これは北条さん向けの話だと思うんですが……」隆史は前置きなしで話しだした。この喫茶店に来る道すがらずっと考えていて、北条に尋ねようと思っていたのだ。
 「全く雨が降っていないのに、女性が濡れた傘を持っていたとしたら、それはどういう理由があると思いますか」



 「彼女の傘は濡れていた、というわけか。なんだか淫靡な感じだねえ」
 「そんなことを思うのは北条さんくらいです」
 「とにかく面白そうじゃないか。詳しく話してみたまえ」
 「ややこしい話じゃないんですよ。だからかえって理由がわからなくて」
 隆史が街中で雨も降っていないのに濡れた傘を持った女性を見たという、ごく単純な話なのだ。
 「なんだつまらない。そんなの雨が降っているところから来ただけじゃないのかい」
 「今朝に見た天気予報では全国的に快晴でした。雨はどこも降っていないはずです」
 「ふうん。じゃあ話を面白くするためにそういうことにしておこう。でもそれなら、水たまりにでも傘を落としてしまっただけじゃないかな」
 「ここ何日も雨は降ってませんよ。水たまりなんてどこにもありません」
 「さては弘長君、僕を引っかけようとしてるんだな」北条はアイスコーヒーを飲みながらきざったらしく片目をつぶった。
 「その傘は普通の傘じゃなくて、ビーチパラソルじゃないのかい。その彼女は海に行った帰りなんだ」
 「いたって普通の雨傘でした」
 「そうかい。風で傘を飛ばされて、池や川に落としてしまったとか、そういう現実的な答えはつまらないしなあ」
 「北条さんにもわからないんですか」珍しく頭を悩ませる北条を見て、隆史はなんだか楽しくなってきた。
 「自分にもわからない答えを他人が解けないからって喜ぶのはみっともないよ」
 「そうですねえ」ちょっとくらいの皮肉では隆史の愉快な気分はおさまらない。
 「だいたい推理するにはあまりにも材料が少ないし、こんなのじゃ正解なんて出せないよ。僕はその女性の年恰好さえ聞いてないんだよ」
 「30代前後の一般的な女性でした」
 「なんのヒントにもなりゃしない」
 「北条さんにも解けない謎があるんですね」
 「おいおい、いつから君はそんなに性格が悪くなったんだい」
 「きっと北条さんの影響です」
 君は僕のこと先輩だって思ってないだろうとぼやきながら、北条はアイスコーヒーの氷を噛み砕く。
 「そりゃあ無理すればいくらでも答えは出せるよ。たとえばそうだな……その女性は銀行強盗で、濡れた傘を持っているのが仲間への突入OKの合図だったとか」
 「無理すぎます」
 「じゃあちょっと前提条件を変えよう。弘長君が見たその女性は、ロシア美人だった」
 「はい?」
 「まずそもそもの話からしておかしいんだ。雨がすこしも降っていないのに、どうして彼女は雨傘を持っていたんだい? 数日前からずっと快晴だったんだろう。
 傘は別の用途に使われたんだ。こんな話を知らないかい。3年前にロンドンでロシアの情報機関員が暗殺されたのだが、そのときに使われた凶器が傘だったんだ」
 「傘? 必殺仕事人じゃあるまいし傘でどうやって殺すんですか」
 「傘の先端に放射性物質を仕込み、刺した」
 「…………えっ?」
 「冗談みたいだが事実だよ。あとこんな話も知らないかい。ある少女が、海外に住む父親から宝石のペンダントを贈られた」
 「今度はなんの話ですか」
 「いいから聞きたまえ、その宝石はまるで濡れたように青白く光る美しいもので、彼女はそれを肌身離さずつけていた。だが彼女はその日から徐々に体調を崩していった。髪が抜け、下痢や嘔吐をくり返し、やがて若くして息を引き取った。実は彼女が贈られた宝石は、強い放射能を出すラジウムの原石だったんだ」
 「…………」
 「傘が濡れたように見えたのは、放射能の光だった。彼女はロシアの暗殺者だった」
 「…………冗談、でしょう?」
 「当たり前だ」北条はそっけなく言った。
 「君がもう少し理系だったら、この話のおかしい部分は山ほど見つけられるはずだよ。帰ったら調べてみるといい」
 「わざわざ宿題をくれてありがとうございます」
 「休みの日まで勉強を見てくれるなんて後輩思いの先輩だろう?」

 そのとき、喫茶店のドアにとりつけられた古めかしい鈴が鳴った。
 出迎えた店員より頭ひとつ高い位置から、日向香織の顔がのぞいた。
 「ああ、香織ちゃん。来てくれたんだね。弘長君と二人で飽き飽きして……た……」
 北条は絶句した。
 彼の視線をたどった隆史も、口を開いて放心した。
 「どしたの? 二人とも」日向香織は首をかしげる。彼女は雨も降っていないのに傘を手にしていた。

 彼女の傘は濡れていた。

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