五つの明日
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「現場から戻ってすぐなのに悪いね。私なりにいろいろと考えてみたんだ。いや、推理なんてたいそうなものじゃない。何度もくりかえし事情聴取して、耳にたこができた話だろうが、もういちど最初から事件を整理してみたいんだ。君にもいろいろとアドバイスをしてもらえれば助かるよ。

 被害者は議員。自室で後頭部を2回殴られて死亡した。
 凶器は部屋にあったドライバーで、指紋は拭きとられていた。窓が破られており、室内には物色したあとがあった。玄関の施錠もされておらず、窓を破って侵入した犯人が玄関から逃走――という状況だけ見れば物取りの線が濃いが、被害者に近しい犯人が偽装したのかもしれない。これだけではどちらとも断定はできないね。
 死亡推定時刻は今日、3月31日の午前9時半から10時半のあいだ。ただしこれは解剖上の見地で、実際にはもっと狭められそうだ。というのも、被害者の秘書が10時に被害者――いちいち被害者と連呼するのも気がめいるな。今後はHと呼ぼう――Hに電話をかけたが、誰も電話に出なかった。不審に思った秘書は用事を切り上げ、Hの自宅に向かい、午前11時、死体を発見し通報した。

 これだけならなんの変哲もない事件だが、一点だけおかしなところがある。
 それはHが血文字で「あした」と書き残していたことだ。
 検視の結果、血文字はHが書いたものにまちがいなく、後から細工された様子もない。いわゆるダイイング・メッセージというやつだ。平田君はたしか、推理小説が好きだったね。ダイイング・メッセージとは、被害者がいまわのきわに、犯人を示すために遺す手がかり――そんな解釈でいいのかな。

 それにしても、これは奇妙だ。誰かを――無論この場合は犯人だろうが――指すにしては、人名ではなく「あした」などと書いている。
 ――うん。なるほど。
 ダイイング・メッセージは、まんいち犯人に見つけられた時に消されてしまわないよう、解りづらく書く場合があるのか。一見なんでもないような言葉に見えて、よく考えてみれば犯人を明確に示している、そんな場合もあるんだね。Hは頭を二回殴られている。これは一度目の打撃では死にいたらず、その間に薄れかけた意識の中でHが、必死にメッセージを遺そうとしたことを、表しているのだろう。
 Hにまだ息があることに気づいた犯人はトドメを刺した。だがその時になぜ「あした」を消さなかったのか……。「あした」はHの右手のそば、誰にでもすぐ解るところに書かれていた。犯人が気づかなかったはずはないのだがね」



「ありがとう。ああ、砂糖は入れなくてかまわなかったよ。コーヒーに異物を入れるのは嫌いなんだ。
 おや、平田君。右手をケガしているね。ハンカチなんか巻いてどうしたんだ。そうか、犬に噛まれたのか。そういえば現場にも犬がいたね。ヨークシャーテリアと言うのかい。小さいけれど気の強そうな犬だった。娘さんに名前は「ライ」だと教えてもらったよ。

 さて、事件の検討に戻ろうか。
捜査線上に浮かんだ容疑者は5人。Hは政治家として人並みに恩を売り、恨みも買っていたようだね。困ったことにそのいずれもが「あした」に関わりがあった。「あした」という言葉が彼らの誰を指していても不思議ではなかったんだ。

 まずは綿貫幸三(わたぬき・こうぞう)。土建会社の社長だ。
 Hとは午前8時から9時まで自室で話していた。これはHの秘書が証言している。9時にH宅を辞したが、同時に秘書も出かけてしまったため、自宅にはHがひとり残されていた。9時以降に綿貫が舞い戻り、犯行に及んだとしても不都合はない。
 「あした」が綿貫を示す理由はその名字だ。実は彼の姓は「四月一日」と書き「わたぬき」と読ませるものだった。だが彼はこの姓を気にいらず、通称として「綿貫」をいつも用いている。「四月一日」はただの戸籍上の姓だと言っていたね。
 今日は3月31日。「四月一日」は「あした」だ。

 2人目は三枝遥香(さえぐさ・はるか)。Hの実の娘だ。
 アメリカに留学していて、「あした」の4月1日に帰国し、Hとひさびさに会う予定になっていた。これも秘書の証言だ。だが実際には彼女は一週間前に帰国し、Hの前妻――彼女の母親だね――の家に泊まっていた。4月1日に帰ると嘘をついていたのは、不仲な父と顔を合わせるのを遅くするため、と言っていた。4月2日にはアメリカに戻るそうだ。事件当時、彼女はH宅にほど近いセンター街で買い物をしていた。もっぱらウインドウ・ショッピングで済ませ、彼女のアリバイを証明する者はいない。

 3人目は噂の前妻、三枝明日香(さえぐさ・あすか)。
 Hとは昨年に別れ、慰謝料でいまだにもめているらしい。離婚の原因はHの浮気だ。気の強い女性で、たびたびH宅に怒鳴り込んでいた――とこれも秘書が証言している。明日香はHと別れたのち花屋を開業したが、業績は芳しくなく、資金の工面に苦労しているそうだ。それもこれも、Hが慰謝料をきちんと払わないせいだと、公私ともにHを恨んでいる。動機だけなら彼女が最も濃いと言えるかもしれない。事件当時は休業日だったため、店を開けず自宅でくつろいでいた。
 言うまでもないが「あした」はそのまま彼女の名前「明日香」を指している。

 おっと。すまない。コーヒーをこぼしてしまった。
 なにか拭くものはないかな。おいおい、それは君の包帯代わりのハンカチだろ。ありがたいが、傷口が開いてしまったらことだよ。悪いね。本当に大丈夫かい。ハンカチは洗濯して返すよ。ああ、そうだ、ガーゼを引き出しにしまっていたんだ。これを巻いておきなさい」



「4人目は川島愛子(かわしま・あいこ)。Hの愛人で、離婚の原因になった女性だね。
 結局、籍は入れず、半年前に別れてしまったそうだ。前妻との慰謝料問題でHに嫌気がさした――なんて考えるのは下衆の勘ぐりかな。
 彼女はそのものずばり「あした」という名前のスナックを経営している。あのダイイング・メッセージをそのまま信じるなら、彼女が犯人だとするのがいちばん自然だね。四月一日だの、明日に会う約束だの、ひねらずにいいのだから。彼女もアリバイはない。午前10時前後は夜の開店に備え、まだ夢の中だったそうだ。

 最後の5人目は、何度となく名前の挙がったHの秘書、田代譲(たしろ・じょう)。
 元ボクサーという異色の経歴で、よく「あしたのジョー」とからかわれていたそうだね。彼の妻が臨月で、9時まで綿貫の応接をしたのちは、Hの許しをもらい、病院に飛んだそうだ。様子をうかがおうと10時にHに電話を入れたが通じず、心配になって戻ったところ、10時30分に変わり果てたHを発見し、通報した。一見、彼に嫌疑はかかりそうにないが、綿貫が帰宅した午前9時以降にHを殺し、それから病院に向かったと考えれば不思議はない。身重の妻が待つ病室へ、血に汚れた身体で駆けつけたと思うのは、嫌な想像だがね。

 いまのところ、捜査線上に浮かんだのはこの5人だ。Hの職業を思えば、もっとごろごろいてもおかしくなさそうだが、とりあえずはこの5人の中から検討してみようじゃないか。と言っても、真相を探るには材料は少なすぎる。証言も証拠もなにもかもね。だからここはひとつ、ダイイング・メッセージ一本に絞って考えてみようと思うんだ。Hが生死の境で最後の力を振りしぼり、必死に遺してくれた手がかりにね。

 私はあえて、犯人はわざと「あした」を現場に遺したと考えてみた。犯人はこのように事件が混迷することを予測し、あえて「あした」を消さなかった、とね。遺体の状況から見て、Hは二度目の打撃で命を絶たれた。一度目の打撃で瀕死の重傷を負いながらも、Hは必死にダイイング・メッセージを書き残したんだ。犯人は必ずそれを見ている。なのにHの告発を消さなかった理由はなんなのか。それは「あした」が複数の人物を指すことを知っていたからだと私は考える。はたして「あした」が示す犯人は誰なのか――。

 まずは綿貫幸三から考えてみよう。
 「あした」は彼の本当の名字「四月一日」を指すものなのか。
 これはちょっとおかしいと思う。秘書の証言を信じるなら、二人は初対面だ。Hが事前に綿貫の戸籍上の名字を知っていたことはありえない。もちろん、世間話として「明日は四月一日ですが、これは私の名字と同じなんです」と綿貫が言いだしても不自然ではない。しかしダイイング・メッセージとして考えると、これはきわめて不自然だ。なぜなら、綿貫が犯人だと示す告発として「あした」はあまりに直截的すぎる。もし綿貫が犯人なら、そんな言葉を遺されては致命的だ。まちがいなく消し去ってしまっただろう。

 次に三枝遥香の場合だ。
 「あした」は翌日に会う娘を告発するものなのか。
 これもありえない。Hが自分の娘を表すにあたり「あした」などと遠回りな表現をするだろうか。おなじ平仮名で3文字なら「はるか」でも「むすめ」でも良かったはずだ。わざわざ「あした」を選ぶ必然性がない。また、遥香の側から見てもダイイング・メッセージを消さずにいたのはおかしい。なぜなら「あした」は自分の母親である明日香を告発したものとも、とらえられるからだ。遥香に「あした」を消さない理由はない」




「まったくタバコ好きというのはくだらないものだよ。喫煙スペースなんて狭いところに閉じこめられてまで、煙が恋しくなるなんてね。そういえば平田君はタバコを吸わないのかい。なに。学生のころに一生分吸った、と。それはそれで考え物だねえ。まあなんにしろ、禁煙できたならたいしたものだ。無駄話はこのくらいとして、それじゃあ話に戻ろう。

 次は――三枝明日香だったね。
 「あした」はそのまま彼女の名前を示すものなのか。
これも非常におかしい。まずHの視点から見て「あした」と書き残すものだろうか。読みをそのまま「あす」と書くはずだし、「あした」と変形させたところで、それが明日香を指していることは明白なのだからね。明日香にしても同じだ。「あした」が自分を指していることにたちどころに気づくだろう。彼女にとって「あした」が指す漢字は、毎日のように見慣れた文字なのだから。

 「あした」のママ、川島愛子はどうだろう。
 これは論外と言うべきだな。Hにしても愛子にしても、「あした」が示すものはあまりに明白すぎる。書く理由も消さない理由もない。

 となると、最後のひとり田代譲だが――。
 Hにすれば、秘書を指すのにわざわざ愛称の「あしたのジョー」を引っぱりだすのは奇異なことだ。「たしろ」「じょう」「ひしょ」同じ3文字でもっと解りやすい言葉はある。田代にしても聞き慣れた自分の愛称だ。「あした」を目にすれば即座に自分のことと解ったろう。

 さて、これは困ったね。容疑者全員を否定してしまった。5人とも「あした」に当てはまらなかったようだ。私の考えがまちがっていたのだろうか。ダイイング・メッセージの解釈は誤っていたのだろうか。そもそもダイイング・メッセージというものは、それが指し示すものが、ただひとつでなければならない。たとえ幾通りに解釈できたとしても、答えはひとつ。Hが訴えたかったものはひとつきりでなければならないんだ。ところが死の淵に立ち、Hは冷静な判断ができなかった。死にものぐるいで書き残した「あした」は、かえって事件解明を困難にしてしまった。

 いや待て。はたしてそうだろうか。
 Hは本当に自分の周りに「あした」は一人しかいないと思っていたのか。「あした」はたったひとつの真実しか示さなければならないはずだ。
 それならば、もうひとつの考え方がある。
 「あした」しか犯人を表す言葉をHが知らなかったとすれば?
 その人物をあまりに知らなすぎて「あした」しか書けなかったとしたら?
 それ以外の言葉を書けば犯人にたちどころに消されてしまう、崖っぷちの言葉が「あした」だとしたら?

 発想を逆転させてみるんだ。
 Hが犯人を示すために「あした」としか書けなかった理由はなにか。Hはその犯人を知らなかったのではなかろうか。

 そういえば平田君、犬に噛まれたと言っていたね。その傷はいつ噛まれたんだい?
 しかも包帯ではなくそんなハンカチしか巻くヒマがなかったなんて、よほどあわてていたようだね。先週、君の家にお邪魔したときは犬を飼っていなかったね。だいたい君は犬アレルギーじゃなかったかな。それなのにどうして犬に近づいたんだい。
 いや、違うな。
 君は犬に近寄らざるをえなかった。なぜなら犬は、君が襲ったHのそばにいたのだから。
 「あした」は四月一日エイプリルフール。嘘をついてもいい日。そして嘘は英語で「ライ」だ。あの犬は四月一日に拾ったから「ライ」と名づけたと娘さんに聞いたよ。
 突如として現れ、自分を襲った君を示す言葉をHは知らなかった。
 手がかりはただひとつ。犬に噛まれたこと。ライに噛まれたこと。「あした」に噛まれたこと。

 ああ、もちろん僕の想像にすぎないよ。
 だけど現場を離れるときに、犬の歯を調べるように言っておいた。さっき君にもらったハンカチを鑑識に渡しておいたから、もうすぐ結果が出るんじゃないかな。ライの歯に残った血液と、君のハンカチに残った血液との、照合結果がね。

 Hは君を知らなかった。
 顔も知らない。名前も知らない。なぜ襲われるのかも知らない。手がかりを遺すには「犯人が犬に噛まれたこと」を伝えるほかなかった。だがストレートに「いぬ」「かまれた」と書いても君に消されてしまうのが関の山だ。そこでHは考えた。いまにも途絶えそうな意識の中で必死に頭をひねり「あした」という言葉を導きだした。

 一方の君は、「あした」が自分を指すなんて考えもしなかった。
 あまりにも思い当たるフシがないからね。「あした」が自分を追いつめるなんて考えもしなかった。ああ、これはいまさら言うまでもないことだが、Hは被害者(ひがいしゃ)のHではない。被害者平田総一郎(ひらた・そういちろう)のHだ。被害者、被害者と連呼するより平田、平田と言われたほうが君には据わりが悪いだろうから、あえてHと呼んだんだ。
 ありふれた名前ではあるが……平田君。偶然にも同じ名字だね。いや、ひょっとすると偶然じゃないのかな。
 君はこの被害者とどんな関係なんだい?」